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離縁されましたので、あの子の食事は明日からご自分で  作者: 蒼井玲


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第10話:返せ、と使者が言う

 広間に通されたのは、二人だった。


 一人は執事のフーベルトさん。あの家で三十年に近い。もう一人は、書類の入った革の鞄を提げた男で、こちらは知らない顔だった。領境で見た二騎とは別人だ。ただ、二人が広間に入ってくるとき、窓の外の中庭に、あの二人が立っているのが見えた。


 セヴェリンさまは、暖炉を背にして立っていた。座らなかった。だから、誰も座らなかった。


「グレーヴェン辺境伯閣下」


 フーベルトさんが頭を下げた。角度は正確だった。この人の礼はいつも正確だ。


「フェルトハイム伯爵家より参りました。用件はひとつでございます」

「聞きましょう」

「当家のご嫡子を、お返しいただきたい」


 わたくしは、扉のそばに立っていた。ニルスさまは、わたくしの後ろにいた。前に出さないようにしていたのだけれど、こういうときの子どもは、たいてい大人の思うようには立っていない。


「返す、というのは妙な言い方だ」と、セヴェリンさまが言った。

「妙でしょうか」

「あれは物ではない」

「物とは申しておりません。ですが、籍はフェルトハイムにございます。父君の同意なくご嫡子を国境の外へ移すことは、認められておりません」


 フーベルトさんは、鞄の男から書類を受け取って、卓に置いた。


「こちらが伯爵家の家籍謄本と、伯爵の署名した引渡請求でございます。ご確認ください」


 セヴェリンさまは、書類を見なかった。


「甥だ」

「はい」

「私は伯父だ。五年、門で追い返された」

「それは当家の判断でございます」

「今回もそちらの判断か」

「今回は、当家のご嫡子が無断で連れ出されております。判断以前の話でございます」


 連れ出された、という言葉に、わたくしの後ろで動く気配があった。袖を押さえたけれど、間に合わなかった。


 ニルスさまが、わたくしの横に出た。


 フーベルトさんが、その方を見た。顔を見て、それから、目を戻した。


「ご嫡子。お迎えに上がりました」


 ニルスさまは、何も言わなかった。いつもなら、ここで頷く。困ったときには頷く方だ。


「馬車を用意しております。お屋敷では乳母が待っております。王都からお呼びした、たいへん行き届いた方でございます」


 頷かなかった。


「ご嫡子」


 三度目に呼ばれたとき、その方が口を開いた。


「……ぼくは、かえりません」


 小さい声だった。広間は石で、天井が高い。小さい声はよく響かない。それでも、全員に聞こえた。


 フーベルトさんは、少し黙った。


「お気持ちは分かりますが、そういうことではございません」

「かえりません」

「ご嫡子」

「ニルスです」


 わたくしは、その横顔を見た。


 この方が自分の名前を口にしたのを、わたくしは初めて聞いた。


 フーベルトさんは、それには答えなかった。答える必要のないことだと思ったのだと思う。代わりに、初めてわたくしのほうを向いた。


「ミリアムさま」

「はい」

「あなたさまはもう、当家の者ではございません」

「存じております」

「離縁は成立しております。ご嫡子との縁も、同時に切れております」

「はい」

「法の上で、あなたさまとご嫡子のあいだには、何もございません」


 何もございません。


 その言葉は、正しかった。三年は、法の上には何も残していない。血もない。籍もない。証書も、権利も、肩書きもない。


「ですから、お返しいただきたい」と、フーベルトさんは言った。「本日中に」


 セヴェリンさまが口を開こうとした。わたくしは、その前に言った。


「お食事は、どうなさいますか」


 誰も答えなかったので、わたくしはもう一度言った。


「あの方のお食事は、どなたが」

「乳母が」

「乳母さまは、何をお作りになりますか」

「……それは、乳母の職分でございます」

「四十七ございます。順番も、濃さも、時刻も。帳面に書いて、卓に置いてまいりました」


 フーベルトさんの目が、わずかに動いた。


「あの帳面は、いまどちらに」


 わたくしは、そう訊いた。十二冊ある。離縁の夜、卓の中央に積んで、いちばん上の表紙の傾きまで直してきた。


「……存じません」

「ご覧になっておいでではないのですね」

「わたくしの職分ではございません」


 職分。あの家では、みんなその言葉を使う。わたくしも、使われる側でずっと聞いていた。


「ミリアムさま。恐れながら、たかが食事のことで——」


 フーベルトさんは、そこで言葉を切った。切ったのは、わたくしが何か言ったからではない。わたくしは何も言っていない。


 自分で切った。この人は三十年、あの家にいる。何を言えばまずいかを知っている。


「本日中に、と申し上げました」


 そう言い直して、頭を下げた。角度は、やはり正確だった。


 二人は宿を取ると言って、村へ降りていった。中庭の二人も、いつのまにかいなくなっていた。


 夕方、セヴェリンさまが、わたくしを呼んだ。書斎は狭かった。卓に、地図と書類が広げてある。


「法では負けます」


 その人は、前置きなしにそう言った。


「籍はあちらにある。父親が生きていて同意していない。勝ち目はない」

「はい」

「引き延ばすことはできます。国境をまたぐ引渡には手続きが要る。書面を往復させれば月単位で稼げる」

「稼いだあとは」

「……」

「稼いだあとは、どうなりますか」


 セヴェリンさまは、地図の端を指で押さえた。


「同じです」

「はい」

「私はあの子の伯父だが、伯父には何の権利もない。あなたには、それより少ない」


 わたくしは、頷いた。少ないのではない。無いのだ。フーベルトさんの言い方のほうが正確だった。


「ひとつだけ道があるとすれば」と、その人は続けた。「あちらが『返さなくてよい』と言うことです」

「言いますでしょうか」

「言わないでしょう」

「はい」

「言わせる材料が、こちらに無い」


 材料。わたくしは、その言葉をしばらく考えていた。


「セヴェリンさま」

「はい」

「材料と申しますのは、書いたものでもよろしいのでしょうか」

「……どういう意味ですか」

「いえ。何も持っておりませんので、意味はございません」


 書斎を出るとき、その人がもう一度呼んだ。


「ミリアム殿」

「はい」

「本日中に、とあちらは言った。今日は、もう暮れます」

「はい」

「今夜は誰も来ません。門は閉めます」


 それは、慰めではなかった。今夜は来ない、というだけの話だ。それでも、わたくしはその一日を数えた。数えるのは、得意だった。


 その夜、わたくしは自分の部屋で、帳面を開いた。十三冊目。ここへ来てからの分だけが書いてある。二十日ぶんに満たない。


 乳、匙二杯。ふたくち。半刻遅れ。ひとくち。黄蕪、合わず。


 これで何を証明できるだろう、と思った。二十日ぶんの紙で、三年を証明することは、できない。


 わたくしには、何もなかった。

 お読みくださって、ありがとうございます。


 「たかが食事のことで」と言いかけて、フーベルトは自分で口を閉じました。三十年その家にいる人は、どこに地雷があるかだけは知っています。


 法の上では、ミリアムに何もありません。ではあの十二冊は、いまどこにあるのでしょう。


【その日の献立】 麦の粥に乳。—— ふたくち。使者の前でも、変わらず。

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