第11話:三年ぶんの重さ
翌朝、厨へ行くと、竈の前が空いていた。
豆の鍋は端に寄せてある。火のいちばん通るところが、きれいに空けてあった。台の上には、木の椀と、小さな鍋と、乳の壺が並んでいた。乳は昨日届いたものではない。壺が冷たかった。今朝、村から来たものだ。
ギゼラさんは、隅の椅子で豆を選っていた。
「おはようございます」
「ああ」
「あの、竈が」
「豆は昼でいいんだよ」
「よろしいのですか」
「よかないよ。昼に炊くと、夜までに味がしみない」
「では」
「いいから使いな。あたしゃ四十年やってんだ。しみない豆くらい、どうとでもする」
わたくしは礼を言おうとした。言いかけたところで、その人が先に言った。
「乳はそこ。今朝のだよ」
「村から」
「取りに行かせた」
「……ありがとうございます」
「うるさいね」
背中を向けたままだった。わたくしは、それ以上何も言わずに鍋を出した。
粥を炊いた。竈の火は、外の焚き口とはまるでちがった。強さが変わらない。息を止めて板を押さえていなくていい。時刻どおりに炊き上がった。
ニルスさまは、ふたくち召し上がった。
厨に鍋を返しに行くと、ギゼラさんが訊いた。
「どうだった」
「ふたくちです」
「昨日は」
「ひとくちでした」
「そうかい」
その人は豆を選りながら、少しだけ間を置いた。
「明日の朝も、空けとくよ」
昼を過ぎても、村から誰も上がってこなかった。
本日中に、とフーベルトさんは言った。昨日のうちに来なかったのは、書面の準備をしていたからだと思う。あの人はいつも書面を揃えてから動く。わたくしは中庭の薪を積み直しながら、門のほうを何度も見た。三度見て、四度目からは数えるのをやめた。
荷馬車が上がってきたのは、日が傾きはじめたころだった。
村の荷運びの馬車だった。若い男が一人で、荷台には藁と、樽と、それから木箱がひとつ。
「グレーヴェン館へって預かってきました」
「どちらから」
「街道の宿場から回ってきたやつです。宛先は……ええと」
男は木箱の側面を見た。
「『グレーヴェン館 ミリアム様』」
「差出人は」
「書いてないですね。宿場の主人が言うには、二日前に東から来た荷馬車が置いていったって」
東。わたくしは、その木箱を見た。大きくはない。膝の高さくらいだ。
「重うございますか」
「そこそこ。石でも入ってんのかな」
男は荷台から下ろしてくれた。わたくしは中庭の石畳の上で、その箱を開けた。
藁が詰めてあった。藁を掻き分けると、下から、革の表紙が出てきた。
一冊。その下に、また一冊。
わたくしは、両手を止めた。
藁の中から、順に出した。石畳の上に、一冊ずつ並べていった。全部で、十二冊あった。
いちばん古い一冊の表紙は、革が擦り切れていて、角が丸くなっている。三年前に厨からもらった、誰かの使い残しだ。いちばん新しい一冊は、まだ角が立っている。
箱の底に、もうひとつ入っていた。布の袋だった。開けると、干した林檎が入っていた。
手紙はなかった。一枚も、一行も入っていない。
わたくしは、石畳の上にしゃがんだまま、しばらく動かなかった。
あの人は、余計なことを言わない。三十年あの家にいて、余計なことを言わずに済ませてきた人だ。名前を書けば、あの家であの人の立場がどうなるかを、知らないはずがない。だから書かなかった。書かないことも、あの人のやり方だった。
「ミリアム殿」
顔を上げると、セヴェリンさまが中庭に立っていた。石畳に並んだ十二冊を見ている。
「それは」
「帳面でございます」
「……十二冊の」
「はい」
その人は、しゃがんで、いちばん古い一冊に手を伸ばした。伸ばして、途中で止めた。
「開いても」
「どうぞ」
開いた。最初の頁だ。日付と、麦の粥と、零口。
次の頁も、零口。その次も。
セヴェリンさまは、頁を繰る手を止めなかった。七頁目まで来て、そこで止まった。
ひとくち、と書いてある。
「……七日」
「はい」
「七日、零を書き続けたのですか」
「はい」
「書かない日は」
「ございません」
その人は、頁の上に指を置いた。置いたまま、しばらくそうしていた。
「三年ぶん、一日も」
「ございません」
風が出てきて、藁が少し飛んだ。わたくしは慌てて、帳面を集めた。石畳の上に置いておくものではなかった。
部屋へ運んでいると、階段の途中でニルスさまに会った。
その方は、わたくしの腕の中の束を見た。それから、いちばん上の一冊に手を伸ばした。
「ご覧になりますか」
頷いたので、卓に置いて開いてやった。この方はまだ字が読めない。あの家では、教わっていなかった。
「ここが日付でございます。ここが、その日にお出ししたもの」
指でなぞると、その方も同じところをなぞった。
「ここが、召し上がった数です」
その頁は、去年の春だった。みっつ、と書いてある。三くち召し上がった日だ。よく晴れていて、庭に出た。そのことも端に書いてある。
ニルスさまは、その字をじっと見ていた。
「全部、ニルスさまのことが書いてございます」
その方が顔を上げた。何か言いたそうだったので、待った。今日は、待てば出てくることがある。
「……ぜんぶ」
「はい。ぜんぶ」
わたくしは十二冊を積み直して、その高さを手で示した。膝より少し低いくらいだ。
「これだけございます」
その方は、積んだ束の上に手のひらを置いた。置いて、少し押した。倒れないことを確かめるみたいに。
その夜、広間の卓に十二冊を積んだ。
積んでから、いちばん上の一冊の表紙が斜めになっているのに気づいて、直した。直してから、離縁の夜も同じことをしたのを思い出した。
あのとき、この十二冊は開かれなかった。
「明日、いらっしゃいますね」
わたくしはそう言った。セヴェリンさまは、暖炉のほうを見ていた。
「来ます」
「そのときは、わたくしが出てもよろしいでしょうか」
「あなたが」
「はい」
「法の上では、あなたに立場は無い」
「存じております」
「向こうはそれを言います。何度でも」
「はい」
「それでも出ますか」
「出ます」
その人は暖炉から目を離して、卓の上を見た。
「何をするのですか」
「読んでいただきます」
「読ませて、どうなりますか」
「分かりません」
わたくしは正直に答えた。
「あの方たちが読んで、それでもお連れになるのでしたら、わたくしにできることはございません。ですが、読まずにお連れになるのは、もう嫌でございます」
「もう」
「一度、ございましたので」
セヴェリンさまは、何も言わなかった。卓の上の十二冊を、しばらく見ていた。それから、暖炉に薪を一本足した。
「門は、明け方に開けます」
お読みくださって、ありがとうございます。
マルテは名前を書きませんでした。書けばあの家での自分がどうなるかを知っている人です。書かないという署名の仕方が、この世にはあります。
明朝、門は明け方に開きます。卓の上には十二冊。
【その日の献立】 麦の粥に乳、時刻どおり。—— ふたくち。




