第12話:一ページずつ
フーベルトさんは、朝のうちに上がってきた。
昨日と同じ二人だった。広間へ通されて、昨日と同じ場所に立った。ちがうのは、卓の上に十二冊が積んであることだけだった。
「昨日の件でございます」
フーベルトさんは、卓の上をちらりと見た。それだけで、目を戻した。
「伯爵よりの引渡請求は有効でございます。本日、ご嫡子をお連れいたします」
「その前に」
わたくしは、一歩前に出た。
フーベルトさんが、こちらを見た。昨日、この人がわたくしのほうを向いたのは一度きりだ。今日は、最初から見ている。
「ミリアムさま。昨日申し上げたとおり——」
「読んでいただけますか」
わたくしは、いちばん古い一冊を取って、卓の中央で開いた。
「一頁目でございます。三年前の、九月十四日」
フーベルトさんは、頁を見なかった。
「読んでいただけますか」
「……ミリアムさま」
「麦の粥。零口、と書いてございます」
わたくしは、頁をめくった。
「九月十五日。麦の粥、湯で薄めたもの。零口」
めくった。
「九月十六日。零口」
「ミリアムさま」
「九月十七日。零口。九月十八日。零口。九月十九日。零口」
めくる音だけが、広間に響いた。石の広間はよく響く。紙の音でも響く。
「九月二十日。麦の粥、湯で薄めたもの。——ひとくち」
わたくしは、そこで手を止めた。
「七日でございます」
フーベルトさんは、何も言わなかった。
「ひとくち召し上がるまでに、七日かかりました。この七日のあいだ、あの方は毎朝、卓の前に座っておいででした。座って、匙を持って、飲み込めずにおいででした」
「……」
「わたくしはその七日、零と書き続けました」
鞄の男が、身じろぎをした。
この人は書類を扱う人間だ。日付と数字が七日続けて並んでいるものが何を意味するか、たぶん、この場でいちばん早く分かった。
「二冊目を開きます」
わたくしは次の一冊を取った。
「翌年の三月。ここから、ふたくちになっております。半年かかりました」
「ミリアムさま。何をなさりたいのですか」
「読んでいただいております」
「読んで、何になりますか」
「なりません」
わたくしは、正直にそう言った。
「これは法の書面ではございません。証書でもございません。ここに書いてあることで、あの方をお連れになる権利が消えるわけではないと存じております」
「では」
「ですが、四十七ございます」
わたくしは、十二冊の上に手を置いた。
「あの方が召し上がれるものは、四十七ございます。粥の濃さは、その日の顔色で変えます。前の晩に眠れなかった日は水を二割足します。同じものを三日続けると四日目に食べなくなります。ですから四十七を順に回します。順番も書いてございます」
「乳母に写しをお渡しになればよろしい」
「写しでは足りません」
「なぜ」
「ここに書いていないことがございますので」
フーベルトさんの眉が、わずかに動いた。
「あの方は、許しがないと召し上がりません」
鞄の男が、書類を揃える手を止めた。
「匙を口へ運ぶ前に、必ずこちらをご覧になります。頷けば召し上がります。頷かなければ、いつまでもお待ちになります。冷めてもお待ちになります」
「……そのようなことは」
「三年、そうでした」
わたくしは、いちばん新しい一冊を開いた。
「そして、これは書いても伝わりません。書けば、次に誰かが読んだときに『頷けばよいのだ』と思われます。ちがいます。頷き方がございます」
わたくしは、卓の向こうのフーベルトさんを見た。
「四十七を、どなたが引き継がれますか」
フーベルトさんは、答えなかった。
この人は三十年あの家にいる。答えの持ち合わせがないときに黙る人だ。嘘をつける人なら、ここで乳母の名前を出しただろう。出さなかった。
「フーベルトさん」
「……はい」
「乳母さまは、もうお着きですか」
鞄の男が、フーベルトさんを見た。フーベルトさんは見返さなかった。
「王都より、まだ」
「まだ」
「……手配は進んでおります」
「あの方は、いま何を召し上がっておいででしょうか」
これは、意地の悪い問いだった。わたくしは自分でそう思いながら、訊いた。訊かずにいられなかった。
「わたくしの職分では」
「はい。存じております」
わたくしは、頭を下げた。
「差し出がましいことを申し上げました。ご無礼をお許しください」
フーベルトさんは、しばらく卓の上を見ていた。十二冊を見ていた。今日は、目を逸らさなかった。
「……本日は、持ち帰ります」
そう言った。
「伯爵に諮ります。書面は置いてまいります」
「かしこまりました」
「ミリアムさま」
「はい」
「その帳面は、当家の厨から出たものではございませんか」
わたくしは、いちばん古い一冊の表紙に手を置いた。革の擦り切れた、角の丸い一冊だ。
「はい。いただいたものでございます」
「返却を求める権利が、当家にはございます」
「ございますでしょうね」
わたくしは、そう答えた。フーベルトさんは、それ以上は言わなかった。頭を下げて、出ていった。角度は、やはり正確だった。
扉が閉まってから、セヴェリンさまが口を開いた。
「あれは、持ち帰ると言いました」
「はい」
「昨日は本日中と言っていた」
「はい」
「一日、動きました」
わたくしは卓の端に手をついた。立っているのが急に難しくなって、そこに寄りかかった。
「ミリアム殿」
「申し訳ございません。少しだけ」
「座ってください」
「はい」
椅子に座ってからも、しばらく手が震えていた。三十年あの家にいる人に、あんな口のきき方をしたのは初めてだった。わたくしはあの家で、誰にも言い返したことがない。
「勝ってはおりません」
「勝っていません」
「はい」
「ですが、負けてもいない」
セヴェリンさまは、そう言った。
「あちらは伯爵に諮ると言った。諮るというのは、判断が変わりうるということです」
わたくしは、二階へ上がった。
粥は、いつもの濃さで、いつもの器に取った。
ニルスさまは、窓の下に座っておられた。山の見える窓だ。門は、こちらからは見えない。見えないところに座って、外を見ておられた。
匙を取って、こちらを見る。わたくしは頷いた。
ふたくち。昨日と、同じだった。
器を下げようとすると、その方は皿の縁に指をかけて、少しだけこちらへ押した。押してから、手を戻した。
三口目は、無かった。それでも、わたくしはしばらく待った。待っているあいだに、手の震えが止まった。
馬車の音が遠くなってから、わたくしは十二冊を片付けはじめた。
開いたままの一冊を閉じようとして、手が止まった。
右の頁の下のほうに、わたくしの字でないものがあった。
薄い。鉛のようなもので書いてある。字は小さくて、傾いている。
——ゆげが立つと、だめ。
わたくしは、その行を何度か読んだ。
ゆげが立つと、だめ。そのとおりだった。熱いものは匂いが立って、匂いが立つとあの方は口を開けない。わたくしがそれに気づいたのは、二年目の冬だ。
この帳面は、厨の使い残しだった。前に誰かが使っていたということだ。厨の者の誰かが、覚え書きに使ったのだろう。粥の炊き方の心得のようなものは、どこの厨にもある。
わたくしは、その行の上に自分の書いた字を並べて見比べた。わたくしの字のほうが大きい。傾きも逆だ。
書き損じの上に、わたくしが書き足していたのだろう。そう思って、閉じた。
ふたつめの章にお付き合いくださって、ありがとうございました。
ミリアムは何ひとつ勝っていません。書面は置かれたままですし、法は一行も動いていません。ただ、読ませました。それだけの回です。
十二冊を片付けていて、開いたままの一冊に、自分の字でないものを見つけます。薄い鉛の字で、傾きが逆でした。
ブックマークと評価は、次の帳面の紙代に充てさせていただきます。
【その日の献立】 麦の粥に乳。—— ふたくち。使者のいる朝も、変わらず。




