第13話:知らない字
次の日から、わたくしは一冊目を読み返した。
最初から、一頁ずつ。自分が書いたものを読み返すのは、思ったより難しい。目が滑る。書いたときのことを覚えているから、読まずに思い出してしまう。だから、指で押さえて、一行ずつ追った。
厨の仕事の合間にやっていたら、二日かかりそうだった。二日目の朝、ギゼラさんに言われた。
「あんた、坊主を見ててやろうか」
「よろしいのですか」
「豆を選らせるよ。手が二本ありゃできる」
「あの方は、まだ人に慣れておりませんので」
「慣れさせりゃいい」
わたくしは、ニルスさまの顔を見た。その方は、ギゼラさんの手元の豆を見ていた。木の盆に、白と茶色が混じっている。
「ニルスさま。豆を分けていただけますか」
頷いた。
椅子を運んで、盆の前に座らせた。ギゼラさんが白いのを一粒つまんで、右の椀に入れてみせた。その方は、しばらく見ていた。それから、一粒つまんで、右の椀に入れた。
「そう。そうだよ」
ギゼラさんは、それ以上は教えなかった。褒めもしなかった。次の一粒も、その次も、黙って見ていた。
わたくしなら、たぶん、褒めていた。褒めると、この方は手が止まる。褒められるのは、何かを判定されるということだからだ。判定を待つ癖は、食べるときだけのものではない。
ギゼラさんは、それを知っていたわけではないと思う。ただ、子どもをいちいち褒めない人なのだ。四十年、兵たちの飯を作ってきた人だから。
わたくしは厨の隅の台に一冊目を広げて、読みはじめた。
最初の頁は、覚えている。麦の粥。零口。
二頁目。三頁目。
四頁目で、指が止まった。
右下の余白に、薄い字があった。
——おとがすると、とまる。
鉛のようなもので書いてある。小さくて、傾いている。わたくしの字ではない。
わたくしは、その行をしばらく見ていた。
音がすると、止まる。そのとおりだった。皿の音、扉の音、廊下の足音。何かの音がすると、あの方は匙を口へ運ぶ途中で止まる。止まって、しばらく待つ。だからわたくしは、食事のあいだは厨の扉を閉めるようになった。二年目の春だ。
次の頁をめくった。
しばらく何もなかった。八頁、九頁、十頁。十一頁の上の余白に、また薄い字があった。
——あさは、ひかりのあるところで。
わたくしは、頁を繰る手が速くなった。
十九頁。
——ひとりだと、たべる。だれか見てると、とまる。
二十六頁。
——ゆげが立つと、だめ。
三十四頁。
——すきなのは、あまいものではなくて、やわらかいもの。
四十一頁。
——さむい日は、たべない。ひざにのせるとたべる。
五十三頁。
——おこらないこと。おこると、つぎの日もたべない。
六十頁。
——まちがえてもいい。あしたがある。
全部で、十七あった。あとで数えて、そう分かった。そのときは数えていない。ただ、次を探して繰っていた。
二冊目を開いた。何もなかった。三冊目にも、四冊目にもない。
書き込みは、一冊目にだけあった。
わたくしは、一冊目を閉じて、表紙を見た。革が擦り切れて、角が丸くなっている。厨からもらったときには、もうこうなっていた。使い残しだと言われた。
使い残し。たしかに、頁は白かった。書き込みは余白にしかない。
けれど、これは覚え書きではない。
厨の者が粥の炊き方を書き留めるなら、こうは書かない。分量を書く。時間を書く。火加減を書く。この十七行には、分量も時間も火加減もない。
書いてあるのは、全部、あの方のことだった。
音がすると止まる。朝は光のあるところで。一人だと食べる。誰か見ていると止まる。これは、粥を作る人の書き方ではない。
これは、その子を見ている人の書き方だ。
そして、日付がない。わたくしは日付から書く。何をおいても日付を書く。書かないと、あとで比べられないからだ。
この十七行には、一つも日付がない。比べるつもりがなかったのだと思う。積み上げるつもりも、たぶんなかった。思いついたときに、その場で、忘れないうちに書いた。それだけの書き方だった。
急いでいた人の字だ。
わたくしは、台の前で立っていた。厨の向こうで、豆が椀に落ちる音がしていた。ひとつずつ、ゆっくり落ちている。
「ミリアムさま。何かあったのかい」
ギゼラさんの声で、わたくしは我に返った。
「いえ」
「顔が白いよ」
「……少し、埃を吸いました」
嘘をついた。なぜ嘘をついたのか、自分でも分からなかった。
盆の上では、豆がだいぶ分かれていた。白は白、茶は茶。ニルスさまはまだ一粒ずつ運んでいる。急がない。急がないから、間違えない。
その夜、わたくしは一冊目を持って、書斎へ行った。
セヴェリンさまは書きものをしていた。わたくしは机の端に一冊目を置いて、四頁目を開いた。
「これを、ご覧いただけますか」
「帳面」
「はい。ですが、わたくしの字ではないものが混じっております」
その人は、頁を引き寄せた。右下の余白を見た。
それだけだった。それだけで、動かなくなった。
「セヴェリンさま」
返事がない。
「厨の方の覚え書きかと思っておりました。ですが、書いてあることが、あの方のことばかりで」
返事がない。
「十七ございます。すべて一冊目です。もしお心当たりが——」
「ミリアム殿」
その人が、わたくしの言葉を切った。顔を上げていた。燭台の火が、下から当たっていた。
「この帳面は、どこで手に入れましたか」
「厨からいただきました」
「誰から」
「……ロージーさんだったかと。使い残しがあるから、と」
「フェルトハイムの厨から」
「はい」
セヴェリンさまは、頁の上に手を置いた。置いてから、その手をどけて、もう一度置いた。
「ほかの十六も、見せていただけますか」
わたくしは頁を繰って、順に示した。その人は、一つずつ読んだ。読むのに、ずいぶん時間をかけた。字数は全部合わせても、手紙一枚に足りないのに。
六十頁のところで、手が止まった。
——まちがえてもいい。あしたがある。
「これは」
「はい」
「……これは、誰に言っているのですか」
わたくしは、その問いに答えられなかった。考えたこともなかった。書き込みというのは、書いた人が自分のために書くものだと思っていた。
「あの方に、でしょうか」
「読めません。あの子は字が読めない」
「では、次に帳面を使う者に」
「そうかもしれない」
その人は、頁から手を離した。
「今夜は、少し考えさせてください」
「はい」
「明日の朝、話します」
その人は、そう言った。
わたくしは頭を下げて、書斎を出た。
扉を閉めるとき、隙間から中が見えた。燭台の火が揺れて、机の上の影が動いた。
その人は、まだ同じ頁を見ていた。六十頁だった。
お読みくださって、ありがとうございます。
書いた本人が読み返すというのは、思うより難しいものです。目が滑ります。書いたときのことを思い出すだけで終わるので、指で押さえて一行ずつ追わないと読めません。
明日の朝、二階の突き当たりの扉が開きます。ここへ来てから、一度も開いたのを見ていない部屋です。
【その日の献立】 麦の粥に乳、蕪をひとかけ。—— ふたくちと、ひとかじり。




