第14話:ズザンネの覚え書き
蕪は、二かけにした。
昨日が一かけで、ひとかじりだった。増やすときは、一つずつにする。二つ増やして駄目だったとき、どちらが原因か分からなくなるからだ。
ニルスさまは、粥をふたくち召し上がってから、蕪に手を伸ばされた。
噛む音がした。小さい音だ。噛んで、止まって、それから、もう一度噛んだ。
二かけ目も、同じだった。噛む途中でやめなかったのは、初めてだった。
帳面に書いた。蕪、二かけ。ふたかじり。
朝、粥を出したあとに呼ばれた。
書斎ではなく、二階の廊下だった。突き当たりの扉の前に、セヴェリンさまが立っていた。その扉は、来てから一度も開いているのを見たことがない。
「妹の字です」
その人は、前置きなしにそう言った。
わたくしは、手に持っていた一冊目を、少し持ち直した。
「ズザンネさまの」
「はい」
「……なぜ、お分かりになりますか」
「傾きです」
セヴェリンさまは、扉の鍵を回した。錆びていて、二度手を止めた。
「妹は右利きでしたが、字が右へ傾いた。左へ傾く者は多いが、右は珍しい。それから、急ぐと仮名になる」
「仮名に」
「読み書きは得意でなかった。父に何度も直されて、直らなかった」
扉が開いた。
埃の匂いがした。窓に板が打ってあって、暗い。セヴェリンさまが板を一枚外すと、光が入った。
子どもの部屋だった。
小さな寝台。低い机。壁に、木彫りの鳥が三つ並べて掛けてある。机の上には、石が並んでいた。川原の石だ。大きさの順に、七つ。九つで家を出た子の部屋が、そのまま残っていた。
「この鳥は」
「私が彫りました」
「お上手でいらっしゃいます」
「下手です。三つ目でようやく鳥に見えた」
わたくしは、三つを見比べた。たしかに、いちばん左のものは首と胴の境がない。真ん中は羽がついている。右のものだけ、目が彫ってあった。
「一つ目と二つ目は、捨てるつもりでした」
「なぜ、掛けてあるのでしょう」
「妹が返さなかった」
その人は、それ以上は言わなかった。
「九つのときに、王都の伯母のところへ出しました」と、しばらくしてから言った。「母が死んで、女手がなくなったので」
「それから、こちらには」
「戻っていません。次に会ったのは、嫁ぐ年でした」
「では、十五年」
「十五年です」
わたくしは、広間の柱のことを思い出していた。左の列。九本で止まっていた列。
あれは、この方の妹だ。
「机の中を」
言われて、机の抽斗を引いた。紙が入っていた。落書きと、書き取りの練習と、それから小さな帳面が一冊。
開いた。
字が、同じだった。
小さくて、右へ傾いて、仮名が多い。一冊目の余白にあったものと、同じ手だ。書いてあるのは、鳥のことだった。裏の林で見た鳥の色と、鳴き方。日付はない。
わたくしは、一冊目を開いて、二つを並べた。
子どもの字と、大人になってからの字だ。十五年ぶん離れている。それでも、同じだった。「の」の丸め方が同じで、「た」の最後がはねない。急いだところで仮名になるのも同じだった。
わたくしは、その帳面を持ったまま、しばらく動けなかった。
「ミリアム殿」
「……はい」
「顔色が」
「申し訳ございません」
わたくしは、机に手をついた。
三年、書いていた。一日も欠かさず、十二冊。それはわたくしのものだと思っていた。わたくしが始めて、わたくしが続けたものだと。
ちがった。
わたくしは、途中から書き継いでいた。最初の頁の余白には、もうその人の字があった。音がすると止まる。朝は光のあるところで。一人だと食べる。わたくしが二年目の冬に気づいたことを、その人はわたくしが嫁ぐ前に知っていた。
そして、誰にも渡さずに死んだ。
いや、ちがう。
わたくしは、そこで顔を上げた。
「セヴェリンさま」
「はい」
「あの帳面は、厨に置いてありました」
「……はい」
「使い残しとして、厨の棚に」
その人は、何も言わなかった。
「ズザンネさまは、あれを厨に置いていかれたのだと思います」
わたくしは、自分の声が少し高くなったのが分かった。
「あの家で、あの方の食事に触るのは厨の者です。次に誰かが困ったとき、厨の帳面を探すはずです。ですから、厨に」
「渡す相手がいなかった」
「はい」
「渡す相手がいないから、置いた」
「はい」
言ってしまってから、わたくしは口をつぐんだ。
これは、わたくしが勝手にそう思っているだけだ。ただの使い残しで、ただの書き損じかもしれない。死んだ人の考えていたことなど、誰にも分からない。
分からないけれど、わたくしは三年、それを持っていた。持っていて、一度も気づかなかった。毎晩開いて、毎晩閉じて、一度も。
あの家では、余白を見る余裕がなかった。その日の口数を書いて、明日の献立を決めて、それで終わりだった。決めなければ明日が来ない。来ないものだと思っていた。
「まちがえてもいい。あしたがある」
わたくしは、その一行を声に出した。
「わたくしは、あれを何度も読んだはずでございます。頁を繰るたびに目に入っていたはずです。読んでおりませんでした」
「読まなかったのではない」
「……」
「読めるものだと思っていなかった。あなたは、あの家で誰にも何も渡されなかった」
セヴェリンさまは、そう言った。わたくしは返事をしなかった。返事のしようがなかった。
抽斗の奥に、もうひとつ入っていた。
紙の束だった。二十枚ほどあるだろうか。左の端に穴を開けて、革紐で綴じてある。紐は固く結んであった。結び目が潰れている。何度も締め直した結び方だった。
表には何も書いていない。
「これは」
わたくしが手を伸ばすと、セヴェリンさまが先に取った。取って、しばらく持っていた。
束の縁が、少しめくれている。端の一枚に、字が見えた。仮名だった。それ以上は、めくらないと読めない。
「子どもの頃のものではございませんね」
「……なぜ」
「紙が新しゅうございます。ほかのものより白い」
その人は、束を光にかざした。たしかに、机の抽斗にあったほかの紙とは色がちがった。二十年ぶんの黄ばみがない。
「嫁いだあとに、こちらへ」
「戻っていないと申し上げました」
「ですが、これは」
「……」
セヴェリンさまは、束を持ったまま動かなかった。
「開けてよろしいのでしょうか」
「……」
「セヴェリンさま」
「今日は、ここまでにしましょう」
その人は、束を机に戻した。戻して、抽斗を閉めた。
「窓の板は、外しておきます」と、それだけ言って、部屋を出ていった。
わたくしは、しばらくその部屋にいた。
窓から光が入って、埃が見えた。この部屋には、九つの子の持ち物しかない。嫁いだ人の持ち物は、ひとつもない。あの家に持っていって、あの家に残った。そしてたぶん、もう無い。
わたくしの荷も、鞄ひとつだった。あの家に置いてきたものが十二冊あって、それは戻ってきた。戻してくれた人がいた。この方には、戻してくれる人がいなかった。
机の上の石を、大きさの順に並べ直した。ひとつだけ、順番がずれていたからだ。直してから、これは誰が崩したのだろうと思った。二十年、誰も入っていない部屋なのに。
お読みくださって、ありがとうございます。
字の傾きで人を見分けられるというのは、その人を長く見ていた者にしかできません。セヴェリンは五年、門で追い返されていました。
抽斗に残された束は、革紐で綴じたままです。紐の結び目が、何度も締め直した形をしていました。
【その日の献立】 麦の粥に乳、蕪をふたかけ。—— ふたくちと、ふたかじり。




