第8話:柱の刻み目
乳を落とした粥は、三日続けてふたくちだった。
増えないけれど、減らない。わたくしはそれを帳面に三行書いて、四日目には粥を少し濃くしてみた。五と五を、五と四半に。ふたくちのままだった。濃さは関係ないらしい。そういうことも書いておく。
その日の午後、洗濯物を取り込んでいて、気づいた。
ニルスさまの寝間着の丈が、足首より上に来ている。あの家から着てきたものだ。裸足で走ったときのまま、洗って干して、また着せていた。
わたくしは寝間着を広げて、しばらく見ていた。ここへ来て、まだ十日ほどだ。十日で子どもが伸びるものだろうか。伸びたのではなくて、もともと合っていなかったのかもしれない。
合っているかどうかを、わたくしは知らない。あの家で、この方の背丈を測ったことが一度もなかったからだ。
服は、季節ごとに仕立て屋が来て置いていった。寸法は仕立て屋が持っていた。わたくしは一度も見せてもらったことがない。見せてくださいと言えば見せてくれただろうけれど、言わなかった。厨と部屋のあいだを往復するだけで、一日が終わっていた。
洗濯場で、若い兵に訊いてみた。
「このあたりに、仕立て屋はございますか」
「村に一人。冬は来ませんけど」
「では、繕いものは」
「ギゼラばあさんですね。縫うのは、あの人がいちばん上手いんで」
「ギゼラさま、と仰いますか」
「ばあさんでいいですよ。本人がそう言うんで」
その人は、干し場の竿を直しながら続けた。
「厨も、あの人のなんです。四十年やってて」
「四十年」
「だから、戻ってきたら……いや、なんでもないです」
言いかけて、やめた。わたくしは、それ以上訊かなかった。訊かなくても、だいたい分かった。
夕方、若い兵に頼んで、小刀を借りた。
「柱に傷をつけてもよろしいでしょうか」
「柱に、傷」
「お子さまの背丈を刻みます。よくやることではないかと思うのですが」
「ああ」
その人は、少し変な顔をした。
「それなら、あっちの柱がいいですよ。広間の、暖炉の横の」
「決まった柱がございますか」
「昔からあそこだって、ギゼラばあさんが。俺は刻まれてないですけど」
広間の暖炉の横に、太い柱が立っていた。煤で黒くなっている。手で触ると、ざらついた。
「ニルスさま。こちらへ」
呼ぶと、来た。柱の前に立たせて、背中をつけてもらう。踵をつけて、顎を引いて。この方は言われたとおりにする。言われたとおりにするのは得意だ。
「動かないでくださいませ」
頭のてっぺんに定規を当てて、柱に印をつけた。それから小刀で、横に一本、線を彫った。
「できました」
離れて見る。柱の、思ったより低いところに、細い線が一本。
ニルスさまは、その線を見ていた。手を伸ばして、指でなぞった。それから、自分の頭に手をやって、また線を見た。二度そうした。
「そこがいまの、ニルスさまでございます」
その方は、こちらを見上げた。何か言いたいのだと思って待ったけれど、言葉にはならなかった。代わりに、もう一度線に触った。
「また来月、刻みます。増えていたら、線が二本になります」
「……ふえますか」
声が出た。この方が自分から訊いたのは、雨の街道以来だった。
「増えます」
わたくしは、はっきりそう言った。本当は分からない。三年で四十七しか増やせなかった人間が、背丈のことなど請け合えるはずがない。それでも、そう言った。
「増えます。ですから、また測ります」
その方は、線から離れがたそうにしていた。柱の前に立って、もう一度背中をつけてみている。自分では見えないのに、確かめている。
「わたくしが見ておりますので、大丈夫でございます」
わたくしは小刀を返しに行きながら、あの家の柱のことを考えていた。
フェルトハイムの屋敷にも、太い柱はあった。玄関の広間に二本。磨いてあって、傷ひとつない。傷ひとつない柱を、わたくしは三年見ていた。見ていて、何も思わなかった。刻むという習いを、知らなかったわけではない。実家の柱には、兄たちの線が並んでいた。わたくしは、思いつかなかった。ただ、思いつかなかった。
それが、いちばんいけないことのような気がした。
夜、広間に戻ると、暖炉に火が入っていた。
セヴェリンさまが椅子に座って、書きものをしていた。わたくしは邪魔をしないように、柱のほうへ行った。昼間に彫った線を、もう一度見たかった。
火の明かりで、柱の表面がよく見えた。煤の下に、うっすらと何かがある。
しゃがんで、袖で煤を拭ってみた。
線が、出てきた。
わたくしが彫ったものではない。もっと古い。深さも幅もちがう。一本ではなかった。指でなぞっていくと、次々に出てきた。ずいぶん下のほうから、上へ。
二種類あった。
右寄りに並んでいるものと、少し左寄りに並んでいるもの。左のほうが、どの高さでも少しだけ低い。年下の子だ。二人の子どもの線が、何年かぶん並んでいる。
線の横には、小さな数字が彫ってあった。年だろう。数えると、右の列は十二本あった。左の列は、九本で止まっていた。
止まったところから上には、何もない。柱はまだ続いているのに、そこから先は煤だけだった。九本目の線は、ほかのどれよりも深く彫ってある。何度もなぞったのだと思う。彫った人か、彫られた人かは分からない。
育ちきる前にやめたのか、やめさせられたのか。家を出たのかもしれない。子どもの背丈を刻むのをやめる理由は、たいてい、そのどれかだ。
わたくしが今日彫った線は、その止まったあたりの、少し下だった。指で幅を測ってみた。二本ぶんもない。
この子は、あと二本ぶんで、追いつく。
「先の領主さまの、お子さまがたでしょうか」
わたくしは、椅子のほうへ声をかけた。
セヴェリンさまは、書きものの手を止めていた。止めたまま、しばらく何も言わなかった。
「……そうです」
短い返事だった。わたくしは煤を拭いた袖を払って、立ち上がった。
「ずいぶん昔のものですね」
「昔です」
その人は、また書きものに戻った。わたくしは柱のことを、それ以上訊かなかった。訊くほどのことでもないと思ったからだ。
煤は、拭いたところだけ落ちていた。拭き残しがあると見苦しいので、明日ちゃんと拭こうと思った。古い線の上の煤を落とせば、二つの列がもっとよく見えるはずだった。
そこまで考えて、やめておくことにした。人の家の柱を、断りもなく磨くものではない。
部屋へ戻る前に、もう一度だけ振り返った。
セヴェリンさまは、書きものをしていなかった。柱を見ていた。
お読みくださって、ありがとうございます。
背丈を刻む柱は、どこの家にもあるものではないそうです。ある家には、たいてい何本も線が入っています。無い家には、一本も入っていません。
村で足を悪くしていた厨番が、明日戻ってきます。その厨は、四十年その人のものでした。
【その日の献立】 麦の粥に乳、五と四半。—— ふたくち。四日続けて。




