第6話:味のない領主さま
旅は三日かかった。
一日目は峠を越えた。宿は山小屋のようなところで、厨は貸してもらえなかった。セヴェリンさまが買ってくれた小鍋を、部屋の暖炉で使った。灰が入らないように蓋を押さえていたら、手のひらに火ぶくれができた。
二日目は川沿いを走った。宿場が大きくて、厨も借りられた。ニルスさまは馬車に酔って、昼のあいだ何も召し上がらなかった。夜に粥をひとくち。
三日とも、ひとくちだった。減っていないのだから、それでよかった。旅のあいだに減らさないというのは、わたくしにとって難しい仕事のひとつだ。
三日目の昼過ぎに、領境を越えた。
道が細くなって、両側が林になる。石の標が一本立っていて、そこから先がグレーヴェン領だという。馬車の窓から見ていると、標のそばに人がいた。
馬に乗った男が二人。並んで、道の脇に寄っている。通行の邪魔にならないように寄っているのだけれど、休んでいる風でもない。こちらを見ていた。
外套は上等だった。旅の埃はついているのに、仕立てのいいものだと分かる。
馬車はそのまま通り過ぎた。わたくしは、後ろの窓からもう一度見た。二人はまだ、同じところに立っていた。
「セヴェリンさま」
「見えました」
「お知り合いでしょうか」
「いいえ」
その人はそれきり何も言わずに、御者に何か短く指示をした。馬車は少し速くなった。
わたくしは膝の上の帳面を閉じた。道で見かけただけの人のことを、いつまでも考えていても仕方がない。
グレーヴェンの館は、館というより砦だった。
石を積んだ壁と、細い窓。飾りらしいものは何もない。門をくぐると中庭があって、そこに薪が山のように積んであった。屋敷の中庭に薪を積む家を、わたくしは初めて見た。
「冬が長い」と、セヴェリンさまが言った。それが説明のすべてだった。
ニルスさまは馬車から降りて、しばらく門のところに立っていた。顔を上げて、壁を見ている。ずいぶん高い。あの家の門より、ずっと高い。
「怖うございますか」
訊くと、首を横に振った。この方は、三日のあいだに首を振ることを覚えた。覚えたというより、思い出したのかもしれない。
「では、まいりましょう」
手を出すと、握った。片手だった。もう片方の手は、外套の端をつまんでいる。
通された部屋は、二階の東側だった。窓から山が見える。近い。窓を開けると、風が冷たかった。
「あの家より、寒うございますね」
ニルスさまは窓のところに椅子を引いていって、そこに座った。わたくしが荷を解いているあいだ、ずっと外を見ていた。景色を見ている子どもの背中を、わたくしは初めて見た気がした。
夕方、厨を見せてもらった。
案内してくれたのは、若い兵だった。厨番ではないという。
「ギゼラばあさんが足を悪くしちまって、村で寝てるんです。もう二月になります」
「では、いまはどなたが」
「俺らが順番に。焦がさなきゃいいって言われてるんで」
厨は広かった。広かったけれど、床に灰が落ちていた。鍋は大きいものが二つ。柄杓の柄が折れて、縄で縛ってある。棚には塩と、干した肉と、豆。それだけだった。
「野菜は」
「地下です。今の時期は蕪と、あとは根のやつが」
「根のやつ、と申しますと」
「……ええと、細くて白いのと、丸くて黄色いのと」
「見せていただけますか」
地下は思ったより広かった。砂を敷いた箱に、根菜が埋めてある。蕪、人参、それから黄蕪。壁際の棚には林檎が並んでいた。皺は寄っているけれど、腐ってはいない。わたくしは林檎をひとつ手に取って、匂いを嗅いだ。
「これは、いつのものでしょう」
「秋のです。冬じゅう持ちますよ、ここは冷えるんで」
「乳は」
「村から週に二度」
「玉子は」
「あー……鶏はいます。取ってこいって言われれば取ってきます」
わたくしは頭の中で、四十七の続きを数えはじめていた。林檎はもうある。三十一番目だ。乳があるなら、粥に落とせる日が来るかもしれない。玉子は白身だけなら。黄蕪は、あの家では出したことがない。
初めての土地というのは、こわいけれど、そういうことでもある。あの家にはもう、試せるものが残っていなかった。
地下から上がって、わたくしは灰を掃くところから始めた。若い兵が慌てて手伝おうとしたので、断った。掃きながら、どこに何があるか覚えたかった。
夕食は広間で出た。
豆と干し肉を煮たものが、大きな器で来た。塩の味だけがした。それも、多すぎた。セヴェリンさまは、それを黙って食べていた。半分ほど食べたところで、わたくしは訊いてみた。
「お口に合いますか」
「合います」
「塩が、少し強うございませんか」
「そうですか」
その人は、器の中を見た。
「分かりません」
「……分かりません、と仰いますと」
「味がしない」
匙を置く音がした。わたくしのほうだった。
「いつからでいらっしゃいますか」
「五年ほど」
「お医者さまには」
「かかりました。どこも悪くないそうです」
どこも悪くない。その言葉を、わたくしはこの三日で二度目に聞いた。一度目は、ニルスさまのことでだ。
「不便はありません」と、セヴェリンさまは続けた。「腹は減るし、食えば治る。それで足りる」
「甘いも辛いも、まったくでいらっしゃいますか」
「熱いか冷たいかは分かります。硬いか柔らかいかも」
「味だけが」
「味だけが」
「では、この豆が焦げていても、お分かりになりませんね」
「焦げていますか」
「少し」
「……そうですか」
その人は、器の底のほうを匙で探った。探しても分からないから、探すのをやめた。
「不便はありません」と、もう一度言った。
「足りません」
「……」
「失礼いたしました」
言ってしまってから、慌てて頭を下げた。その人は怒らなかった。器を持ち上げて、残りを食べた。
「あなたは、そう言う人ですね」
「はい」
「妹も、そう言った」
わたくしは顔を上げた。けれどセヴェリンさまは、それ以上は続けなかった。器を置いて、立ち上がった。
部屋に戻ると、ニルスさまはまだ起きていた。夕食は、麦の粥をひとくち。旅のあいだ、ずっとひとくちだった。減ってはいない。増えてもいない。
わたくしは十三冊目の帳面を開いて、その日の分を書いた。
三日目。麦の粥、五と五。ひとくち。
新しい土地。窓から山。寒い。
それから、少し考えて、下に一行足した。
明日から、一日にひとつ、新しいものを試す。
書いてから、声に出して読んだ。書いただけでは、やらないことがあるからだ。
「よろしいですか、ニルスさま」
返事はなかった。けれど、こちらを見ていた。
「明日から、一日にひとつです。合わなければ、やめます。合えば、書きます」
その方は、頷いた。
お読みくださって、ありがとうございます。
冬の長い土地の家は、中庭に薪を積むそうです。飾りを置く場所より、燃やすものを置く場所のほうが先に要る、ということなのだと思います。
地下には蕪と、人参と、黄蕪。明日から一日にひとつずつ試します。
【その日の献立】 麦の粥、五と五。—— ひとくち。三日、変わらず。




