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離縁されましたので、あの子の食事は明日からご自分で  作者: 蒼井玲


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第5話:はじめての匙

 宿の厨は狭かった。竈がひとつと、水甕がひとつ。鍋は三つあったけれど、いちばん小さいものでも、うちの——あの家の厨で使っていたものより大きかった。


 女将は快く貸してくれた。麦も分けてくれた。


「坊っちゃんに?」

「はい」

「あんな時分に濡れて歩いてちゃ、腹も冷えるわねえ。玉子は入れる?」

「いえ。玉子は、まだ」

「あら、うちの玉子は今朝のよ」

「白身だけなら、いただけるかもしれません。ですが今日は」


 わたくしは首を振った。旅に出る日に新しいものを試してはいけない。合わなかったとき、馬車の中では何もしてやれない。


「今日は、いつものものにいたします」

「いつもの」

「はい。いつものが、いちばん大事でございますので」


 女将は少し笑って、竈の火を熾してくれた。


 麦を洗って、水を多めに張った。あの家では六に対して水を四にする。旅の朝は、五と五にする。


 五と五は、帳面の八十二頁に書いてある。その頁は、去年の冬に一度だけ使った。屋敷の裏の川が凍って、あの方が幾晩か眠れなかったときだ。眠れない翌朝は、粥を薄くする。濃いと、飲み込むところで止まってしまう。


 そういうことが、十二冊のどこかに全部書いてある。書いてあるものは、卓の上に置いてきた。頭の中には残っているけれど、頭の中のものは、誰にも渡せない。


 火を細くして、長く炊いた。途中で何度か木匙で潰して、指で触って確かめた。指で潰れるまで、というのはそういう意味だ。歯を使うと、あの方は途中でやめてしまう。噛むという動作そのものが、あの方には仕事になる。


 塩をひとつまみ入れて、火から下ろした。匙は、宿のものを借りた。木の匙で、柄が短い。ちょうどよかった。


 部屋に戻ると、ニルスさまはもう起きて、寝台の端に座っていた。足に布を巻いたまま、足首から下を床につけないようにしている。誰かに言われたわけでもないのに、そうしている。


「おはようございます」


 返事はない。けれど、こちらを見た。


「お粥です。今日は少し薄うございます」


 卓に置いた。湯気が上がっていた。


 わたくしは、いつものように匙を取った。掬って、冷まして、口元へ運ぶ。毎朝、そうしてきた。匙を持ち上げようとしたとき、手が止まった。


 ニルスさまの手が、匙の柄に伸びていた。


 わたくしは動けなかった。


 その方は、匙を取った。両手で。


 いつもの持ち方だった。片手で持つと行儀が悪いと言われて取り上げられるから、この方はそうする。取り上げた者はもう、この部屋にはいないのに。


 それでも、自分で取った。三年のあいだ、一度もなかったことだ。


「……ニルスさま」


 声が変になった。わたくしは咳をするふりをした。


 その方は匙を粥に入れて、掬った。量が多すぎた。手が震えて、半分が卓に落ちた。落ちたところを見て、動きが止まった。


 こういうとき、あの家では叱られる。


「よろしいのですよ」


 わたくしは布巾で拭いた。急がずに、音を立てないように。


「落ちたぶんは、鍋にまだございます。いくらでもございます」


 その方は、もう一度掬った。今度は少なかった。口へ運ぶ前に、わたくしを見た。


 いつもの目だ。


「どうぞ」


 頷いた。匙が口に入った。


 ひとくち。


 わたくしは息を止めていた。止めていたことに、あとから気づいた。あの方は、ゆっくり飲み込んだ。それから、少しだけ、口の端が動いた。笑ったのかどうかは、わたくしには分からない。


 二くち目を掬った。


 口の手前で、手が止まった。匙が戻っていく。皿の上に置かれる。かたん、と音がした。


 その方は、両手を膝に戻した。


「……はい」


 わたくしは、それだけ言った。


 二くち目は入らない。今日はここまでだ。毎朝これをやっていれば分かる。昨日、林檎を四切れ召し上がった。それは奇跡のようなことで、けれど奇跡は続かない。体は昨日のぶんを、まだ扱いかねている。


 わたくしは無理をさせなかった。させたことがない。それが、たぶん唯一、わたくしが正しくやれたことだった。


「よくできました」


 言うと、その方は膝の上の両手を、少し握った。


 それから、卓の上の匙を、もう一度見た。取ろうとして、やめた。取ろうとしたことは、たしかに見えた。


「置いておきましょうね」


 わたくしは匙を皿の横に並べた。下げなかった。下げてしまうと、次に取るのがまた三年後になるような気がしたからだ。


 鍋の粥は、そのあとわたくしが食べた。薄くて、塩の味しかしなかった。おいしいとは思わなかったけれど、残すのは嫌だった。


 厨に鍋を返しに行くと、女将が井戸端で洗い物をしていた。


「坊っちゃん、食べた?」

「ひとくち」

「ひとくち」

「ひとくちです」

「……そう」


 女将は何か言おうとして、やめた。たぶん、少ないと言おうとしたのだと思う。わたくしは黙って鍋を洗った。


「そういえばね、奥さん」


 女将が、洗いながら言った。


「明け方、関所のほうが騒がしかったんですって。宿の若いのが聞いてきたんだけど」

「騒がしい」

「フェルトハイムのお館から、早馬が出たそうよ。二騎。夜の明ける前に」


 わたくしは手を止めなかった。


「王都のほうへ?」

「いいえ。こっちよ。街道を、西へ」


 わたくしは手を止めなかった。


「乳母をお迎えに行かれるのでしょう」

「ああ、なるほどねえ。お屋敷は大変ねえ、こういうときは」


 女将はそう言って、また洗い物に戻った。


 部屋へ戻ると、セヴェリンさまが馬車の手配の話をしていた。昼前に出れば、日暮れまでに峠の宿に着けるという。


「三日で着きます。峠と、川沿いと、それから領境で泊まる」

「かしこまりました」

「何か要るものは」

「麦を、少し多めに。それから、鍋を借りられれば」

「鍋」

「宿の厨は、貸していただけるとはかぎりませんので」


 セヴェリンさまは、少しのあいだ黙っていた。


「買います」

「そこまでしていただかなくとも」

「三日ぶんです。要るなら要る」


 その人は階段を降りていった。説明はしない人だ。けれど、話は通じる。通じる人と話すのは、ずいぶん久しぶりだった。


 昼前に、馬車は出た。


 ニルスさまは窓側に座って、外を見ていた。わたくしが膝掛けを直しても、こちらを見ない。景色を見ている子どもの顔だった。あの家の窓からは、庭しか見えなかった。


 街道に出てしばらく行くと、道の脇の土が掘れていた。蹄の跡だ。二頭ぶん。深く、間隔が広い。走らせた跡だった。雨は明け方にやんでいるから、この跡は乾きはじめている。つまり、朝のうちについたものだ。


 跡は、わたくしたちと同じ方角を向いていた。


 急ぎの旅人でしょう、とわたくしは思った。馬車は、その跡の上を通っていった。

 ひとつめの章にお付き合いくださって、ありがとうございました。


 いちばん静かな山場を書きました。匙を自分で取る、というだけの回です。ひとくちで終わるところまで含めて、この子の速さでした。


 街道の土に、蹄の跡が二頭ぶん。乾きはじめているので、朝のうちについたものです。


 ブックマークと評価は、次の帳面の紙代に充てさせていただきます。


【その日の献立】 麦の粥、五と五。—— ひとくち。

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