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離縁されましたので、あの子の食事は明日からご自分で  作者: 蒼井玲


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第4話:亡くなった奥様の兄

 男は馬を降りた。降りるときも、こちらから目を離さなかった。


 背が高い。外套の裾から、水が落ちている。ずいぶん長く雨の中にいた人の、濡れ方だった。剣を提げていたけれど、手はそこにない。両手とも空けたまま、五歩の距離で止まっている。


「その子は」


 低い声だった。


「フェルトハイム家のご子息ですか」

「……どちらさまでしょう」

「先に答えていただきたい」

「わたくしが先に伺いました」


 男は少し黙った。それから、名乗った。


「セヴェリン・グレーヴェン」


 聞いたことのある名だと思った。すぐには出てこなかった。わたくしが思い出すより先に、その人が続けた。低く、短く。


「ズザンネの兄です」


 雨の音が、耳の奥で一度切れた。


 ズザンネさま。先の奥様。わたくしが会ったことのない方。屋敷に一枚も肖像画の残っていない方。ニルスさまの、母君。


「……失礼いたしました。ミリアムと申します。今日まで、あの家の」


 言いかけて、言葉に詰まった。今日まで何だったのか、自分でも言いようがなかった。後妻。継母。世話係。どれも本当のようで、どれも少しちがう。


「今日までその家におりました」


 そう言い直した。グレーヴェンさまは頷いて、それ以上は訊かなかった。


「歩けますか」

「わたくしは」

「その子です」


 わたくしの腕の中で、ニルスさまが体を固くしたのが分かった。知らない大人だ。当然だった。


「足を切っておいでです」

「では、運びます」

「いえ」

「宿は先の橋の向こうです。あと四百歩ある」


 その人は、そこで初めて言葉を足した。


「馬に乗せます。私は歩く。あなたが手綱を持つといい」


 結局、そうなった。ニルスさまを鞍に乗せて、わたくしが横から支えて、グレーヴェンさまが馬を引いた。誰も何も言わずに、四百歩を歩いた。


 宿の女将は、濡れた子どもを見て何も訊かなかった。宿場町の宿は、そういうことに慣れている。湯をもらって、足を洗った。砂利を抜くとき、ニルスさまは声を出さなかった。代わりに、寝台の敷布を両手で掴んでいた。


「痛いときは、痛いと仰ってよろしいのですよ」


 返事はなかった。


 布を巻き終えて振り返ると、グレーヴェンさまが扉のところに立っていた。中には入ってこない。


「話をしても」

「どうぞ」

「外で」


 廊下に出た。扉は少し開けておいた。あの方が起きているうちは、閉めないほうがいい。


「あの家には、何年」

「三年でございます」

「では、あなたが」


 その人は、そこで言葉を切った。何を言いかけたのかは分からなかった。


「私は毎年この時期に来ます」と、代わりに言った。「妹の命日です」

「……命日」

「今日です」


 わたくしは、廊下の壁に手をついた。


 知らなかった。あの家にいるあいだ、一度も聞かなかった。誰も口にしなかったし、祭壇に花が増えたこともない。今日という日を選んで離縁を告げたのか、それとも今日が何の日か忘れていたのか。たぶん、後のほうだ。そのほうが、あの家らしい。


「奥様のことは、何も伺っておりません」


 わたくしは言った。


「お名前と、亡くなられたことだけです。ご病気だったと」

「病です」

「どのような」

「……医者は、そう言いました」


 その人は窓のほうを向いたままだった。言い方が引っかかった。病だ、とは言わずに、医者はそう言った、と言った。同じ意味の言葉ではない。


「グレーヴェンさま」

「セヴェリンで結構」

「では、セヴェリンさま。奥様は、召し上がる方でしたか」


 訊いてから、おかしなことを訊いたと思った。けれどその人は、すぐには答えなかった。長く黙ってから、短く言った。


「痩せていきました」

「……はい」

「最後の年は、私が行くたびに細くなっていた。妹はよく食べる子でした。子どもの頃は、私より食べた」


 わたくしは、それ以上訊かなかった。訊いてはいけない気がしたし、たぶん、訊いても答えは返らなかった。


「毎年、門で追い返されます」と、グレーヴェンさまが続けた。「今年で五度目です」

「どうして」

「跡継ぎの教育に障る、と」

「五年、一度も」

「一度も」


 その人は、廊下の窓のほうを見ていた。外は暗くて、何も映っていない。


「甥の顔を、私は知りません」

「……先ほど、ご覧になりました」

「ええ」


 それきり、黙った。わたくしは何か言うべきだと思ったけれど、何を言えばいいのか分からなかった。


「ミリアム殿」

「はい」

「あの子を、グレーヴェンへ連れて行きます」

「それは」

「あなたも」


 わたくしは顔を上げた。


「わたくしは、あの家の者ではございません。今日、離縁されました」

「知っています」

「ご存じ」

「門の前で聞きました。門番が話していた」


 その人は、初めてこちらを見た。


「あの子の食事は明日から自分で、と言った奥方が出ていったと。門番は笑っていました」


 わたくしは、少し恥ずかしくなった。あんなことを言うつもりはなかった。言ってしまってから、ずっとそう思っている。


「ですから、わたくしにはもう、あの方に関わる立場がございません」

「立場」

「はい。血のつながりもございません。三年、食事をお出ししていただけです」

「食事を」

「はい」


 グレーヴェンさまは、しばらく何も言わなかった。それから、扉の隙間のほうへ顎を向けた。


 覗くと、ニルスさまが寝台の上に起きていた。こちらを見ている。わたくしの外套を、まだ両手で握ったままだった。


「あなたに権利があるかは知りません」


 その人が言った。


「だが、あの子はあなたの袖を掴んでいる」


 わたくしは、返す言葉を持たなかった。


「明朝、発ちます」と、グレーヴェンさまは言った。「馬車を手配します。三日かかる」

「三日」

「山を越えます。あの子の食べるものは、どうすれば」


 訊かれた。あの家では、誰にも訊かれなかったことだ。厨の者にも、義母にも、夫にも。会って一刻の人に、いちばんに訊かれた。


「……帳面がございます」


 わたくしはそう答えた。


「十二冊は、卓に置いてまいりました。十三冊目だけ、持っております」

「十三冊」

「はい」

「見せていただいても」


 鞄から出して渡した。セヴェリンさまは廊下の燭台の下でそれを開いて、一行しかない頁を、しばらく見ていた。


 日付と、「玉子(黄身)ためす」。


「明日、これを試すつもりだったのですか」

「はい」

「今日でなく」

「今日は、かぶの日でしたので」


 その人は帳面を閉じて、両手で返した。片手ではなかった。わたくしはそのとき、この人が誰の兄なのかを、もう一度思い出した。


「宿の厨を借りられるか、女将に訊いてきます」


 セヴェリンさまはそう言って、階段を降りていった。わたくしは、扉の隙間から漏れる灯りのほうへ戻った。


 あの方は、まだ起きていた。

 お読みくださって、ありがとうございます。


 セヴェリンは説明をしない男です。五年ぶんの門前払いのことも、この先ろくに語りません。語らない人のことは、周りの物のほうが語ります。木彫りの鳥とか、川原の石とか。


 夜明けまで、あと二刻。宿の厨は、女将に頼めば貸してもらえるそうです。


【その日の献立】 白湯。—— ひとくち。寝る前に。

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