第3話:裸足
宿場町の灯りが見えはじめたころ、雨がまた強くなった。
街道は泥になっていて、歩くたびに靴が沈んだ。傘があってよかったと思った。マルテの傘は重かったけれど、風には強かった。鞄の中の帳面が濡れていないか、途中で一度だけ確かめた。濡れていなかった。
後ろから足音がしたのは、そのときだ。
最初は、雨だと思った。水たまりを打つ音と、雨が石を叩く音は似ている。だから振り返らなかった。
二度目に聞こえたとき、それは近くなっていた。速い。しかも、揃っていない。走っている音だった。
夜の街道で、後ろから走ってくる者がいる。わたくしは傘を少し傾けて、道の端に寄った。追い抜いていただこうと思ったからだ。
足音は、追い抜かなかった。わたくしの三歩後ろで、止まった。
振り返った。
ニルスさまが立っていた。
寝間着のままだった。外套も着ていない。髪は雨で額に貼りついて、目に入っているのに拭いもしない。両手を、体の横で握りしめていた。
わたくしは傘を落とした。落としたことに、しばらく気づかなかった。
「……ニルスさま」
声が出るまでに、少しかかった。
「どうして」
答えない。この方は答えない。いくら待っても、答えない方だった。
膝をついた。泥が跳ねたけれど、どうでもよかった。目の高さを合わせて、それから、足を見た。
裸足だった。
石畳の道ではない。石も枝もある街道を、屋敷の門からここまで、この方は裸足で走ってきたことになる。
どのくらいかかったのだろう。わたくしは半刻以上歩いているし、子どもの足で走り続けたとしても、追いつくはずがない。
——追いつくはずがないのに、追いついている。
つまり、この方は、わたくしが門を出てすぐに走りだしたということだ。あの窓の灯りは、消し忘れではなかった。
「お怪我は」
訊いてから、訊くまでもないと分かった。左の足の親指の側が切れている。血は雨に流されていて、どこから出ているのか見えにくかった。右の足の裏にも、砂利が二つ食い込んでいた。指で押すと、その方の肩が動いた。
「痛うございますか」
答えない。押されたところが痛いのは、当たり前だ。当たり前のことも、この方は言わない。
わたくしは外套を脱いで、その方を包んだ。小さかった。七つの子は、こんなに小さかっただろうか。毎日見ていたはずなのに、抱えてみるまで分からなかった。
「お戻りにならないと」
言いながら、自分でも嘘だと思った。戻ればいい、とは思わなかった。思えなかった。
ニルスさまは、わたくしの外套の端を握った。両手で。廊下のときと同じだった。ちがうのは、今度は指がほどけないくらい強かったことだ。
「わたくしはもう、あの家の者ではございません」
握る力が強くなった。
「あの家には、あなたさまのお部屋がございます。寝台も、暖炉も」
もっと強くなった。
「明日、王都から乳母がいらっしゃいます。ちゃんとした方だそうです。わたくしよりも、ずっと」
そこで、ニルスさまが動いた。
首を、横に振った。
わたくしは、しばらく言葉が出なかった。この方は、頷く。分かっているときも、分かっていないときも、困っているときも頷く。そうすれば何も起こらないと知っているからだ。首を横に振ったところを、わたくしは見たことがない。
「……ニルスさま」
もう一度、振った。今度は強く。髪から水が飛んだ。
「お戻りになりませんか」
振った。
「わたくしと、まいりますか」
止まった。それから、頷いた。
小さな手だった。爪が短い。爪を切るのはわたくしの仕事だった。三日前に切ったばかりだから、まだ短い。
「ニルスさま」
わたくしは、その方の頭を胸に寄せた。髪から雨がしたたって、首筋に流れた。冷たかった。子どもの体のほうが、もっと冷たかった。
どのくらいそうしていたか分からない。
やがて、胸のあたりで、小さな音がした。声だと気づくのに、また少しかかった。
「……おなか、すいた」
雨の音が、遠くなった。
三年だ。この方が自分から何かを欲しがったことは、一度もなかった。空腹を訴えたことも、痛いと言ったことも、寒いと言ったこともない。訴えれば叱られると知っていたからで、誰がそう教えたのかは、わたくしにも分からない。
そしてわたくしは、頷きを待たせるほうの人間だった。頷けば食べる子にして、頷かなければ待つ子のままにしていた。それが精一杯だと思っていたし、たぶん、本当に精一杯だった。
その方が、いま、自分から言った。
「はい」
わたくしは、そう答えた。声が震えていなかったかどうかは、自信がない。
「はい。すぐに」
鞄を開けて、包みを取り出した。マルテの、干した林檎だ。道の端に、雨のかからない木の陰があった。そこまで抱いていって、腰を下ろした。膝の上に載せると、その方はやっと少し力を抜いた。
「お手を」
両手を出した。わたくしはその手を自分の袖で拭いた。泥がついていたからだ。この方は、手が汚れていると食べない。
「まいります」
ひときれを手のひらに載せて、差し出した。
ニルスさまは、それを両手で受け取った。それから、わたくしの顔を見た。
いつもの目だった。これは食べていいのか、と訊く目だ。
「どうぞ」
わたくしは頷いた。この方は、林檎を口に入れた。
雨の中で、子どもが林檎を噛む音がした。ゆっくりだった。飲み込むまでに、ずいぶんかかった。途中で一度、噛むのをやめた。息をつめている。以前なら、ここで戻していた。
「よろしいのですよ。急がなくて」
その方は、また噛みはじめた。飲み込んだ。
「よくできました」
飲み込んでから、もうひとつ、と手が出た。
わたくしは、二切れ目を載せた。三切れ目を数えたところで、手が止まらなくなった。わたくしの手のほうだ。包みを持つ指が、うまく動かなくなっていた。
「……失礼いたしました。もう少し、お待ちくださいませ」
その方は待った。この方は待つのが上手い。それが上手くなるまでに、どれだけの晩があったのだろう。
四切れ食べた。四十七のうちの三十一番目を、四切れ。今までの最高は、二切れだった。
「ニルスさま」
「……」
「わたくしには、まいる先がございません。それでも、よろしいですか」
その方は、わたくしの膝の上で頷いた。
「宿は取れます。そのあとのことは、まだ何も決まっておりません」
また頷いた。
「明日になったら、あちらから人が来ます。連れ戻しにいらっしゃいます」
三度目の頷きは、少し遅かった。分かっているのだと思った。この方は、分かっていないふりが上手いだけだ。
「まいりましょう。まずは、そのお足を洗わなくては」
顔を上げると、街道の向こうに灯りがあった。
馬だ。雨の中を、こちらへ向かって歩いてくる。乗っている者の輪郭は、背が高い。屋敷の者ではない。屋敷の馬は、あんな歩き方をしない。
わたくしは、ニルスさまを外套ごと抱き上げた。子ども一人ぶんの重さが、思ったより軽かった。
馬は、五歩ほど手前で止まった。
ここまでお読みくださって、ありがとうございます。
この子が三年ぶりに口にした要求は、六文字でした。この先もう少し長い台詞を言う日は来ますが、これより長い意味を持つ台詞は、たぶん出てきません。
雨の街道に、馬の影がひとつ。五歩手前で止まったきり、動きません。
【その日の献立】 干した林檎、四きれ。—— これまでの最高は、ふたきれ。




