表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
離縁されましたので、あの子の食事は明日からご自分で  作者: 蒼井玲


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/8

第3話:裸足

 宿場町の灯りが見えはじめたころ、雨がまた強くなった。


 街道は泥になっていて、歩くたびに靴が沈んだ。傘があってよかったと思った。マルテの傘は重かったけれど、風には強かった。鞄の中の帳面が濡れていないか、途中で一度だけ確かめた。濡れていなかった。


 後ろから足音がしたのは、そのときだ。


 最初は、雨だと思った。水たまりを打つ音と、雨が石を叩く音は似ている。だから振り返らなかった。


 二度目に聞こえたとき、それは近くなっていた。速い。しかも、揃っていない。走っている音だった。


 夜の街道で、後ろから走ってくる者がいる。わたくしは傘を少し傾けて、道の端に寄った。追い抜いていただこうと思ったからだ。


 足音は、追い抜かなかった。わたくしの三歩後ろで、止まった。


 振り返った。


 ニルスさまが立っていた。


 寝間着のままだった。外套も着ていない。髪は雨で額に貼りついて、目に入っているのに拭いもしない。両手を、体の横で握りしめていた。


 わたくしは傘を落とした。落としたことに、しばらく気づかなかった。


「……ニルスさま」


 声が出るまでに、少しかかった。


「どうして」


 答えない。この方は答えない。いくら待っても、答えない方だった。


 膝をついた。泥が跳ねたけれど、どうでもよかった。目の高さを合わせて、それから、足を見た。


 裸足だった。


 石畳の道ではない。石も枝もある街道を、屋敷の門からここまで、この方は裸足で走ってきたことになる。

 どのくらいかかったのだろう。わたくしは半刻以上歩いているし、子どもの足で走り続けたとしても、追いつくはずがない。

 ——追いつくはずがないのに、追いついている。


 つまり、この方は、わたくしが門を出てすぐに走りだしたということだ。あの窓の灯りは、消し忘れではなかった。


「お怪我は」


 訊いてから、訊くまでもないと分かった。左の足の親指の側が切れている。血は雨に流されていて、どこから出ているのか見えにくかった。右の足の裏にも、砂利が二つ食い込んでいた。指で押すと、その方の肩が動いた。


「痛うございますか」


 答えない。押されたところが痛いのは、当たり前だ。当たり前のことも、この方は言わない。


 わたくしは外套を脱いで、その方を包んだ。小さかった。七つの子は、こんなに小さかっただろうか。毎日見ていたはずなのに、抱えてみるまで分からなかった。


「お戻りにならないと」


 言いながら、自分でも嘘だと思った。戻ればいい、とは思わなかった。思えなかった。


 ニルスさまは、わたくしの外套の端を握った。両手で。廊下のときと同じだった。ちがうのは、今度は指がほどけないくらい強かったことだ。


「わたくしはもう、あの家の者ではございません」


 握る力が強くなった。


「あの家には、あなたさまのお部屋がございます。寝台も、暖炉も」


 もっと強くなった。


「明日、王都から乳母がいらっしゃいます。ちゃんとした方だそうです。わたくしよりも、ずっと」


 そこで、ニルスさまが動いた。


 首を、横に振った。


 わたくしは、しばらく言葉が出なかった。この方は、頷く。分かっているときも、分かっていないときも、困っているときも頷く。そうすれば何も起こらないと知っているからだ。首を横に振ったところを、わたくしは見たことがない。


「……ニルスさま」


 もう一度、振った。今度は強く。髪から水が飛んだ。


「お戻りになりませんか」


 振った。


「わたくしと、まいりますか」


 止まった。それから、頷いた。


 小さな手だった。爪が短い。爪を切るのはわたくしの仕事だった。三日前に切ったばかりだから、まだ短い。


「ニルスさま」


 わたくしは、その方の頭を胸に寄せた。髪から雨がしたたって、首筋に流れた。冷たかった。子どもの体のほうが、もっと冷たかった。


 どのくらいそうしていたか分からない。


 やがて、胸のあたりで、小さな音がした。声だと気づくのに、また少しかかった。


「……おなか、すいた」


 雨の音が、遠くなった。


 三年だ。この方が自分から何かを欲しがったことは、一度もなかった。空腹を訴えたことも、痛いと言ったことも、寒いと言ったこともない。訴えれば叱られると知っていたからで、誰がそう教えたのかは、わたくしにも分からない。


 そしてわたくしは、頷きを待たせるほうの人間だった。頷けば食べる子にして、頷かなければ待つ子のままにしていた。それが精一杯だと思っていたし、たぶん、本当に精一杯だった。


 その方が、いま、自分から言った。


「はい」


 わたくしは、そう答えた。声が震えていなかったかどうかは、自信がない。


「はい。すぐに」


 鞄を開けて、包みを取り出した。マルテの、干した林檎だ。道の端に、雨のかからない木の陰があった。そこまで抱いていって、腰を下ろした。膝の上に載せると、その方はやっと少し力を抜いた。


「お手を」


 両手を出した。わたくしはその手を自分の袖で拭いた。泥がついていたからだ。この方は、手が汚れていると食べない。


「まいります」


 ひときれを手のひらに載せて、差し出した。


 ニルスさまは、それを両手で受け取った。それから、わたくしの顔を見た。


 いつもの目だった。これは食べていいのか、と訊く目だ。


「どうぞ」


 わたくしは頷いた。この方は、林檎を口に入れた。


 雨の中で、子どもが林檎を噛む音がした。ゆっくりだった。飲み込むまでに、ずいぶんかかった。途中で一度、噛むのをやめた。息をつめている。以前なら、ここで戻していた。


「よろしいのですよ。急がなくて」


 その方は、また噛みはじめた。飲み込んだ。


「よくできました」


 飲み込んでから、もうひとつ、と手が出た。


 わたくしは、二切れ目を載せた。三切れ目を数えたところで、手が止まらなくなった。わたくしの手のほうだ。包みを持つ指が、うまく動かなくなっていた。


「……失礼いたしました。もう少し、お待ちくださいませ」


 その方は待った。この方は待つのが上手い。それが上手くなるまでに、どれだけの晩があったのだろう。


 四切れ食べた。四十七のうちの三十一番目を、四切れ。今までの最高は、二切れだった。


「ニルスさま」

「……」

「わたくしには、まいる先がございません。それでも、よろしいですか」


 その方は、わたくしの膝の上で頷いた。


「宿は取れます。そのあとのことは、まだ何も決まっておりません」


 また頷いた。


「明日になったら、あちらから人が来ます。連れ戻しにいらっしゃいます」


 三度目の頷きは、少し遅かった。分かっているのだと思った。この方は、分かっていないふりが上手いだけだ。


「まいりましょう。まずは、そのお足を洗わなくては」


 顔を上げると、街道の向こうに灯りがあった。


 馬だ。雨の中を、こちらへ向かって歩いてくる。乗っている者の輪郭は、背が高い。屋敷の者ではない。屋敷の馬は、あんな歩き方をしない。


 わたくしは、ニルスさまを外套ごと抱き上げた。子ども一人ぶんの重さが、思ったより軽かった。


 馬は、五歩ほど手前で止まった。

 ここまでお読みくださって、ありがとうございます。


 この子が三年ぶりに口にした要求は、六文字でした。この先もう少し長い台詞を言う日は来ますが、これより長い意味を持つ台詞は、たぶん出てきません。


 雨の街道に、馬の影がひとつ。五歩手前で止まったきり、動きません。


【その日の献立】 干した林檎、四きれ。—— これまでの最高は、ふたきれ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ