第2話:門の外は雨でした
荷はすぐにまとまった。嫁いできたときと同じ鞄がひとつ。夜着と、櫛と、外套。あとは、書きかけの帳面が一冊。十二冊は卓に置いてきたけれど、十三冊目だけは今朝から書きはじめたばかりで、まだ包みに入れていなかった。日付が一行と、「玉子(黄身)ためす」とだけある。ためす前に、ためせなくなった。
窓の外は雨だった。夕方から降りはじめて、やむ気配がない。
部屋を出る前に、寝台の下を見た。何かを落としていないか確かめたかったのだけれど、埃のほかには何もなかった。この部屋には、もともと何も置いていない。わたくしはこの部屋で眠って、朝になると厨へ行った。それだけの部屋だった。
降りる途中で、厨に寄った。エーリヒさんとロージーさんが後片付けをしていた。二人ともわたくしを見て、それから手元に目を戻した。話は伝わっているのだろう。
「明日の朝のことですが」
「聞いております」エーリヒさんが言った。「粥でよろしいんでしょう」
「粥です。麦を、指で潰れるまで」
「潰れるまで」
「指で潰れるまでです。歯を使わずに済む固さでないと、あの方は途中でやめてしまわれます」
エーリヒさんは布巾を絞る手を止めなかった。
「三十年やっとりますよ、わたしは」
「存じております」
「粥の炊き方くらい」
「炊き方ではございません。固さの話です」
ロージーさんが、鍋を棚に戻す音を立てた。わざとかどうかは分からない。
「ミリアムさま」と、その人が言った。「お気を悪くなさらないでいただきたいんですけどね。あの坊っちゃまは、召し上がらないんですよ。誰が作っても」
「嫁いでまいった頃は、そうでした」
「今も同じでございましょう」
「四十七あります」
「はい?」
「あの方が召し上がれるものです。卓に帳面を置いてまいりました。旦那さまがお持ちです」
二人は顔を見合わせた。わたくしはそれ以上言わなかった。言えば言うほど、遠ざかっていくのが分かったからだ。
「では、お願いいたします」
「……はあ」
厨を出るとき、竈の火はもう落としてあった。明日の朝、あの方が起きるのは六の鐘の前だ。竈に火が入るのは、七の鐘。その一刻を、いつもわたくしが埋めていた。
階段を降りると、玄関の広間にマルテが立っていた。使用人頭のマルテは、この家に三十年いる。わたくしが嫁いだ日も、この場所に立っていた。
「奥様」
「奥様は、もう」
「……ミリアムさま」
マルテは、傘を差し出した。黒い、柄の長い傘だった。屋敷のものではない。屋敷の傘には家紋が入っている。
「これは」
「わたくしのものです」
「では、いただけません」
「雨が強うございますので」
押し問答をする気力は、お互いになかったと思う。わたくしは傘を受け取った。マルテは一歩下がって、いつもどおりの角度で頭を下げた。
「お気をつけて」
それだけだった。三十年この家にいる人は、余計なことを言わない。
扉を開けると、雨の音が大きくなった。外套の前を合わせて、段を降りる。石畳に水が溜まっていて、靴の先がすぐに濡れた。
門までは、四十歩ある。数えたわけではない。三年のあいだに、何度か市へ買い出しに出たから、体が覚えていた。ニルスさまが食べられるものを探すには、屋敷の厨にあるものだけでは足りなかった。市の端の、名も知らない野草を売る店まで行ったこともある。四十七のうち、六つはその店で見つけたものだ。
二十歩あたりで、後ろから足音がした。
振り返ると、傘を持たないマルテが、雨の中を追ってきていた。手に、小さな包みがある。
「ミリアムさま。これを」
「なんでしょう」
「厨の、干した林檎です。あの、いつも……」
マルテは、そこで言葉を切った。いつも、の続きは、わたくしが知っている。ニルスさまが眠れない夜に、ひときれだけ召し上がるものだ。四十七のうちの、三十一番目。
「わたくしがいただくものではございません」
「いえ。あの、これは」
「厨に置いておいてくださいませ。夜中に泣かれたときに、ロージーさんが」
「ロージーは知りません」
「お教えしてまいりました」
「聞いておりません」
マルテは、そう言った。傘を持たずに雨の中に立って、まっすぐこちらを見ていた。この人がわたくしの目を見たのは、三十年のうちで初めてだったかもしれない。
「聞いておりません、あの者たちは。わたくしが申し上げても、笑うのです。奥様が甘やかしていらしただけだと」
「……そうですか」
「そうです」
雨が、その人の肩を濡らしていた。
「ですから、お持ちください。どうか」
わたくしは包みを受け取って、鞄に入れた。礼を言おうとしたけれど、うまく言葉にならなかったので、頭を下げた。マルテも下げた。二人で雨の中に立って、頭を下げ合っていた。傍から見れば、おかしな光景だったと思う。
門を出た。
振り返らなかった。振り返るとどうなるかを、わたくしは知らない。ただ、振り返らないほうがいいということは、なぜか分かった。
街道に出ると、雨脚が少し弱まった。宿場町までは、歩いて一刻ほど。今夜そこで宿を取って、明日、乗合馬車を待つことになる。
行き先は、まだ決めていなかった。
実家のヴェルナー男爵家には、戻れない。父が亡くなって兄の代になり、その兄には子が四人いる。わたくしが伯爵家へ嫁いだのも、要するに家に置く場所がなかったからだ。三十歳を過ぎた喪主の再婚相手として、格好がつけばそれでよかった。子は望まれなかった。望まれていたのは、跡継ぎの世話をする者だった。
だから白い結婚のままでも、誰も困らなかった。わたくしも、困らなかったと思う。困る暇がなかった。
持参金は返ると仰っていたから、当面は宿を取れる。そのあとのことは、そのあとに考えればいい。わたくしは傘の柄を持ち直した。マルテの傘は、思ったより重かった。
半刻ほど歩いたところで、街道の脇に立って、一度だけ後ろを見た。屋敷は、もう小さい。雨の向こうに、輪郭だけが見えている。
窓の灯りが、いくつか点いていた。夕食が終わって、そろそろ皆が下がる時刻だ。灯りは順に消えていくはずだった。
ひとつずつ、消えた。広間、書斎、義母の部屋、それから客間。
東の端の、二階の小さな窓だけが、消えなかった。
あの部屋は暗くしないと眠れない、といつか本人が仰ったことがある。だから寝るときは必ず消す。いつもは、いちばん早く消える窓だった。消し忘れであろう、とわたくしは思った。
乳母が王都から来るまでは、誰かが世話をするのだろう。そのうち慣れる。子どもは慣れる。そう思って、歩きだした。
灯りは、いつまでも消えなかった。
二日ぶんの雨にお付き合いいただき、ありがとうございました。
三十年その家にいる人は、余計なことを言いません。言わない代わりに、傘を持ってきます。
街道の先、宿場町までは一刻。後ろから足音が近づきます。マルテのものではありません。
【その日の献立】 干した林檎、ひときれ。—— 鞄の中。




