第1話:明日からご自分で
離縁状に署名を求められたのは、夕食の支度を終えた直後だった。手はまだ、湯の匂いがしていた。
「三年、ご苦労だった」
夫のディートリヒさまは、書類の向きをこちらへ回しながら、わたくしの顔を見なかった。卓に置かれた蝋の色は、婚姻のときと同じ。ちがうのは、隣に控えているのがマルテではなく、セラフィーネさまだということ。その方のお腹には、もう五月になる子がいる。
「跡継ぎは、この子にする」
はい、とわたくしは答えた。驚きはしなかった。この家でわたくしがしていたことは、たったひとつだったから。
——七つになるこの家の子に、食べられるものを、ひとつずつ見つけること。
フェルトハイム伯爵家に嫁いだのは、三年前の秋だった。先の奥様が亡くなって二年。屋敷には跡継ぎのニルスさまがいた。わたくしに求められたのは、その方の世話——というより、その方に食事をさせることだった。
「何を食べても吐くのです」
義母のヘルミーネさまは、廊下を歩きながらそう仰った。立ち止まりもしなかった。
「わがままなのですよ。昔から」
「お医者さまは、なんと」
「三人来て、三人とも同じことを申しました。どこも悪くない、と」
義母は扉の前で振り返って、はじめてわたくしを見た。
「よろしいですか。甘やかしては駄目。出したものを、出したとおりに食べさせなさい」
「かしこまりました」
「わたくしはそうしてまいりました。この家は、それでやってきたのです」
屋敷の者は誰も、あの方の前に皿を置きたがらなかった。置けば下げねばならず、下げるたびに義母の目が光ったからだ。わたくしは厨から帳面を一冊もらった。表紙の革の古い、誰かの使い残しだった。そこに、日付と、作ったものと、食べた口数を書いた。
一日目。麦の粥。零口。
二日目。麦の粥、湯で薄めたもの。零口。
七日目。同じもの。ひとくち。
ひとくちに、七日かかった。十日目に少し多く入れたら、その日はまた零に戻った。だから量は増やさなかった。ひとくちのまま、十四日続けた。十五日目に、ふたくちになった。
二十日目のことは、よく覚えている。匙を持たせて待っていたら、あの方がこちらを見上げた。何か言いたいのだろうと思って、待った。何も仰らない。ただ見ている。わたくしが頷いてみせると、口が開いた。
その日から、わたくしは必ず頷くことにした。あの方は、許しがないと食べられない。誰がそう教えたのかは、その時のわたくしには分からなかった。
「聞いているのか、ミリアム」
ディートリヒさまの声で、わたくしは顔を上げた。羽根ペンが差し出されている。署名をした。字は、思ったよりも乱れなかった。
「持ち物は好きにしろ。持参金は返す。実家に戻るなり、どこへなり」
「ありがとうございます」
「……それだけか」
それだけ、とはどういう意味だろう。わたくしは少し考えて、卓の端に置いていた包みをほどいた。中には帳面が入っている。十二冊ある。
「これを」
「なんだ」
「あの方が食べられるものです。四十七、書いてございます」
ディートリヒさまは、いちばん上の一冊を手に取った。表紙を撫でて、そのまま卓に戻した。開かなかった。
「まあ、帳面」
セラフィーネさまが、扇の陰で笑った。
「奥様は、物書きでいらしたのね」
「いいえ」
「あの子のことでしたら、乳母を雇いますわ。ちゃんとした方を。王都からお呼びしますの」
「その方は、いつお着きになりますか」
「まあ。あなたに関わりのないことでしょう」
「ございません。ただ、明日の朝の分を、どなたが」
セラフィーネさまが、ディートリヒさまを見た。ディートリヒさまは、書類を揃えていた。
「明朝は厨に任せる」
「厨のどなたに」
「ミリアム」
「エーリヒさんは麦を茹ですぎます。ロージーさんは味を見るときに指をお使いになります。あの方は、指の入ったものを食べません」
「……そんなことまで」
「三日で覚えられることではございません」
誰も答えなかった。わたくしは、それ以上は申し上げなかった。答えを聞きたかったのではなく、卓の上に置いておきたかっただけだから。
「厨の者に渡しておけ」と、ディートリヒさまが言った。
「厨の者は、あの方の匙を見たことがございません」
「匙?」
「はい」
わたくしは説明の言葉を探した。どう申し上げれば伝わるのか、いまだに分からない。ニルスさまは匙を両手で持つ。皿が置かれてから口へ運ぶまでに、必ず一度こちらを見る。頷けば食べる。頷かなければ、いつまでも待っている。冷めても待っている。それを知らない者が皿を置くと、あの方は一度も口を開けない。
「粥の濃さは、その日の顔色で変えます。前の晩によく眠れなかった日は、水を二割足します」
「ミリアム」
「同じものを三日続けると、四日目に食べなくなります。ですから四十七を順に回します。順番も書いてございます」
「ミリアム」
「玉子は、白身だけなら。黄身は、まだ」
「もういい」
ディートリヒさまは、手のひらを卓の上で一度返した。話を終わらせるときの、いつもの仕草だった。
「たかが食事だろう」
湯の匂いが、まだ手に残っていた。わたくしは自分の指を見た。爪の際が荒れている。湯と、火の跡だった。
「——たかが食事でございます」
自分の声が、いつもより低く出た。セラフィーネさまの扇が止まった。
「ですから、あの子の食事は、明日からご自分で」
誰も、何も言わなかった。わたくしは帳面を十二冊、卓の中央に積み直した。いちばん上の一冊だけ表紙が斜めになっていたので、それも直した。それから、礼をして部屋を出た。
廊下の柱のそばに、ニルスさまが立っていた。いつからいたのかは分からない。この方は足音を立てない。何をどう教えても、そこだけは直らなかった。
「ニルスさま」
呼ぶと、こちらを見た。それきり、何も言わない。わたくしは膝を折って、目の高さを合わせた。
「明日から、別の方がお食事をお作りになります」
子どもは頷いた。分かっているのか、いないのか。この方は困ったときにも頷く。
「今日のかぶは、ふたくち召し上がりましたね。よくできました」
また頷いた。
「では、おやすみなさいませ」
わたくしは立ち上がって、廊下を三歩、歩いた。
袖が、動かなかった。
振り返ると、ニルスさまが、わたくしの袖の端を握っていた。両手で。
この方はいつもそうする。匙も、両手で持つ。片手で持つと行儀が悪いと言われて取り上げられるから、いつからかそうなった。わたくしは、その手をほどこうとした。指を一本ずつ、丁寧に。爪を立てないように。
三度、試した。
お読みくださって、ありがとうございます。
帳面の書式は、日付と、作ったものと、口数の三つだけにしました。凝った様式にすると続かないからです。三年続いたのは、たぶん様式が貧しかったからだと思っています。
明日の朝、この家の厨に灯りが入るのは七の鐘です。六の鐘の前に起きる子が、ひとり。
【その日の献立】 かぶのすり流し。—— ふたくち。




