第29話:おかわり
二月の十日は、晴れた。
雪の朝で、光が痛いくらいだった。中庭の道は、若い兵が夜明け前にかいてくれていた。わたくしは、六の鐘の前に厨へ降りた。
玉子は、四つある。
一つ目は、白身だけを湯で固めた。これは通る。二つ目は、黄身を裏漉しして、粥に少しだけ混ぜた。色が変わらない程度に。三つ目は、黄身を湯で固めて、崩したもの。四つ目は、まだ決めていない。三つのうちどれかが駄目だったときに、その理由を見てから決める。
ギゼラさんが、竈の前を空けてくれた。空けて、それから隣に立った。
「見てるよ」
「はい」
「手は出さないよ」
「はい」
マルガさんも来た。三人で狭い厨に立って、玉子を見ていた。傍から見れば、おかしな光景だったと思う。
朝の膳を、わたくしが運んだ。
今朝だけは、と、マルガさんが譲ってくれた。譲るという言い方を、その人はしなかった。ただ、盆をこちらへ寄せただけだった。
部屋に入ると、ニルスさまはもう起きていた。寝台の端に座って、足を床につけている。今日は、つけている。
「おはようございます」
「……おはよう」
「お誕生日、おめでとうございます」
その方は、頷いた。
卓に盆を置いた。皿は四つ。粥と、白身と、黄身を混ぜた粥と、崩した黄身。
「玉子でございます」
その方は、皿を見た。
しばらく、見ていた。
「合わなければ、戻していただいてよろしゅうございます。布はここにございます」
「……」
「今日は、そういう日でございます」
その方は、匙を取った。
両手で。掬って、それから、わたくしの顔を見た。
わたくしは頷いた。顎だけ、一度。目は合わせたまま。
白身が、口に入った。
噛んで、飲み込んだ。これは通る。分かっていた。
次に、黄身を混ぜた粥を掬った。
わたくしは、息を止めていた。止めていたことに、あとから気づいた。
口に入った。
その方は、動かなかった。口の中に入れたまま、目を伏せている。喉が動かない。
わたくしは、布を出そうとした。
喉が、動いた。
飲み込んだ。
わたくしは、卓に手をついた。ついてから、それではいけないと思って、姿勢を直した。ここで大きな音を立てると、次が止まる。
「よくできました」
声が、少し変になった。
その方は、二くち目を掬った。同じ皿からだ。
入って、飲み込んだ。三くち目も入った。
四くち目で、崩した黄身のほうへ匙が伸びた。
わたくしは、止めなかった。
その方は、それを掬って、口に入れた。噛んだ。今度は、噛む必要のあるものだった。
時間がかかった。ずいぶんかかった。わたくしは、そのあいだ何も言わなかった。
飲み込んだ。
それから、その方は皿を見た。黄身の皿は、まだ半分ほど残っている。
匙が、動いた。
わたくしは、顔を見た。
この方は、こちらを見なかった。
見ずに、掬った。見ずに、口へ運んだ。
わたくしは、その手を見ていた。三年、必ず一度こちらを見た手だ。頷きを待った手だ。頷かなければ、冷めるまで待った手だ。
その手が、いま、こちらを見ずに動いている。
皿が、空になった。
その方は、匙を置いた。置いてから、顔を上げた。
「おかわり」
わたくしは、その四文字を聞いた。
聞いてから、しばらく何も言えなかった。言えないまま、頷いた。今度の頷きは、許しではなかった。
「はい」
わたくしは、そう答えた。
「すぐに、お持ちいたします」
立ち上がって、扉のところまで行って、そこで一度、廊下の壁に手をついた。立っているのが難しかったからだ。
厨へ降りると、ギゼラさんとマルガさんが階段の下に立っていた。二人とも、上を見ていた。
「……おかわり、だそうでございます」
わたくしは、そう言った。
ギゼラさんが、鍋を火にかけた。かけてから、袖で顔を拭いた。
「煙が目に沁みてね」
「まだ火が入っておりませんが」
「うるさいね」
マルガさんは、両手を口に当てて立っていた。
「ミリアムさま」
「はい」
「わたくし、今朝はお運びしておりません」
「はい」
「わたくしがお教えいただいた頷きは、今日は使われませんでした」
「……はい」
「使われなくなるために、お教えくださったのですね」
わたくしは、返事をしなかった。その人は、それ以上は訊かずに、皿を取りに上がっていった。
二度目の皿を持って階段を上がると、廊下に人が立っていた。
義母だった。
部屋を出たのは、十日ぶりだった。扉の少し手前に立って、開いたままの隙間から、中を見ている。
「お義母さま」
呼ぶと、こちらを向いた。
「……ミリアムさん」
「はい」
「あの子は」
「玉子を召し上がっております。黄身でございます」
義母は、それを聞いた。
「黄身を」
「はい」
「あの子は、黄身が駄目でしたでしょう」
「駄目でございました。あの家では、一度も通りませんでした」
「では、なぜ」
「ご本人が、召し上がりたいと仰いましたので」
義母は、廊下の壁のほうを見た。
「……訊いたのですか」
「はい」
「何を召し上がりたいか、あの子に」
「はい。昨日の朝に」
その人は、しばらく黙っていた。
「……そう」
それだけ仰って、部屋へ戻っていった。
扉が閉まる音がした。いつもより、少し長くかかって閉まった。
その日、あの方は玉子を全部召し上がった。
四つのうち三つだ。四つ目は、作らずに済んだ。
夜、わたくしは帳面を開いた。
——五十。玉子(黄身)。裏漉し、粥に混ぜたもの。
——五十一。玉子(黄身)。湯で固めて崩したもの。
書いてから、その下に、もう一行足した。
——本日、頷きを待たずに召し上がりました。
わたくしは、その行を長いこと見ていた。
三年、わたくしは頷く人だった。頷く人が要らなくなるというのは、たぶん、いちばん良い終わり方だ。
良い終わり方だ、と自分に言った。言ってから、わたくしは机に伏せて、少しだけ泣いた。
扉が叩かれたのは、そのすぐあとだった。
わたくしは慌てて顔を上げて、袖で拭いた。拭いてから、返事をした。
セヴェリンさまだった。
「……夜分に」
「いえ」
「顔が」
「煙が目に沁みまして」
「竈は」
「入っておりません」
その人は、それ以上は言わなかった。
「聞きました。玉子だそうですね」
「はい。五十と、五十一でございます」
「五十一」
その人は、廊下に立ったままだった。中には入ってこない。
「ミリアム殿」
「はい」
「春の話をしても」
「……はい」
「峠が開いたら、母上——いえ、あちらの奥方は帰られます」
「はい」
「あの子は、ここに残ります」
「はい。伯爵さまのお手紙で、存じております」
その人は、少し黙った。
「あなたは」
わたくしは、顔を上げた。
「……わたくしは」
「いや」
その人は、そこで首を振った。
「今日は、こういう日ではない」
「はい」
「明日、もう一度伺います」
そう言って、扉を閉めた。
わたくしは、しばらく机の前に座っていた。訊かれかけたことが何だったのかは、たぶん分かった。分かったけれど、答えは持っていなかった。
お読みくださって、ありがとうございます。
題は、いちばん最初にミリアムが言った台詞から取りました。「あの子の食事は、明日からご自分で」。今日それは、本人が思っていたのとはちがう形で本当になりました。
夜、扉が叩かれます。廊下に立った人は、途中で言葉を飲み込んで帰りました。
ブックマークと評価は、次の帳面の紙代に充てさせていただきます。今日はいつもより厚めの一冊を買います。
【その日の献立】 玉子。—— 全部。五十と、五十一でございます。




