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離縁されましたので、あの子の食事は明日からご自分で  作者: 蒼井玲


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第28話:長い卓に誰もいない

 峠が一日だけ開いた日に、手紙が三通届いた。


 一通はセヴェリンさまへ。領地の書きものだ。二通目は義母へ。差出人はディートリヒさまだった。三通目は、わたくし宛だった。


 わたくし宛の手紙が届いたのは、生まれて初めてかもしれない。実家からは、嫁いだ日から一度も来ていない。


 封を切ると、字が二種類あった。


 最初の一枚は、ディートリヒさまの字だった。


 ——ミリアム。先日は世話になった。


 わたくしは、椅子に座った。


 ——家のことを知らせておく。エーリヒは年明けに出た。ロージーは残った。残った理由は、俺には言わなかった。

 ——厨の献立を変えた。母がいないので、俺が決めた。決めたというより、あるものを出すことにした。それだけのことで、ロージーが手を止めて俺の顔を見た。長いこと見ていた。


 わたくしは、そこを二度読んだ。


 ——セラフィーネは書いている。あんたに言われたとおり、食べたものと戻したかどうかを毎日書いている。二十日ほど経つ。戻さない日が、七日あった。

 ——七日のうち六日は、厨で立って食べた日だった。あれは卓が悪いのだと思う。俺は卓の何が悪いのか分からんが、そう書いてあるのだから、そうなのだろう。

 ——だから、しばらく卓は使わないことにした。長い卓に誰もいない。使用人が困っている。


 わたくしは、その一行のところで、しばらく手を止めた。


 あの卓を、わたくしは毎晩見ていた。義母が上座に座って、夫がその隣で、わたくしは端で、ニルスさまは向かい。決まった席があった。決まった席に、決まったものが並んだ。


 誰も座っていない、という。


 ——ニルスのことだ。

 ——籍は動かせない。動かすと親戚がうるさい。だが、あの子はそちらに置く。グレーヴェン辺境伯に預ける。書類は同封する。

 ——母には別に書いた。反対するだろうが、決めたのは俺だ。


 わたくしは、次の行を読んだ。


 ——理由を書いておく。あんたが訊いたからだ。

 ——俺は、あの子が何を食えるか知らない。好きな色も知らない。誕生日も知らない。それを、知らないままここまで来た。知ろうと思えば知れた。訊けばよかった。訊かなかった。

 ——いまから覚えることはできる。だが、覚えたところで、俺は数えられん。毎日、何口食ったかを紙に書き続けるということが、俺にはできない。やってみて分かった。三日で忘れた。

 ——数えられる者のところに置くのが、いちばんいい。


 わたくしは、手紙を膝に置いた。


 しばらく、そのままでいた。


 この人は、負けたと書いている。書いて、それを紙にして、峠を越えて送ってきた。あの帳面を開かなかった人が、自分の書いたものを人に読ませている。


 最後に、一行あった。


 ——あの子に、誕生日おめでとうと伝えてくれ。二月の十日だそうだ。母に訊いた。


 二枚目は、別の字だった。


 小さくて、丸い字だった。震えている。


 ——ミリアムさま。帳面をありがとうございました。

 ——七日、戻しませんでした。書いてあると、七日だったと分かります。書いていなければ、たぶん、ずっと駄目だったと思っていました。

 ——お腹の子は、先月より大きくなったそうです。

 ——あなたさまに、ひどいことを申しました。覚えておいでかどうか分かりませんが、わたくしは覚えております。


 セラフィーネさまの字だった。


 わたくしは、その四行を二度読んで、それから、二枚とも机の抽斗にしまった。


 夕方、厨でギゼラさんに言った。


「明後日は、ニルスさまのお誕生日だそうでございます」

「へえ」

「二月の十日だそうです」

「あんた、知らなかったのかい」

「存じませんでした」


 ギゼラさんは、豆を選る手を止めた。


「三年いて」

「三年おりました」

「よく訊かなかったね」

「……訊いてよいことだと、思っておりませんでした」


 その人は、しばらく何も言わなかった。


「八つかい」

「八つになられます」

「そうかい」


 それから、こう言った。


「地下に、去年の蜂蜜がまだある」


 義母は、その日から部屋を出なくなった。


 ディートリヒさまの手紙を読んだのだと思う。食事は、マルガさんが運んでいる。運ばれたものを、召し上がっているのかどうかは、わたくしは知らない。皿は下げられるときに空になっていると、マルガさんが言っていた。空になっているだけで、召し上がったかどうかは分からない。あの家の作法では、それを「召し上がった」と呼ぶ。


 書斎へ、林檎を持っていった。焼く日だった。


 机の上には、まだ手紙が広げてある。


「置いてまいります」

「はい」


 下がりかけると、その人が言った。


「甘いということが、分かるようになりました」


 わたくしは、戸口で足を止めた。


「……甘い」

「以前は、蜜を足しても足さなくても、同じでした」

「……はい」

「ほかのものは、まだ分かりません」


 その人は、そう言った。それから、こう続けた。


「三日に一度で、よろしいのですね」

「はい」

「三日続けると、四日目に分からなくなる」


 わたくしが以前に申し上げた言い方だった。この人は、それを覚えていた。


 わたくしは、頭を下げて、戸口を出た。出てから、廊下でしばらく立っていた。


 その夜、わたくしは帳面を開いた。


 明後日の献立を書くためだった。八つになる子に、何を出すか。


 いつもの粥と、乳と、蕪。それから、蜂蜜。書いてから、線を引いて消した。


 いつものものでよいのだろうか。誕生日というのは、いつもとちがうものを出す日ではないのだろうか。


 わたくしは、消した行をもう一度書き直した。書き直して、また消した。


 三度目に、こう書いた。


 ——ご本人に伺うこと。


 翌朝、伺った。


「ニルスさま。明日は、お誕生日でございます」


 その方は、匙を持ったまま、こちらを見た。


「八つにおなりです」

「……ぼくの」

「はい。ニルスさまのお誕生日でございます」


 その方は、しばらく黙っていた。


「……あるの」

「ございます。二月の十日でございます」


 この方は、自分に誕生日があることを知らなかったのだと思う。あの家では、誰も祝わなかった。祝わないものは、無いのと同じになる。


「明日、何を召し上がりたいですか」


 訊くと、匙が止まった。


 答えは、なかなか出てこなかった。わたくしは待った。あれだけ待ったのだから、朝のひとつぶんくらいは待てる。


「……なんでも、いいの」

「なんでもよろしゅうございます」

「……たべられなくても」

「かまいません。合わなければ、書きます。書けば、次に活きます」


 その方は、また黙った。


 それから、こう言った。


「たまご」


 わたくしは、匙を置きそうになった。


「玉子でございますか」

「うん」

「黄身は、まだ召し上がれません。白身だけでしたら」

「きみ」


 その方は、そう言った。


「きみが、たべたい」


 わたくしは、しばらく返事ができなかった。


 黄身は、一度も通っていない。四十九のうちに入っていない。ズザンネさまの二十枚にも入っていない。この方が、いちばん長いあいだ食べられなかったものだ。


「かしこまりました」


 わたくしは、そう申し上げた。


「明日、お出しいたします」


 その日のうちに、若い兵に頼んで、鶏の玉子を四つ取ってきてもらった。四つあれば、四通り試せる。合わなければ、合わなかったと書けばいい。書ける日だ。


「明日は、うまくいかなくてもよろしいのですよ」


 厨で、そう言った。誰にでもなく言った。ギゼラさんが、地下から蜂蜜を持って上がってきた。

 お読みくださって、ありがとうございます。


 ディートリヒは「俺は数えられない」と書いてきました。できないと書くのは、たぶんこの人にできる精一杯のことでした。


 鶏の玉子が四つ。四つあれば、四通り試せます。合わなければ、合わなかったと書くだけです。


【その日の献立】 麦の粥に乳、蕪、蜂蜜。—— むくち。

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