第27話:ヘルミーネの食卓
四日目の朝に、通った。
マルガさんが匙を差し出して、ニルスさまが受け取って、それから顔を上げた。マルガさんが頷いた。顎だけ、一度。目は合わせたまま。
匙が、口に入った。
わたくしは厨の戸口で見ていた。入っていくところは見えなかった。マルガさんの背中で隠れていたからだ。分かったのは、その背中が動かなくなったからだった。
ふたくち。三くち。
四くち目で、その人が振り返った。泣きそうな顔をしていた。わたくしは首を振って、続けてくださいと口だけで言った。
その朝、あの方は五くち召し上がった。
義母が広間へ来たのは、そのすぐあとだった。
卓の上には、まだ皿がある。減った粥が入っている。
義母はそれを見た。それから、マルガさんを見た。
「マルガ」
「はい」
「あなた、何をなさいましたの」
「お食事をお出しいたしました」
「そのようなことを訊いているのではございません」
声は柔らかいままだった。
「あなたの頷き方は、どなたにお習いになりましたの」
マルガさんは答えなかった。答えずに、皿を持ち上げた。
「奥様」
「はい」
「この方は、召し上がっております」
その人は、そう言った。
わたくしが知っている限り、あの家で義母にそう言った人は、いない。声を荒げたのではない。反論ですらない。ただ、目の前の事実を口に出しただけだ。
義母は、少し黙った。
「マルガ。あなたは王都で三家に仕えたと伺いました」
「はい」
「では、お分かりでしょう。奥の指図に従うのが」
「従っております」
「では」
「奥様は、この方に召し上がっていただきたくないのでございますか」
義母はそこで言葉を止めた。
止めて微笑んだ。
「そういうことを申しているのではございません」
「はい」
「わたくしは、あの子のためを思って」
「存じております」
マルガさんは頭を下げた。
下げて、皿を持って、厨へ下がっていった。従わなかったのに、無礼ではなかった。そういう下がり方だった。
昼に義母がギゼラさんを呼んだ。
厨の献立を、あの家の形に改めるようにと仰った。朝はパン、昼は煮込み、夜は焼いた肉。館の者にも同じものを出すように、と。
ギゼラさんは話を最後まで聞いた。
「無理でございますね」
「無理」
「肉がございません。峠が閉じておりますので、あるのは干したのが少しだけで」
「では、それを」
「兵が三十人おりますよ。干し肉で三十人の朝を作れと仰るなら、三日で無くなります。春まで、あと五十日ございます」
義母は何か仰ろうとした。
「奥様」
ギゼラさんが、先に言った。
「あたしゃ四十年、ここの飯を作ってます。冬に何を出すかは、あるもんで決まるんです。決まりで決めると、人が死にます」
その人は、そう言った。言い方は乱暴だったけれど、それは事実の話だった。事実の話には、微笑みが効かない。
午後、わたくしは自分の部屋で、二十枚を読み返していた。
マルガさんが通ったのだから、四十九のうちのどれが通るかも、書き足しておかなければいけない。それを書くには、まず何が通っているのかを数え直す必要がある。
数えているうちに、手が止まった。
二十枚の中に、通ったものが十一あった。
——おかゆ。うすく。
——ちちにひたしたぱん。
——ゆでたかぶ。すりつぶし。
——ほしたりんご。
——たまごのしろみ。
わたくしは、その五つを、四十九の紙と突き合わせた。
全部、入っていた。
わたくしが三年かけて見つけたと思っていたもののうち、十一は、この人が先に見つけていた。見つけて、書いて、取り上げられて、それでも書いた。書いたものを、厨の棚に置いていった。
わたくしは、それを知らずに、同じ十一をもう一度見つけた。
同じ道を、二回歩いたことになる。
もし、あの帳面の余白を最初の日に読んでいたら。もし、誰かがわたくしに「これは前の奥様のものです」と言ってくれていたら。
三年は、たぶん、一年で済んだ。
わたくしはその紙の上に手を置いて、しばらくそうしていた。
悔しいのだと思った。それから、ちがうと思った。
悔しいのではない。この人が見つけたものを、この人が誰にも渡せないまま死んだことが、悔しいのだ。
わたくしは四十九の紙のいちばん下に、一行足した。
——このうち十一は、ズザンネさまが見つけたものです。
書いてからその行を読み返した。これで、この人の名前が紙に残る。残った紙は、次の人が読む。
夕方、セヴェリンさまが義母を書斎へ呼んだ。
何を話したのかは、わたくしは知らない。半刻ほどで、義母が出てきた。顔色は変わっていなかった。この人は、顔色が変わらない。
そのあとで、わたくしは書斎へ呼ばれた。
机の端に、空の皿があった。昨日、焼いた林檎を出した皿だ。まだ下げられていない。
「何を仰いましたか」
「峠の話をしました」
「峠」
「春まで五十日ある。それまでは、この館の決まりで動いていただくと」
「……それだけでございますか」
「それだけです」
セヴェリンさまは、机の上の書きものを片付けていた。
「追い出せばよいと、お思いですか」
「いいえ」
「私も、そうは思いません」
「はい」
「追い出せば、あの人は正しいままです」
その人は、そう言った。
「正しいままで帰って、正しいままで次の誰かに同じことをする」
「……はい」
「ここにいていただくほうがよい。五十日、あの子が食べるところを見ていただく」
わたくしは、頷いた。
「セヴェリンさま」
「はい」
「それは、罰でございますか」
「わかりません」
その人は、少し考えてから、こう続けた。
「私は、妹にそれを見せられませんでした」
その夜、広間の卓に、義母は一人で座っていた。
いつもの時刻だった。あの家の夕食の時刻だ。卓には、ギゼラさんが用意した豆と、干し肉と、蕪があった。
誰も来なかった。
セヴェリンさまは、領地の仕事で村へ降りていた。マルガさんは、ニルスさまの部屋で夕食をつけていた。兵たちは、いつもどおり広間の隅の長机で食べていて、上座には近寄らない。
義母は卓の前に座ったまま、匙を持たなかった。
わたくしはそれを廊下から見ていた。
しばらくして湯を持っていった。
「お義母さま」
「……ええ」
「お寒うございましょう。湯をお持ちしました」
義母は椀を見た。
「けっこうです」
そう仰った。
「いただきません」
わたくしは、椀を持ったまま、少しのあいだ立っていた。
それから、お引きします、と申し上げて、下げた。
厨へ戻って椀を流しに置いてから、手が止まった。
いま、あの人は、出されたものを断った。
その一言を、わたくしは頭の中でもう一度並べた。並べても、同じだった。
寒い夜だ。湯を断る理由は、いくらでもある。お腹がいっぱいだったのかもしれないし、わたくしから受け取りたくなかったのかもしれない。そういうことは、誰にでもある。
誰にでもあることだと、あの人は思っているだろうか。
お読みくださって、ありがとうございます。
誰も勝っていません。義母は叱られてもいませんし、追い出されてもいません。ただ、誰も従わなくなりました。
峠が一日だけ開くそうです。開けば、手紙が三通届きます。
【その日の献立】 麦の粥に乳、蕪。—— いつくち。マルガさんがお出しになったものを。




