↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
離縁されましたので、あの子の食事は明日からご自分で  作者: 蒼井玲


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
27/30

第27話:ヘルミーネの食卓

 四日目の朝に、通った。


 マルガさんが匙を差し出して、ニルスさまが受け取って、それから顔を上げた。マルガさんが頷いた。顎だけ、一度。目は合わせたまま。


 匙が、口に入った。


 わたくしは厨の戸口で見ていた。入っていくところは見えなかった。マルガさんの背中で隠れていたからだ。分かったのは、その背中が動かなくなったからだった。


 ふたくち。三くち。


 四くち目で、その人が振り返った。泣きそうな顔をしていた。わたくしは首を振って、続けてくださいと口だけで言った。


 その朝、あの方は五くち召し上がった。


 義母が広間へ来たのは、そのすぐあとだった。


 卓の上には、まだ皿がある。減った粥が入っている。

 義母はそれを見た。それから、マルガさんを見た。


「マルガ」

「はい」

「あなた、何をなさいましたの」

「お食事をお出しいたしました」

「そのようなことを訊いているのではございません」


 声は柔らかいままだった。


「あなたの頷き方は、どなたにお習いになりましたの」


 マルガさんは答えなかった。答えずに、皿を持ち上げた。


「奥様」

「はい」

「この方は、召し上がっております」


 その人は、そう言った。


 わたくしが知っている限り、あの家で義母にそう言った人は、いない。声を荒げたのではない。反論ですらない。ただ、目の前の事実を口に出しただけだ。


 義母は、少し黙った。


「マルガ。あなたは王都で三家に仕えたと伺いました」

「はい」

「では、お分かりでしょう。奥の指図に従うのが」

「従っております」

「では」

「奥様は、この方に召し上がっていただきたくないのでございますか」


 義母はそこで言葉を止めた。


 止めて微笑んだ。


「そういうことを申しているのではございません」

「はい」

「わたくしは、あの子のためを思って」

「存じております」


 マルガさんは頭を下げた。


 下げて、皿を持って、厨へ下がっていった。従わなかったのに、無礼ではなかった。そういう下がり方だった。


 昼に義母がギゼラさんを呼んだ。


 厨の献立を、あの家の形に改めるようにと仰った。朝はパン、昼は煮込み、夜は焼いた肉。館の者にも同じものを出すように、と。


 ギゼラさんは話を最後まで聞いた。


「無理でございますね」

「無理」

「肉がございません。峠が閉じておりますので、あるのは干したのが少しだけで」

「では、それを」

「兵が三十人おりますよ。干し肉で三十人の朝を作れと仰るなら、三日で無くなります。春まで、あと五十日ございます」


 義母は何か仰ろうとした。


「奥様」


 ギゼラさんが、先に言った。


「あたしゃ四十年、ここの飯を作ってます。冬に何を出すかは、あるもんで決まるんです。決まりで決めると、人が死にます」


 その人は、そう言った。言い方は乱暴だったけれど、それは事実の話だった。事実の話には、微笑みが効かない。


 午後、わたくしは自分の部屋で、二十枚を読み返していた。


 マルガさんが通ったのだから、四十九のうちのどれが通るかも、書き足しておかなければいけない。それを書くには、まず何が通っているのかを数え直す必要がある。


 数えているうちに、手が止まった。


 二十枚の中に、通ったものが十一あった。


 ——おかゆ。うすく。

 ——ちちにひたしたぱん。

 ——ゆでたかぶ。すりつぶし。

 ——ほしたりんご。

 ——たまごのしろみ。


 わたくしは、その五つを、四十九の紙と突き合わせた。


 全部、入っていた。


 わたくしが三年かけて見つけたと思っていたもののうち、十一は、この人が先に見つけていた。見つけて、書いて、取り上げられて、それでも書いた。書いたものを、厨の棚に置いていった。


 わたくしは、それを知らずに、同じ十一をもう一度見つけた。


 同じ道を、二回歩いたことになる。


 もし、あの帳面の余白を最初の日に読んでいたら。もし、誰かがわたくしに「これは前の奥様のものです」と言ってくれていたら。


 三年は、たぶん、一年で済んだ。


 わたくしはその紙の上に手を置いて、しばらくそうしていた。


 悔しいのだと思った。それから、ちがうと思った。


 悔しいのではない。この人が見つけたものを、この人が誰にも渡せないまま死んだことが、悔しいのだ。


 わたくしは四十九の紙のいちばん下に、一行足した。


 ——このうち十一は、ズザンネさまが見つけたものです。


 書いてからその行を読み返した。これで、この人の名前が紙に残る。残った紙は、次の人が読む。


 夕方、セヴェリンさまが義母を書斎へ呼んだ。


 何を話したのかは、わたくしは知らない。半刻ほどで、義母が出てきた。顔色は変わっていなかった。この人は、顔色が変わらない。


 そのあとで、わたくしは書斎へ呼ばれた。

 机の端に、空の皿があった。昨日、焼いた林檎を出した皿だ。まだ下げられていない。



「何を仰いましたか」

「峠の話をしました」

「峠」

「春まで五十日ある。それまでは、この館の決まりで動いていただくと」

「……それだけでございますか」

「それだけです」


 セヴェリンさまは、机の上の書きものを片付けていた。


「追い出せばよいと、お思いですか」

「いいえ」

「私も、そうは思いません」

「はい」

「追い出せば、あの人は正しいままです」


 その人は、そう言った。


「正しいままで帰って、正しいままで次の誰かに同じことをする」

「……はい」

「ここにいていただくほうがよい。五十日、あの子が食べるところを見ていただく」


 わたくしは、頷いた。


「セヴェリンさま」

「はい」

「それは、罰でございますか」

「わかりません」


 その人は、少し考えてから、こう続けた。


「私は、妹にそれを見せられませんでした」


 その夜、広間の卓に、義母は一人で座っていた。


 いつもの時刻だった。あの家の夕食の時刻だ。卓には、ギゼラさんが用意した豆と、干し肉と、蕪があった。


 誰も来なかった。


 セヴェリンさまは、領地の仕事で村へ降りていた。マルガさんは、ニルスさまの部屋で夕食をつけていた。兵たちは、いつもどおり広間の隅の長机で食べていて、上座には近寄らない。


 義母は卓の前に座ったまま、匙を持たなかった。


 わたくしはそれを廊下から見ていた。


 しばらくして湯を持っていった。


「お義母さま」

「……ええ」

「お寒うございましょう。湯をお持ちしました」


 義母は椀を見た。


「けっこうです」


 そう仰った。


「いただきません」


 わたくしは、椀を持ったまま、少しのあいだ立っていた。


 それから、お引きします、と申し上げて、下げた。


 厨へ戻って椀を流しに置いてから、手が止まった。


 いま、あの人は、出されたものを断った。


 その一言を、わたくしは頭の中でもう一度並べた。並べても、同じだった。


 寒い夜だ。湯を断る理由は、いくらでもある。お腹がいっぱいだったのかもしれないし、わたくしから受け取りたくなかったのかもしれない。そういうことは、誰にでもある。


 誰にでもあることだと、あの人は思っているだろうか。

 お読みくださって、ありがとうございます。


 誰も勝っていません。義母は叱られてもいませんし、追い出されてもいません。ただ、誰も従わなくなりました。


 峠が一日だけ開くそうです。開けば、手紙が三通届きます。


【その日の献立】 麦の粥に乳、蕪。—— いつくち。マルガさんがお出しになったものを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。