第26話:誰がそう教えたのか
その夜、わたくしは机に紙を広げた。
書きたいことがあったわけではない。書かないと、頭の中のものが並ばなかった。
左の端に、名前を書いた。
——ニルスさま。
その右に、食べられなくなった時期を書いた。生まれてから、ずっとだ。
その下に、もうひとつ書いた。
——ズザンネさま。嫁いで二年目から。
その下に、もうひとつ。
——セラフィーネさま。ふた月前から。
少し迷ってから、いちばん下に自分の名前を書いた。
——ミリアム。嫁いですぐから。気づいたのは、離縁されたあと。
四つ並んだ。並べてみると、はっきりした。
この四人に、血のつながりは無い。ズザンネさまとニルスさまだけが親子で、あとの二人は他人だ。わたくしとセラフィーネさまに至っては、生家も、育ちも、性質も、何ひとつ似ていない。
共通しているのは、ひとつだけだった。
あの家の卓に着いたこと。
わたくしは、その紙の上に、もう一行足した。
——お義母さま。嫁いで二年ほど。ご本人は「慣れた」と仰る。
五人になった。
筆を置いて、しばらく紙を見ていた。
義母は、被害を受けた人だった。十九で嫁いで、厨に鍵をかけられて、二年戻し続けて、それから慣れた。慣れたと呼ぶことにした。
そして、次の人に同じことをした。
わたくしは、それを冷たいことだと思っていた。ちがう。あの人にとって、それは親切なのだ。自分が通った道を通らせている。自分は通れた。だから通れる。通れないのは甘やかされたからだ。
筋は通っている。最初のひとつを疑わない限り、どこにも穴がない。
では、最初のひとつは誰が言ったのだろう。
義母の義母だろうか。その人にも、たぶん義母がいた。その人にも。
遡っていくと、どこにも最初の人がいない。誰かが悪意で始めたのなら、その人を止めればよかった。悪意で始めた人が、たぶん、一人もいない。
わたくしは、紙の右端に線を引いた。
線の右に、二つだけ書いた。
——ズザンネさま:厨で作った。書いた。厨に置いた。
——ミリアム:厨で作った。書いた。十二冊。
この二人だけが、外へ出ようとしている。出ようとして、一人は死んだ。もう一人は離縁された。
そこまで書いて、わたくしは筆を置いた。
勝った人が、いない。
けれど、と思った。
わたくしは、いま、この帳面を持っている。ズザンネさまが厨の棚に置いたものを、わたくしが受け取った。受け取ったから、四十七になった。四十九になった。
あの人は、負けたのだろうか。
負けていない、と思った。あの人は、次の人に渡した。渡すところまでやった。
わたくしは、紙をもう一枚出した。
いちばん上に、こう書いた。
——この家の子は、出されたものを、出されたとおりに食べるものである。
書いてから、その一行を長いこと見ていた。
これが、あの家の献立表だ。三年探しても見つからなかったものが、いま、紙の上にある。書いたのはわたくしだ。あの家の誰も書かなかったから、わたくしが書いた。
書かれていないものは、直せない。書いてしまえば、直せる。
わたくしは、その下に線を引いて、こう続けた。
——この一行を、わたくしは受け取らない。
筆が、少し震えた。
あの家の女が五人、二百年か三百年か、誰も書かずに守ってきたものを、わたくしは紙に書いて、その下に受け取らないと書いた。誰も見ていない。誰にも見せない。
それでも、書いた。
翌朝、マルガさんが厨へ来た。
まだ暗いうちだった。わたくしが火を熾していると、扉のところに立っていた。
「ミリアムさま」
「おはようございます」
「あの……お教えいただけませんか」
その人は、そう言った。
「頷き方でございます。もう一度、見せていただきたいのです」
わたくしは、匙を置いた。
「義母さまには」
「申し上げておりません」
マルガさんは、そう言った。言ってから、少し顔を上げた。
「昨日、あの坊っちゃまが、わたくしの袖を引かれました」
「……はい」
「何も仰いませんでしたけれど、引かれました。ですから」
その人は、そこで言葉を切った。
切ってから、こう言った。
「わたくしは、あの方に召し上がっていただきたいのでございます」
わたくしは、その人に椅子を勧めた。
それから、匙を取って、頷いてみせた。顎だけ、一度。目は合わせたまま。
「もう一度、お願いいたします」
マルガさんは、そう言った。その朝、わたくしたちは半刻ほど、それだけをやっていた。
九度目で、その人の頷きが変わった。
「いまのでございます」
「……いまの」
「はい。いまの速さで」
「わたくしには、前と同じに思えます」
「わたくしにも、たぶん見分けはつきません」
わたくしは、正直にそう申し上げた。
「ですが、あの方には分かります。分かるのは、あの方だけでございます」
マルガさんは、匙を持ったまま座っていた。
「ミリアムさま」
「はい」
「お伺いしてもよろしいですか」
「どうぞ」
「なぜ、わたくしにお教えくださるのです」
わたくしは、火のほうを見た。
この人が来たから、わたくしは厨を追われた。この人が上手くなれば、わたくしは要らなくなる。春になれば、あの方はあの家へ帰る。帰った先で毎朝匙を持つのは、わたくしではなく、この人だ。
「マルガさん」
「はい」
「あの方が召し上がるのは、わたくしが作ったからではございません」
「……」
「頷いてもらえたから、召し上がるのです」
わたくしは、そう申し上げた。
「頷く人は、わたくしでなくても構いません。むしろ、多いほうがよろしゅうございます」
「多いほうが」
「はい。ひとりだけですと、その人がいなくなった日に、また零に戻りますので」
マルガさんは、しばらく黙っていた。
「……ミリアムさま」
「はい」
「わたくしは、奥様に雇われております」
「存じております」
「奥様は、こういうことをお望みではございません」
「存じております」
「それでも、お教えくださるのですね」
「はい」
その人は、匙を置いた。置いてから、両手を膝の上で揃えた。
「もう一度、お願いいたします」
わたくしは、頷いてみせた。
その人が上へ上がってから、わたくしは自分の部屋へ戻った。
机の上に、昨夜の紙が二枚ある。一枚は、五人の名前と、食べられなくなった時期。もう一枚は、あの一行と、その下に書いた一行だ。
——この家の子は、出されたものを、出されたとおりに食べるものである。
——この一行を、わたくしは受け取らない。
わたくしは、その二枚をどうするか決めていなかった。
燃やしてしまえば、誰にも見られない。義母にお見せすれば、たぶん、困った顔をなさる。それだけだ。あの人は紙を読まない。
では、誰に見せるのだろう。
一人だけ、顔が浮かんだ。
浮かんでから、わたくしは首を振った。お見せするようなものではない。見せて、どうなるものでもない。
わたくしは二枚を揃えて、帳面のあいだに挟んだ。挟んでから、どの帳面に挟んだのかを、しばらく覚えていられるだろうかと思った。
お読みくださって、ありがとうございます。
書かれていない決まりは誰にも断れません。書いた人が、初めて断れます。ミリアムは昨夜それを紙に書いて、その下にもう一行足しました。
まだ暗いうちに、乳母が厨へ降りてきます。奥様には申し上げていないそうです。
【その日の献立】 麦の粥に乳、蕪。—— よくち。マルガさんがお出しになったものを。




