第25話:あなたのお義母さまのこと
朝の粥を出してから、広間へ行った。
義母は、もう座っていた。窓のほうを向いている。雪の朝で、光が白い。この人の顔は、その光の中では少し若く見えた。
「お待たせいたしました」
「いいえ。おかけなさい」
わたくしは、正面に座った。
「昨日のことでございますが」
「セラフィーネさんのことは、よろしいのです」
義母は、そう仰った。
「あれはあれで、好きになさい。わたくしが止めることではございません」
「……はい」
「今日は、別の話でございます」
その人は、膝の上で手を組んだ。
「わたくしの義母は、恐ろしい方でした」
わたくしは、顔を上げた。
義母は、窓を見たままだった。
「フェルトハイムへ嫁いでまいりましたのが、十九のときでございます。あなたと同じで、生家に置く場所のない娘でしたの」
「……存じませんでした」
「言うことでもございませんもの」
その人は少しだけ笑った。
「厨に立つことを、許されませんでした」
「厨に」
「ええ。奥方が厨に立つものではないと。わたくしは、料理がすきでしたのよ」
初めて聞く話だった。あの家にいたあいだ、この人の好き嫌いをひとつも知らなかった。
「一度、隠れて作ったことがございます。夫が風邪をひきましたときに、粥を」
わたくしは膝の上で手を握った。
「見つかりまして」
「……はい」
「三日、厨に鍵をかけられました」
義母は、そう仰った。声は、いつもと同じ柔らかさだった。昔話をする声だった。
「そのあいだ、夫の食事は義母が決めた献立どおりに運ばれました。夫は治りました。ですから、義母が正しかったのです」
「……治られたのは」
「献立のおかげでございましょう」
わたくしは何か言おうとした。言おうとして、言葉が見つからなかった。
この人は、そこで学んだのだ。鍵をかけられて、それでも夫が治ったという一度きりの出来事から、この人は「献立が正しかった」という結論を取り出した。ほかの結論を取り出す道は、たぶん、その場に無かった。
「ミリアムさん」
「はい」
「あなたは、わたくしを冷たい者だとお思いでしょう」
「……いいえ」
「よろしいのです。思っておいでで」
その人は、こちらを向いた。
「わたくしは、あの子を可愛いと思っております」
「はい」
「可愛いから、卓に着かせるのです」
わたくしはその言葉を聞いた。
「粥だけの子は、どこへも行けません。よその家の卓に呼ばれても、出されたものが食べられない。それがどれほど惨めか、あなたはご存じない」
「……」
「わたくしは、知っております」
義母は、そう仰った。
窓のほうへ、また顔を戻した。
「わたくしも、嫁いでしばらく、食べられませんでした」
わたくしは椅子から少し身を乗り出した。
「お義母さまも」
「ええ。慣れましたけれど」
「どのくらい」
「二年ほどでしょうか」
二年。
わたくしはその数字を頭の中に置いた。
この家の女は、みんな二年か三年、食べられなくなる。そして、慣れる人と、慣れない人がいる。慣れた人が、次の人に同じことをする。
「お義母さま」
「はい」
「慣れたというのは、どういうことでございましょう」
「戻さなくなる、ということです」
「おいしいと思うようになった、ということではなく」
「……」
「戻さなくなった、ということでございますね」
義母は答えなかった。
その人は、窓を見ていた。わたくしも、何も言わなかった。言うべきことが、たくさんありすぎて、どれも言えなかった。
しばらくして義母が立ち上がった。
「あなたは、よくやってくださいました」
三度目に聞く言葉だった。
「ですから、もう、よろしいのです。あの子はわたくしがお預かりします。春になりましたら、連れて帰ります」
「……春に」
「峠が開きましたら」
その人は、扉のほうへ歩いていった。
途中で一度、柱の前で止まった。わたくしが彫った線のところだ。
その人は、指を伸ばして、線に触れた。昨日と同じ場所だった。
「……こういうものは、家によってちがいますものね」
そう仰って、部屋を出ていった。
わたくしは、しばらく椅子に座っていた。
柱には、その線の下に、二列の古い刻み目がある。義母は、二度触れて、二度とも気づかなかった。
厨へ降りて、鍋を出した。出してから、何を作るつもりだったのか分からなくなって、しばらく立っていた。
台の隅に、林檎が三つ出ていた。今朝も出ていた。二つでも四つでもなく、いつも三つだった。
春。峠が開くのは、ふた月ほど先だと聞いている。
ふた月あれば、四十九を五十に、うまくいけば五十一にできるかもしれない。けれど、それが何になるのだろう。
あの家へ帰れば、卓には肉と豆と菓子が並ぶ。あの方はそれを食べられない。食べられないまま、そのうちに戻さなくなる。そして、慣れたと呼ばれる。
義母は、それを可愛いと思ってやっている。わたくしは、それがいちばんこわい。憎んでいる人なら、憎み返せる。
「なんだい、そんなとこに突っ立って」
ギゼラさんが、地下から上がってきた。籠に蕪を入れている。
「……鍋を出したところで、忘れました」
「何を」
「作るものをでございます」
「そりゃ重症だね」
その人は、籠を台に置いた。置いてから、わたくしの顔を見た。見て、それきり何も訊かなかった。
「蕪を剥きな」
「はい」
「手を動かしてりゃ、そのうち思い出すよ」
わたくしは蕪を剥いた。
十ほど剥いたところで、指が止まった。止まったのは、思い出したからではない。逆だった。
思い出さなくてよかったのだ、と気づいたからだ。
わたくしが作るものは、明日の朝の粥だ。春が来ようと来まいと、明日の朝は来る。来たら、粥を出す。それだけのことを、わたくしは三年やってきた。
春のことを考えると、手が止まる。明日の朝のことを考えると、手が動く。
わたくしは蕪を剥き終えた。剥き終えてから帳面を開いて、明日の献立を書いた。
書いていると、ニルスさまが厨に入ってきた。
台の端に立って、剥いた蕪の山を見ている。白くて、丸くて、並べてあると綺麗だった。
「明日、これをお出しします」
その方は頷いた。それから、いちばん小さいのをひとつ手に取った。
「召し上がりますか。生では硬うございますよ」
その方は首を振った。振って、それを袖の中に入れた。
わたくしは、少し笑った。遊んでおいでなのだと思った。子どもは、丸いものを持ちたがる。実家の兄の子も、栗を三つ持ったまま眠っていたことがある。
「落とさないようになさいませね」
その方は頷いて、厨を出ていった。扉のところで一度止まって、こちらを見た。何か言いたそうだったので待ったけれど、今日は出てこなかった。
袖を、両手で押さえていた。
お読みくださって、ありがとうございます。
「戻さなくなる」を「慣れる」と呼ぶ家があります。呼び方を変えると、それは解決したことになります。
峠が開くまで、あとふた月。厨に蕪が十、剥いてあります。
【その日の献立】 パンを乳に浸したもの、蜂蜜。—— みくち。/義母さまは、召し上がりませんでした。




