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離縁されましたので、あの子の食事は明日からご自分で  作者: 蒼井玲


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24/30

第24話:食卓が回りません

 冬が、深くなった。


 峠が閉じて、村から上がってくるのは週に二度になった。乳は届く日と届かない日がある。届かない日のために、わたくしは前の日の乳を少しずつ取り置くようになった。取り置いた乳は、その日のうちに使う。翌日には使わない。あの方は、匂いの変わったものを口に入れない。


 義母は、まだ館にいた。


 帰るとも、いつまでいるとも仰らない。毎朝きちんと身支度をして、広間の椅子に座って、マルガさんが運ぶ皿を見ている。あの方は、その皿を召し上がらない。日によってひとくち。多くて、ふたくち。


 わたくしは、朝と夜に、別に作っている。

 三日に一度、林檎も焼いた。台の隅に三つ出ているので、焼く。誰が出しているのかは、ギゼラさんが言わないので、訊かないことにした。


 皿は、いつも空になっていた。



 義母は、それを止めなかった。止めずに、こう仰った。「お好きになさいませ。あなたの厨ではございませんもの」


 その言葉の意味は、しばらく分からなかった。分かったのは、三日ほど経ってからだ。この人は、わたくしがこの館の人間ではないことを、そう言っている。ここは辺境伯の家で、わたくしは客だ。客が厨に立つのを、義母は咎める立場にない。咎める立場にない、と分かっていて、そう言う。


 その人が来たのは、雪の翌朝だった。


 馬車は使えず、村までは橇で、そこからは歩いてきたという。中庭に立ったその人は、外套の裾まで濡れていた。腹は大きい。もう九月に入るころのはずだ。顔は、記憶より細かった。頬の肉が落ちて、目の下が黒い。


「セラフィーネさま」


 わたくしは、驚いて段を降りた。


 その人は、こちらを見て、それから、目をそらした。


「……ミリアムさん」

「お一人で」

「侍女は、村に置いてまいりました。あの子は、こんなところまで歩けませんので」


 わたくしは、その人を広間へ入れた。湯を出して、濡れた外套を乾かして、椅子を暖炉の近くへ動かした。その人は、されるままになっていた。


 義母が、部屋から出てきた。


「セラフィーネさん」

「……お義母さま」

「その身で、何をしにいらしたの」


 声は、いつもと同じ柔らかさだった。


 セラフィーネさまは、答えなかった。答えずに、わたくしのほうを見た。


「ミリアムさん」

「はい」

「わたくし、食べられないのです」


 わたくしは、その人の顔を見た。


「……お加減が」

「そうではございません」


 その人は、首を振った。


「食べると、戻すのです。もう、ふた月になります」


 わたくしは、椅子に座った。座らないと、立っていられなかったからだ。


「お医者さまは」

「どこも悪くないと」


 どこも悪くない。五度目だった。


「腹の子が、小さいのだそうです」


 セラフィーネさまは、そう言った。


「先月の診立てより、大きくなっておりません。食べろと言われます。食べろ、食べろと、皆が」

「セラフィーネさん」


 義母が、間に入った。


「食べればよろしいのです。出されたものを、召し上がりなさい」

「食べております」

「では、そのうち」

「戻すのです」


 セラフィーネさまは、そう言った。言ってから、両手で顔を覆った。


「お義母さま。わたくし、この子が育たないのではないかと」

「大げさな」

「大げさではございません」


 その人は、顔を上げた。わたくしが知っているセラフィーネさまではなかった。扇で笑う人ではなかった。


「毎晩、腹に手を当てております。朝まで、何度も」


 義母は、何か仰ろうとした。仰る前に、セラフィーネさまがわたくしのほうを向いた。


「ミリアムさん。あの帳面を、貸してくださいませんか」


 広間が冷えた気がした。火は入っていたのに。


「……帳面を」

「はい。あの、ニルスさまの」

「あれは、ニルスさまのものでございます」

「存じております。ですが」

「あの方と、セラフィーネさまは、別の方でございます」


 わたくしは、そう申し上げた。


 言いながら、自分が何を言っているのか、途中で分からなくなった。断っているのだろうか。わたくしを飾りだと言った人が、いま頭を下げている。断る理由なら、いくらでもある。数えれば、たぶん四十七より多い。


「セラフィーネさま」

「はい」

「戻さなかったものが、ひとつでもございましたか」


 その人は、顔を上げた。


「……え」

「ふた月のあいだに、一度でも。何でも構いません。水でも、湯でも」

「……」

「思い出してくださいませ」


 その人は、しばらく黙っていた。


「……葡萄でございます」

「葡萄」

「はい。先々月に、井戸で冷やしたものを。あれだけは、戻しませんでした」

「そのときは、どこで召し上がりましたか」

「……厨でございます。立ったまま、ひとりで」


 わたくしは、頷いた。


 立ったまま、ひとりで。あの家の卓ではないところで、誰にも見られずに口へ入れたものだけが、通っている。


「セラフィーネさま。明日から、書いてくださいませ」

「何を」

「召し上がったものと、戻したか戻さなかったかを。それだけで結構でございます。日付をお忘れなく」


 わたくしは、そう言った。


「紙は、お持ちですか」


 セラフィーネさまは、首を振った。


 わたくしは立って、厨から新しい帳面を取ってきた。館の帳面だ。ギゼラさんが余りを何冊か持っている。表紙をひらいて、いちばん上に線を引いた。左に日付、真ん中に食べたもの、右に戻したかどうか。


「この形で結構でございます」

「……これだけで」

「これだけでございます。ただ、毎日でございます」

「毎日」

「毎日でございます。書けない日は、書けなかったと書いてくださいませ」


 その人は、帳面を両手で受け取った。持ち方が、ニルスさまと同じだった。そのことに気づいて、わたくしは少し目を伏せた。


 義母は、その様子を見ていた。


 止めもせず、口も挟まなかった。わたくしがセラフィーネさまに帳面を渡すのを、椅子に座ったまま見ていた。表情は、いつもと変わらない。困った顔ですらなかった。


 その人にとっては、たぶん、これも「甘やかし」なのだと思う。甘やかしは、この家の女がずっとやってきたことだ。ズザンネさまがやって、わたくしがやって、今日、セラフィーネさまが受け取った。


 夕方、橇が村から迎えに来た。


 セヴェリンさまが人をやったのだ。歩いて帰らせるつもりはない、とだけ言った。わたくしは、玄関まで送った。


「ミリアムさん」

「はい」

「……なぜ、断らなかったのですか」


 その人は、こちらを見ずにそう訊いた。


「断る理由なら、あなたにはいくらでもあるでしょう」

「ございます」

「では」

「わたくしは、あの家で、誰にも訊かれませんでした」


 わたくしは、そう申し上げた。


「三年、一度も。ですから、訊かれたら答えると決めております」

「……それだけですか」

「それだけでございます」


 その人は頭を下げた。深く下げた。腹が大きいので下げにくそうだった。わたくしはその肩を支えた。


 橇が坂を下りていくのを見送ってから、館へ戻った。


 広間に、義母がまだ座っていた。わたくしが入ると、こちらを向いた。


「ミリアムさん」

「はい」

「明日の朝、少しお時間をいただけますか」

「かしこまりました」

「お話ししたいことがございます」


 その人は、そう仰った。微笑んでいた。この人は、いつも微笑んでいる。


「あなたのお義母さまのことでございます」


 わたくしは、顔を上げた。義母は、それ以上は仰らずに、部屋へ戻っていった。


 わたくしの義母は、あの人だ。あの人が、あの人の義母の話をするというのは、そういうことになる。

 お読みくださって、ありがとうございます。


 「どこも悪くない」を数えると、今日で五度目でした。悪いところがどこにも無いのに、誰かが食べられなくなる家というものが、たしかにあるようです。


 明日の朝、義母が話したいことがあるそうです。義母の、義母の話だそうです。


【その日の献立】 パンを乳に浸したもの。—— ふたくち。/蜂蜜、匙に一杯。

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