第24話:食卓が回りません
冬が、深くなった。
峠が閉じて、村から上がってくるのは週に二度になった。乳は届く日と届かない日がある。届かない日のために、わたくしは前の日の乳を少しずつ取り置くようになった。取り置いた乳は、その日のうちに使う。翌日には使わない。あの方は、匂いの変わったものを口に入れない。
義母は、まだ館にいた。
帰るとも、いつまでいるとも仰らない。毎朝きちんと身支度をして、広間の椅子に座って、マルガさんが運ぶ皿を見ている。あの方は、その皿を召し上がらない。日によってひとくち。多くて、ふたくち。
わたくしは、朝と夜に、別に作っている。
三日に一度、林檎も焼いた。台の隅に三つ出ているので、焼く。誰が出しているのかは、ギゼラさんが言わないので、訊かないことにした。
皿は、いつも空になっていた。
義母は、それを止めなかった。止めずに、こう仰った。「お好きになさいませ。あなたの厨ではございませんもの」
その言葉の意味は、しばらく分からなかった。分かったのは、三日ほど経ってからだ。この人は、わたくしがこの館の人間ではないことを、そう言っている。ここは辺境伯の家で、わたくしは客だ。客が厨に立つのを、義母は咎める立場にない。咎める立場にない、と分かっていて、そう言う。
その人が来たのは、雪の翌朝だった。
馬車は使えず、村までは橇で、そこからは歩いてきたという。中庭に立ったその人は、外套の裾まで濡れていた。腹は大きい。もう九月に入るころのはずだ。顔は、記憶より細かった。頬の肉が落ちて、目の下が黒い。
「セラフィーネさま」
わたくしは、驚いて段を降りた。
その人は、こちらを見て、それから、目をそらした。
「……ミリアムさん」
「お一人で」
「侍女は、村に置いてまいりました。あの子は、こんなところまで歩けませんので」
わたくしは、その人を広間へ入れた。湯を出して、濡れた外套を乾かして、椅子を暖炉の近くへ動かした。その人は、されるままになっていた。
義母が、部屋から出てきた。
「セラフィーネさん」
「……お義母さま」
「その身で、何をしにいらしたの」
声は、いつもと同じ柔らかさだった。
セラフィーネさまは、答えなかった。答えずに、わたくしのほうを見た。
「ミリアムさん」
「はい」
「わたくし、食べられないのです」
わたくしは、その人の顔を見た。
「……お加減が」
「そうではございません」
その人は、首を振った。
「食べると、戻すのです。もう、ふた月になります」
わたくしは、椅子に座った。座らないと、立っていられなかったからだ。
「お医者さまは」
「どこも悪くないと」
どこも悪くない。五度目だった。
「腹の子が、小さいのだそうです」
セラフィーネさまは、そう言った。
「先月の診立てより、大きくなっておりません。食べろと言われます。食べろ、食べろと、皆が」
「セラフィーネさん」
義母が、間に入った。
「食べればよろしいのです。出されたものを、召し上がりなさい」
「食べております」
「では、そのうち」
「戻すのです」
セラフィーネさまは、そう言った。言ってから、両手で顔を覆った。
「お義母さま。わたくし、この子が育たないのではないかと」
「大げさな」
「大げさではございません」
その人は、顔を上げた。わたくしが知っているセラフィーネさまではなかった。扇で笑う人ではなかった。
「毎晩、腹に手を当てております。朝まで、何度も」
義母は、何か仰ろうとした。仰る前に、セラフィーネさまがわたくしのほうを向いた。
「ミリアムさん。あの帳面を、貸してくださいませんか」
広間が冷えた気がした。火は入っていたのに。
「……帳面を」
「はい。あの、ニルスさまの」
「あれは、ニルスさまのものでございます」
「存じております。ですが」
「あの方と、セラフィーネさまは、別の方でございます」
わたくしは、そう申し上げた。
言いながら、自分が何を言っているのか、途中で分からなくなった。断っているのだろうか。わたくしを飾りだと言った人が、いま頭を下げている。断る理由なら、いくらでもある。数えれば、たぶん四十七より多い。
「セラフィーネさま」
「はい」
「戻さなかったものが、ひとつでもございましたか」
その人は、顔を上げた。
「……え」
「ふた月のあいだに、一度でも。何でも構いません。水でも、湯でも」
「……」
「思い出してくださいませ」
その人は、しばらく黙っていた。
「……葡萄でございます」
「葡萄」
「はい。先々月に、井戸で冷やしたものを。あれだけは、戻しませんでした」
「そのときは、どこで召し上がりましたか」
「……厨でございます。立ったまま、ひとりで」
わたくしは、頷いた。
立ったまま、ひとりで。あの家の卓ではないところで、誰にも見られずに口へ入れたものだけが、通っている。
「セラフィーネさま。明日から、書いてくださいませ」
「何を」
「召し上がったものと、戻したか戻さなかったかを。それだけで結構でございます。日付をお忘れなく」
わたくしは、そう言った。
「紙は、お持ちですか」
セラフィーネさまは、首を振った。
わたくしは立って、厨から新しい帳面を取ってきた。館の帳面だ。ギゼラさんが余りを何冊か持っている。表紙をひらいて、いちばん上に線を引いた。左に日付、真ん中に食べたもの、右に戻したかどうか。
「この形で結構でございます」
「……これだけで」
「これだけでございます。ただ、毎日でございます」
「毎日」
「毎日でございます。書けない日は、書けなかったと書いてくださいませ」
その人は、帳面を両手で受け取った。持ち方が、ニルスさまと同じだった。そのことに気づいて、わたくしは少し目を伏せた。
義母は、その様子を見ていた。
止めもせず、口も挟まなかった。わたくしがセラフィーネさまに帳面を渡すのを、椅子に座ったまま見ていた。表情は、いつもと変わらない。困った顔ですらなかった。
その人にとっては、たぶん、これも「甘やかし」なのだと思う。甘やかしは、この家の女がずっとやってきたことだ。ズザンネさまがやって、わたくしがやって、今日、セラフィーネさまが受け取った。
夕方、橇が村から迎えに来た。
セヴェリンさまが人をやったのだ。歩いて帰らせるつもりはない、とだけ言った。わたくしは、玄関まで送った。
「ミリアムさん」
「はい」
「……なぜ、断らなかったのですか」
その人は、こちらを見ずにそう訊いた。
「断る理由なら、あなたにはいくらでもあるでしょう」
「ございます」
「では」
「わたくしは、あの家で、誰にも訊かれませんでした」
わたくしは、そう申し上げた。
「三年、一度も。ですから、訊かれたら答えると決めております」
「……それだけですか」
「それだけでございます」
その人は頭を下げた。深く下げた。腹が大きいので下げにくそうだった。わたくしはその肩を支えた。
橇が坂を下りていくのを見送ってから、館へ戻った。
広間に、義母がまだ座っていた。わたくしが入ると、こちらを向いた。
「ミリアムさん」
「はい」
「明日の朝、少しお時間をいただけますか」
「かしこまりました」
「お話ししたいことがございます」
その人は、そう仰った。微笑んでいた。この人は、いつも微笑んでいる。
「あなたのお義母さまのことでございます」
わたくしは、顔を上げた。義母は、それ以上は仰らずに、部屋へ戻っていった。
わたくしの義母は、あの人だ。あの人が、あの人の義母の話をするというのは、そういうことになる。
お読みくださって、ありがとうございます。
「どこも悪くない」を数えると、今日で五度目でした。悪いところがどこにも無いのに、誰かが食べられなくなる家というものが、たしかにあるようです。
明日の朝、義母が話したいことがあるそうです。義母の、義母の話だそうです。
【その日の献立】 パンを乳に浸したもの。—— ふたくち。/蜂蜜、匙に一杯。




