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離縁されましたので、あの子の食事は明日からご自分で  作者: 蒼井玲


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23/30

第23話:数えなかった三年

 ディートリヒさまは、昼前に着いた。


 馬は一頭で、供もいなかった。外套は泥だらけで、峠を越えてきたのが一目で分かった。義母の来方とは、まるでちがう。中庭に立ったその人は、思ったよりも小さく見えた。あの家では、あんなに小さくはなかった。


「ミリアム」


 呼ばれて、わたくしは段を降りた。


「お久しゅうございます」

「……ああ」


 それきり、言葉が続かない様子だった。わたくしは、湯を持ってこさせて、広間の椅子を勧めた。


 義母は出てこなかった。部屋にいるのは分かっていた。出てこないことを選んだのだと思う。


「母が来ていると聞いた」

「はい。おとといから」

「乳母も」

「はい」

「……そうか」


 その人は、湯の椀を両手で持っていた。冷えた手を温めているのだと思う。あの家では、この人が両手で何かを持つのを見たことがない。


「ミリアム」

「はい」

「戻ってきてくれないか」


 わたくしは、椅子の背に手を置いた。


「お断りいたします」

「……即答か」

「はい」

「理由を聞かせてくれ」


 その人は、そう言った。


 あの家にいたあいだ、この人がわたくしに理由を訊いたことは一度もない。


「では、お訊きしてもよろしいでしょうか」

「なんだ」

「あの方が、いま何を召し上がれるか、ご存じですか」

「……粥だろう」

「ほかには」

「ほかに」

「四十八ございます」

「……四十八」


 その人は、湯の椀を見た。


「そんなにあるのか」

「ございます」

「……知らなかった」

「はい」

「ミリアム、それは——」

「あの方のお好きな色は、何色でしょうか」


 訊いてから、意地が悪いと思った。思ったけれど、止められなかった。


「色」

「はい」

「……分からん」

「お誕生日は」

「……秋だったか」

「冬でございます」

「……そうか」

「何日でございましょう」


 答えは、なかった。


 わたくしは、それ以上は訊かなかった。訊けば訊くほど、この人が答えられないことが増えるだけだ。それを並べても、誰も救われない。


「ご存じないことは、悪いことではございません」


 わたくしは、そう言った。


「男の方が子どもの誕生日を覚えていないのは、よくあることでございます。あの家では、誰も覚えておりませんでした。義母さまも、厨の者も」

「……」

「ただ、わたくしが戻る理由が、そこにはございません」


 ディートリヒさまは、椀を卓に置いた。置いてから、両手で顔を擦った。旅の疲れた顔だった。


「家が回らない」


 その人は、そう言った。


「あれから、あの子は食べていない。乳母を替えたが同じだ。母は、そのうち慣れると言う」

「はい」

「セラフィーネは、腹の子が動かないと言って泣いている。医者は何ともないと言うが、泣いている」

「……はい」

「厨のエーリヒは辞めた。ロージーも辞めると言っている」


 わたくしは、黙って聞いていた。


 あの家が崩れている。わたくしは、それを聞いて留飲が下がるのだろうと思っていた。そう思ったことも、少しはある。


 思わなかった。ただ、ロージーさんはどこへ行くのだろうと思った。あの人には、行くところがあるのだろうか。


「ミリアム」

「はい」

「俺は、何を間違えた」


 わたくしは、その問いに答えるべきかどうか、少し迷った。


「間違えてはおられません」

「……」

「数えなかっただけでございます」

「数える」

「はい。何を召し上がったか。何口だったか。それだけです」

「そんなことで、家が回るのか」

「回りません」


 わたくしは、正直にそう申し上げた。


「家は、それでは回りません。ですが、あの方は、それで召し上がるようになりました」


 その人は、しばらく卓を見ていた。


 そのとき、広間の扉が細く開いた。


 ニルスさまだった。開けたのではなく、開いていた隙間から見ていたのだと思う。この方は足音を立てない。


 ディートリヒさまが立ち上がった。立ち上がって、そこから動かなかった。


「ニルス」


 名を呼んだ。声は、悪くなかった。


 その方は、扉のところに立ったままだった。こちらへも来ない。逃げもしない。ただ、立っている。


「……大きくなったか」


 答えはなかった。


 わたくしは、二人のあいだに入るべきかどうか迷った。迷って、入らなかった。これは、わたくしの持ち場ではない。


 ディートリヒさまが一歩、前に出た。その方が、半歩下がった。


 それだけのことだった。それだけのことで、ディートリヒさまは足を止めた。止めて、椅子に座り直した。


「……そうか」


 その人は、そう言った。怒らなかった。怒鳴りもしなかった。ただ、座った。


 ニルスさまは、しばらくそこにいて、それから、廊下のほうへ消えた。扉は、開いたままだった。


 廊下に、セヴェリンさまが立っていた。


 いつからそこにいたのかは、分からない。広間へは入ってこなかった。わたくしと目が合って、それから、階のほうへ行った。


 一歩、こちらへ出かけたように見えた。見えただけかもしれない。


 夕方に、発つと言った。泊まっていけと言うセヴェリンさまに、首を振った。義母と同じ屋根の下で夜を過ごすのが嫌だったのだと思う。それは、少し分かる気がした。


 中庭で、馬に乗る前に、その人が振り返った。


「あの帳面は、読んだ」


 わたくしは、顔を上げた。


「お読みくださいましたか」

「ああ」

「……ありがとうございます」


 声が、少し詰まった。三年、卓に置いても開かれなかったものだ。開いてくださったのなら、それだけで。


「一冊目のはじめのほうだ」と、その人は言った。「零、というのが並んでいた。あれは何だ」

「召し上がらなかった日でございます」

「……そうか」


 その人は、頷いた。


「すまなかった」


 そう言って、馬に乗った。


 わたくしは、門まで見送った。馬の背が坂を下って、林の向こうへ消えるまで立っていた。


 すまなかった、と言われた。三年で、初めて謝られた。


 わたくしは、それを両手で受け取ったような気持ちで、館へ戻った。


 厨に入ると、ギゼラさんが竈の前にいた。わたくしの顔を見て、椅子を蹴るように引いた。座れ、という意味らしい。


「行ったかい」

「行かれました」

「なんて言ってた」

「すまなかった、と」

「ふうん」


 その人は、鍋の中を混ぜていた。混ぜる必要のない鍋だった。


「あんた、うれしそうな顔してるよ」

「……そう見えますか」

「見えるね」


 わたくしは、頬に手を当てた。自分では分からなかった。


「卓に置いても、ずっと開かれなかったものでございますので」

「一冊目のはじめのほうを、だろう」

「はい」

「十二冊のうちの、一冊のはじめのほうを」

「……はい」


 ギゼラさんは、鍋から匙を上げた。


「あたしゃ意地が悪いから、そう言うんだけどね」

「いえ」

「あんたが嬉しいなら、それでいいんだよ。嬉しいってのは、あんたのもんだ」


 わたくしは、しばらく椅子に座っていた。


 竈の火が、薪を一本ぶん低くなった。ギゼラさんは足さなかった。もう夜だから、これでいいのだそうだ。


 そのうちに、気がついた。


 あの人は、何について謝ったのだろう。

 お読みくださって、ありがとうございます。


 ディートリヒは今日、悪いことを何ひとつしていません。彼は「零」が何かを訊きました。訊いたのは、今日が初めてです。


 雪の翌朝、村から橇が上がってきます。乗っているのは、あの家からもう一人。


【その日の献立】 パンを乳に浸したもの。—— ひとくち。四十九番目でございます。

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