第23話:数えなかった三年
ディートリヒさまは、昼前に着いた。
馬は一頭で、供もいなかった。外套は泥だらけで、峠を越えてきたのが一目で分かった。義母の来方とは、まるでちがう。中庭に立ったその人は、思ったよりも小さく見えた。あの家では、あんなに小さくはなかった。
「ミリアム」
呼ばれて、わたくしは段を降りた。
「お久しゅうございます」
「……ああ」
それきり、言葉が続かない様子だった。わたくしは、湯を持ってこさせて、広間の椅子を勧めた。
義母は出てこなかった。部屋にいるのは分かっていた。出てこないことを選んだのだと思う。
「母が来ていると聞いた」
「はい。おとといから」
「乳母も」
「はい」
「……そうか」
その人は、湯の椀を両手で持っていた。冷えた手を温めているのだと思う。あの家では、この人が両手で何かを持つのを見たことがない。
「ミリアム」
「はい」
「戻ってきてくれないか」
わたくしは、椅子の背に手を置いた。
「お断りいたします」
「……即答か」
「はい」
「理由を聞かせてくれ」
その人は、そう言った。
あの家にいたあいだ、この人がわたくしに理由を訊いたことは一度もない。
「では、お訊きしてもよろしいでしょうか」
「なんだ」
「あの方が、いま何を召し上がれるか、ご存じですか」
「……粥だろう」
「ほかには」
「ほかに」
「四十八ございます」
「……四十八」
その人は、湯の椀を見た。
「そんなにあるのか」
「ございます」
「……知らなかった」
「はい」
「ミリアム、それは——」
「あの方のお好きな色は、何色でしょうか」
訊いてから、意地が悪いと思った。思ったけれど、止められなかった。
「色」
「はい」
「……分からん」
「お誕生日は」
「……秋だったか」
「冬でございます」
「……そうか」
「何日でございましょう」
答えは、なかった。
わたくしは、それ以上は訊かなかった。訊けば訊くほど、この人が答えられないことが増えるだけだ。それを並べても、誰も救われない。
「ご存じないことは、悪いことではございません」
わたくしは、そう言った。
「男の方が子どもの誕生日を覚えていないのは、よくあることでございます。あの家では、誰も覚えておりませんでした。義母さまも、厨の者も」
「……」
「ただ、わたくしが戻る理由が、そこにはございません」
ディートリヒさまは、椀を卓に置いた。置いてから、両手で顔を擦った。旅の疲れた顔だった。
「家が回らない」
その人は、そう言った。
「あれから、あの子は食べていない。乳母を替えたが同じだ。母は、そのうち慣れると言う」
「はい」
「セラフィーネは、腹の子が動かないと言って泣いている。医者は何ともないと言うが、泣いている」
「……はい」
「厨のエーリヒは辞めた。ロージーも辞めると言っている」
わたくしは、黙って聞いていた。
あの家が崩れている。わたくしは、それを聞いて留飲が下がるのだろうと思っていた。そう思ったことも、少しはある。
思わなかった。ただ、ロージーさんはどこへ行くのだろうと思った。あの人には、行くところがあるのだろうか。
「ミリアム」
「はい」
「俺は、何を間違えた」
わたくしは、その問いに答えるべきかどうか、少し迷った。
「間違えてはおられません」
「……」
「数えなかっただけでございます」
「数える」
「はい。何を召し上がったか。何口だったか。それだけです」
「そんなことで、家が回るのか」
「回りません」
わたくしは、正直にそう申し上げた。
「家は、それでは回りません。ですが、あの方は、それで召し上がるようになりました」
その人は、しばらく卓を見ていた。
そのとき、広間の扉が細く開いた。
ニルスさまだった。開けたのではなく、開いていた隙間から見ていたのだと思う。この方は足音を立てない。
ディートリヒさまが立ち上がった。立ち上がって、そこから動かなかった。
「ニルス」
名を呼んだ。声は、悪くなかった。
その方は、扉のところに立ったままだった。こちらへも来ない。逃げもしない。ただ、立っている。
「……大きくなったか」
答えはなかった。
わたくしは、二人のあいだに入るべきかどうか迷った。迷って、入らなかった。これは、わたくしの持ち場ではない。
ディートリヒさまが一歩、前に出た。その方が、半歩下がった。
それだけのことだった。それだけのことで、ディートリヒさまは足を止めた。止めて、椅子に座り直した。
「……そうか」
その人は、そう言った。怒らなかった。怒鳴りもしなかった。ただ、座った。
ニルスさまは、しばらくそこにいて、それから、廊下のほうへ消えた。扉は、開いたままだった。
廊下に、セヴェリンさまが立っていた。
いつからそこにいたのかは、分からない。広間へは入ってこなかった。わたくしと目が合って、それから、階のほうへ行った。
一歩、こちらへ出かけたように見えた。見えただけかもしれない。
夕方に、発つと言った。泊まっていけと言うセヴェリンさまに、首を振った。義母と同じ屋根の下で夜を過ごすのが嫌だったのだと思う。それは、少し分かる気がした。
中庭で、馬に乗る前に、その人が振り返った。
「あの帳面は、読んだ」
わたくしは、顔を上げた。
「お読みくださいましたか」
「ああ」
「……ありがとうございます」
声が、少し詰まった。三年、卓に置いても開かれなかったものだ。開いてくださったのなら、それだけで。
「一冊目のはじめのほうだ」と、その人は言った。「零、というのが並んでいた。あれは何だ」
「召し上がらなかった日でございます」
「……そうか」
その人は、頷いた。
「すまなかった」
そう言って、馬に乗った。
わたくしは、門まで見送った。馬の背が坂を下って、林の向こうへ消えるまで立っていた。
すまなかった、と言われた。三年で、初めて謝られた。
わたくしは、それを両手で受け取ったような気持ちで、館へ戻った。
厨に入ると、ギゼラさんが竈の前にいた。わたくしの顔を見て、椅子を蹴るように引いた。座れ、という意味らしい。
「行ったかい」
「行かれました」
「なんて言ってた」
「すまなかった、と」
「ふうん」
その人は、鍋の中を混ぜていた。混ぜる必要のない鍋だった。
「あんた、うれしそうな顔してるよ」
「……そう見えますか」
「見えるね」
わたくしは、頬に手を当てた。自分では分からなかった。
「卓に置いても、ずっと開かれなかったものでございますので」
「一冊目のはじめのほうを、だろう」
「はい」
「十二冊のうちの、一冊のはじめのほうを」
「……はい」
ギゼラさんは、鍋から匙を上げた。
「あたしゃ意地が悪いから、そう言うんだけどね」
「いえ」
「あんたが嬉しいなら、それでいいんだよ。嬉しいってのは、あんたのもんだ」
わたくしは、しばらく椅子に座っていた。
竈の火が、薪を一本ぶん低くなった。ギゼラさんは足さなかった。もう夜だから、これでいいのだそうだ。
そのうちに、気がついた。
あの人は、何について謝ったのだろう。
お読みくださって、ありがとうございます。
ディートリヒは今日、悪いことを何ひとつしていません。彼は「零」が何かを訊きました。訊いたのは、今日が初めてです。
雪の翌朝、村から橇が上がってきます。乗っているのは、あの家からもう一人。
【その日の献立】 パンを乳に浸したもの。—— ひとくち。四十九番目でございます。




