第22話:最後のページ
革紐は、小刀では切れなかった。
固く締めすぎていて、刃が入らない。セヴェリンさまは二度試して、それから鋏を取りに行った。戻ってきて、机に置いて、しばらく手を出さなかった。
「わたくしが」
申し出ると、鋏を渡された。
紐は、思ったよりあっけなく切れた。結び目が机の上に落ちた。潰れた形のまま、転がりもしなかった。
紙を、一枚ずつ広げた。
数えると、二十枚あった。
字は、一冊目の余白のものと同じだった。小さくて、右へ傾いて、仮名が多い。日付は、やはり一つもない。
最初の一枚は、献立だった。
——おかゆ。うすく。ひとくち。
——おかゆ。おなじ。ふたくち。
——にんじん。だめ。
わたくしは、その三行を読んで、机に手をついた。
同じだった。書き方が、わたくしと同じだった。作ったものと、口数と、合ったか合わなかったか。それだけを、順番に書いている。
わたくしは、この書き方を自分で考えたと思っていた。厨で帳面をもらった日に、何を書けばいいのか分からなくて、いちばん短くて済む形を選んだのだと思っていた。
わたくしは、思いついたのではなかった。最初の頁の余白に、その形が既にあったからだ。
二枚目も、三枚目も、献立だった。四枚目の途中から、別のものが混じりはじめた。
——きょうは、わたしも食べられなかった。
わたくしは、顔を上げた。セヴェリンさまは、机の向こうに立っていた。読んではいない。読める位置に立っていない。
わたくしは、続きを読んだ。
——おくさまが、出したとおりにと仰る。
——くりやで作ると、見つかる。
——見つかると、あの子が叱られる。だから、夜に作る。
夜に作る。
わたくしも、そうしていた。毎晩、夜半に厨へ降りて、鍋を温め直していた。誰にも言われていない。誰にも教わっていない。同じ結論に、二人で別々に辿り着いていた。
——あの子の前で泣かないこと。
その一行のところで、わたくしは目を上げた。上げてから、また下げた。
六枚目から九枚目までは、また献立に戻っていた。
——ぱん。かたい。だめ。
——ぱんを、ゆでてみる。だめ。
——ぱんを、ちちにひたす。ひとくち。
わたくしは、その三行を指でなぞった。
パンを乳に浸す。四十七には、入っていない。わたくしは試していない。あの家の朝はパンだったから、何度も出したはずなのに、浸すという手を思いつかなかった。この人は思いついた。思いついて、ひとくち、通っている。
なぜ、四十七に無いのだろう。
答えは、たぶん簡単だ。この人がそれを見つけたあと、あの子はもう一度、それを取り上げられている。誰かが「そういう食べ方をするものではありません」と言ったからだ。言った人の顔を、わたくしは知っている。
十枚目のあたりから、字が変わりはじめた。
傾きが強くなって、行が下へ流れている。書くのに時間がかかっている字だった。わたくしは、この字を知っている。夜半に、灯りをひとつだけつけて書く字だ。
——きょうは三くち。ふえた。
——ゆびが、うまくうごかない。
——おかゆをつくるのに、いつもの倍かかった。
十五枚目。
——せんせいは、どこもわるくないと仰る。
わたくしは、そこで一度、紙を置いた。
どこも悪くない。この家で四度目に聞く言葉だった。
「セヴェリンさま」
「はい」
「ズザンネさまは、召し上がらなくなっておいででした」
「……」
「病かどうかは、わたくしには分かりません。ですが、召し上がっておいでではありません。ご自分でそう書いておいでです」
その人は、机の端に手を置いた。
「妹は、何も言いませんでした」
「はい」
「私は年に一度は会っていました。細くなったとは思ったが、訊いても、疲れているだけだと」
「そう仰ったのだと思います」
「なぜ、言わなかったのですか」
訊かれて、わたくしは答えを探した。
探して、見つからなかった。けれど、心当たりはあった。
「……わたくしも、言いませんでした」
「あなたが」
「実家に、手紙を書いたことがございません。三年、一度も」
「なぜ」
「書くことがございませんでしたので」
言ってから、それは嘘だと思った。書くことはあった。書けなかっただけだ。
あの家でわたくしがしていたことを紙に書くと、たぶん、こうなる。夜に厨へ降りて粥を温めている。義母に見つかると困った顔をされる。夫は帳面を開かない。それを実家の兄に読ませて、何になるだろう。読んだ兄は、こう書いてくるはずだ。よくあることだ、我慢しなさい、と。
我慢していないと思われるのが、いちばんこわかった。
「言えなかったのだと思います」
わたくしは、そう言った。
「言うと、自分が我慢していないことになりますので」
セヴェリンさまは、何も言わなかった。
最後の一枚を読んだ。
字は、もうほとんど崩れていた。それでも、読めた。
——この帳面を、つぎのひとに。
わたくしは、その一行を、三度読んだ。
厨に置いてあった。使い残しとして、棚に。わたくしがそれをもらった日、ロージーさんは何も言わなかった。ただ、古いのでよければ、と言った。
つぎのひとが、わたくしだった。
「セヴェリンさま」
「はい」
「わたくしは、この方の続きを書いておりました」
「……はい」
「知らずに、三年」
わたくしは、二十枚を揃えた。揃えて、いちばん上の一枚が斜めになっていたので、直した。
直しながら、この癖はどこで身についたのだろうと思った。思い出せなかった。
昼過ぎに、マルガさんが厨へ降りてきた。
器を持っている。中を見ると、粥が半分ほど減っていた。
「半分でございます」
その人は、そう仰った。声が、少し高かった。
「ふたくち召し上がりました。わたくしが炊いたものを」
「頷きは」
「仰ったとおりに、待ってからいたしました」
わたくしは、その器を見ていた。
わたくしが出したものではない。わたくしが炊いたものでもない。それでも、減っていた。
「よろしゅうございました」
申し上げてから、自分の声が思ったより平らだったので、もう一度言い直した。
「本当に、よろしゅうございました」
マルガさんが上がっていったあとも、わたくしはその器を台に置いたままにしていた。しばらく、下げなかった。
その夜、わたくしは厨で、パンを乳に浸してみた。
ギゼラさんが、横で見ていた。
「そんなもん食うのかい」
「分かりません。試すだけでございます」
「駄目だったら」
「駄目だったと書きます」
その人は、それきり何も言わなかった。言わずに、乳をもう少し温めてくれた。冷たいままだと沁みるのが遅い、と言って。
パンは、思ったよりすぐに柔らかくなった。指で押すと、崩れた。歯を使わずに済む固さだった。
わたくしは、それを小皿に取った。明日の朝に出す。出して、駄目なら書く。
二十年前に、同じことをした人がいる。その人は、書いて、取り上げられて、それでも書き残した。厨の棚に置いていった。
わたくしは、その続きを持っている。
厨を出ようとしたところで、門番が入ってきた。外から来たばかりの顔をしていた。
「ミリアムさま。村から報せが」
「はい」
「フェルトハイムの旦那さまが、峠を越えられたそうです」
「……旦那さま」
「はい。お一人で。馬で」
わたくしは、小皿を持ったまま立っていた。
義母がおいでで、乳母がおいでで、そのうえで、あの方が来る。何をしに来るのかは、分からなかった。
あの人は、帳面を開かない人だ。開かない人が、峠を越えてくる用件を、わたくしは思いつかなかった。
お読みくださって、ありがとうございます。
「言うと、自分が我慢していないことになる」——これを理由に黙る人は、たぶん、いまもたくさんいます。
峠を越えてきた馬が一頭。供もつけず、外套は泥だらけだったそうです。
【その日の献立】 麦の粥に乳。—— ふたくち。マルガさんがお作りになったものを、半分だけ。




