第30話:つぎのひとに
峠が開いたのは、三月の末だった。
義母は、その二日後に発った。
馬車は一台になった。乳母のマルガさんが残ることになったからだ。残ると言い出したのは、その人のほうだった。義母は止めなかった。止めずに、こう仰った。
「王都の三家より、こちらのほうがよろしいのですか」
「はい」
「そう」
それだけだった。
発つ朝、義母は広間で外套を着ていた。わたくしは、包みをひとつ差し出した。
「これを」
「なんですの」
「写しでございます。五十一ございます」
義母は、その包みを見た。
「あの子は、こちらに残るのでしょう」
「はい」
「では、要りませんでしょう」
「お義母さまのぶんでございます」
その人は、こちらを見た。
わたくしは、そのまま続けた。
「あの家には、これからもお子さまがお生まれになります。セラフィーネさまのお子さまが、もうすぐ」
「……」
「そのときに、どうかお使いくださいませ」
義母は、包みを受け取らなかった。
受け取らずに、しばらくそこに立っていた。わたくしも、手を下ろさずに立っていた。
やがて、その人は包みを取った。
「読みませんよ」
「はい」
「読むとは、申しません」
「はい。お持ちいただくだけで結構でございます」
義母は、それを外套の内側にしまった。しまい方は、丁寧だった。角を折らないようにしまった。
「ミリアムさん」
「はい」
「あなたは、わたくしを可哀想だとお思いですか」
「……いいえ」
「本当に」
「思っておりません」
わたくしは、そう申し上げた。
「お義母さまは、二年で慣れたと仰いました。慣れなかった方が、この家に二人おいでです。ひとりは亡くなって、ひとりは離縁されました」
「……」
「どちらが可哀想かは、わたくしには決められません」
義母は、微笑まなかった。
この人が微笑まないのを見たのは、初めてだった。
「馬車が参ります」
そう仰って、玄関を出ていった。
ニルスさまは、中庭に立っていた。見送りに出たのではない。薪の山のところで、ただ立っていた。
義母は、その前で足を止めた。
「ニルス」
その方は、顔を上げた。
「……はい」
「大きくなりましたね」
あの日と同じ言葉だった。ちがったのは、その方が今日は下がらなかったことだ。
「……はい」
「よろしい」
義母は、それだけ仰って、馬車に乗った。
馬車が門を出るのを、わたくしたちは並んで見ていた。
坂を下りきったあたりで、馬車が一度止まった。
窓が開いて、手が出た。何かを持っている。遠くて、はじめは分からなかった。
紙だった。
その手は紙を胸のあたりまで持ち上げて、それから引っ込めた。窓が閉まって、馬車は動きだした。
読んだのか、確かめただけなのかは、分からない。わたくしには、開いていたようにも見えたし、閉じたままだったようにも見えた。
「読んだのかね」
ギゼラさんが、隣で言った。
「分かりません」
「あんた、どっちだと思う」
「……分かりません」
わたくしは、そう答えた。
「ですが、持っていってくださいました」
その日の午後、柱に線を刻んだ。
二月に刻むはずだったのを、忘れていた。誕生日のことで、頭がいっぱいだったからだ。ニルスさまを柱の前に立たせて、踵をつけて、顎を引いて。
小刀を入れて、離れて見た。
線は、二本になっていた。
前の線より、指一本ぶん上だった。
「増えました」
わたくしは、そう言った。
その方は、二本の線を見ていた。下の線を指でなぞって、それから、上の線をなぞった。二度そうした。
「ミリアムさん」
その方は、そう呼んだ。
わたくしは、返事をしそこねた。この方は、わたくしを呼んだことがない。三年と、この冬のあいだ、一度も。
「……はい」
「ぼくの、下の線」
「はい」
「それも、ミリアムさんがつけた」
「はい」
その方は、しばらく柱を見ていた。
「じゃあ、つぎのも、つけて」
わたくしは、膝をついた。膝をついて、その方と目の高さを合わせた。
「はい」
声が出たかどうか、自信がない。
「つけます」
夕方、セヴェリンさまが庭にいた。
雪が溶けて、地面が黒くなっている。その人は、去年の落ち葉を熊手で寄せていた。領主のする仕事ではないと思う。
「ミリアム殿」
「はい」
「昨日の続きですが」
その人は、熊手を止めた。
「ここに、いていただけますか」
わたくしは、庭の真ん中に立っていた。
三年、わたくしはいる場所を訊かれたことがない。嫁ぐときも、離縁されるときも、決まったことを伝えられただけだ。訊かれたのは、初めてだった。
「……理由を、伺ってもよろしいでしょうか」
「あの子が食べるからです」
その人は、そう言った。
「と言うと、あなたは頷きますね。だから、それは言わないことにします」
熊手を、地面に立てた。
「私は、味が分かるようになりました」
「はい」
「あなたが作ったものだけ、分かります。ほかのものは、まだ分かりません」
わたくしは、その人を見た。
「それは、ずるうございます」
「ずるいですか」
「ずるうございます」
その人は、少し笑った。笑ったところを見たのは、二度目だった。
「では、言い方を変えます」
熊手を置いて、こちらへ来た。
「ミリアム殿。この家の柱に、あなたの線を刻ませてください」
わたくしは、返事をした。何と言ったかは、覚えていない。覚えていないけれど、その人が頷いたので、伝わったのだと思う。
その夜、わたくしは机に向かった。
十三冊目の帳面が、そろそろ終わりに近い。新しい一冊を用意しなければいけない。ギゼラさんに言えば、厨から出してくれる。
わたくしは、十四冊目の一頁目に、日付を書いた。書いてから、少し考えて、その下に一行足した。
——この帳面をお使いになる方へ。この子は、匙を両手で持ちます。
書いてしまってから、おかしなことをしたと思った。この帳面を使うのは、わたくしだ。次の人などいない。
けれど、消さなかった。
ズザンネさまも、たぶん、そういう気持ちで書いたのだと思う。誰が読むとも知れないものを、それでも書いた。書いておけば、いつか誰かが読む。読まなければ読まないで、それは仕方がない。
それから、二十枚をもう一度綴じ直した。
革紐は切ってしまったので、新しいものを通した。穴の位置は同じだ。通しながら、紙を一枚ずつ数えた。
二十一枚あった。
わたくしは、手を止めた。
もう一度、数えた。二十一枚だった。
最後の一枚は、綴じ代のところに折り込まれていた。折り目が二十年ぶん固くなっていて、ほかの紙に貼りついていた。剥がすのに、しばらくかかった。開くと、小さな音がした。
字は、三行しかない。
——この帳面を、つぎのひとに。
——それから、もうひとり。
わたくしは、そこで手を止めた。
三行目には、名前が書いてあった。ニルスさまではない。わたくしの知らない、子どもの名前だった。
第一部、これにて完結でございます。
ここまでお付き合いくださって、本当にありがとうございました。四十七から始まって、五十一で一区切りになりました。数えるだけの話に、ずいぶん長くお付き合いいただきました。
ミリアムは誰にも勝ちませんでした。義母を裁いてもいませんし、伯爵家を潰してもいません。ただ、書いたものを渡しました。渡したものを、次の人が受け取りました。
最後の一枚に書いてあった名前が誰のものかは、わたくしにもまだ分かりません。続きを書くかどうかも、まだ決めておりません。
ブックマークと評価は、次の帳面の紙代に充てさせていただきます。ここまで数えてくださって、ありがとうございました。
【その日の献立】 麦の粥に乳、蕪、玉子。—— 全部。/柱の線は、二本になりました。




