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離縁されましたので、あの子の食事は明日からご自分で  作者: 蒼井玲


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20/30

第20話:玄関に立つ人

 馬車は、二台とも中庭まで入ってきた。


 一台目は、黒い箱馬車だった。二台目は荷馬車で、木の箱と、行李がいくつか積んである。長く滞在する者の荷の量だった。わたくしは、それを見て、指先が冷たくなるのが分かった。


 ニルスさまは、わたくしの後ろにいた。袖を掴んではいない。ただ、いつもより近くに立っている。


 箱馬車の扉が開いて、義母が降りてきた。


 外套は黒で、襟に灰色の毛皮がついていた。旅の埃がついていない。峠を越えてきた人の服には見えなかった。降りるときに、御者が手を貸そうとして、断られていた。


 義母は、まず中庭を見た。薪の山を見て、井戸を見て、それから、壁の高さを見上げた。


「立派なお館ですこと」


 誰にともなく、そう仰った。


 セヴェリンさまが玄関の段の上に立っていた。義母は段の下から、正確な角度で礼をした。フーベルトさんの礼と同じ角度だった。この家の礼は、みんなこの角度なのだと思う。


「グレーヴェン辺境伯さま。突然のお訪ね、お許しくださいませ」

「どうぞ」

「ヘルミーネ・フェルトハイムと申します。あの子の祖母でございます」


 広間へ通した。


 暖炉に火を入れて、椅子を出した。ギゼラさんが茶を運んできて、置いて、すぐに下がった。下がるとき、わたくしの横を通って、袖を一度だけ引いた。何の意味かは、分からなかった。


 義母は、椅子に座らなかった。


 立ったまま、部屋を見回している。それから、ニルスさまのほうを向いた。


「まあ」


 その方が、わたくしの後ろで動いた。


「大きくなりましたね」


 義母は、そう仰った。声は柔らかかった。祖母が孫に言う声だった。


 ニルスさまは、答えなかった。答えないどころか、動かなかった。息を止めているのが、背中越しに分かった。


「ご挨拶は」


 わたくしは、少し体をずらして、その方を隠す位置に立った。自分でも、なぜそうしたのか分からない。体が先に動いた。


「ミリアムさん」


 義母が、わたくしを見た。


「はい」

「お久しゅうございます」

「ご無沙汰しております」

「お元気そうで、なによりですこと」


 わたくしは頭を下げた。それから、卓の上に置いておいた紙の束を取って、両手で差し出した。


「これを」

「あら」

「四十八ございます。順番と、濃さと、時刻を書きました。書いていないことも、書けるだけ書きました」


 義母は、その束を受け取った。


 いちばん上の一枚を見て、それから、裏返して、束の厚みを指で確かめた。わたくしは、次の言葉を待っていた。


「まあ、ご丁寧に」


 そう仰って、卓の上に置いた。


 置き方は、丁寧だった。角を揃えて、まっすぐに置いた。開かなかった。


 わたくしは、その束を見ていた。


 離縁の夜と同じだった。あのときも、卓の上に置いた。あのときも、開かれなかった。ちがうのは、今度は「まあ、ご丁寧に」がついたことだけだ。


 義母は、もう別のほうを見ていた。


 暖炉の横の柱だった。


「まあ、これは」


 その人は、柱に近寄った。わたくしが彫った線に、指を当てている。


「柱に傷をおつけになったの」

「……ニルスさまの、背丈でございます」

「背丈」

「はい。月に一度、お測りしております」


 義母は、指を離した。振り返って、わたくしを見た。困った顔をしていた。あの家で何度も見た顔だ。


「ミリアムさん。そういうことをなさるから、いつまでも子どものままなのですよ」


 わたくしは、返事をしなかった。


 義母は、それ以上は柱を見なかった。彫った線の、すぐ下。煤の中に、二列の古い刻み目がある。左の列は、九本で止まっている。その人は、気づかずに柱から離れた。


 セヴェリンさまが、暖炉のほうを向いた。顔は見えなかった。


「乳母を連れてまいりました」と、義母が言った。「マルガと申します。王都で三家に仕えた者でございます」


 荷馬車のほうから、女の人が入ってきて、礼をした。四十くらいの、きちんとした方だった。悪い人には見えなかった。悪い人には見えないほうが、たぶん、こわい。


「あの子の食事は、この者が引き継ぎます」


 引き継ぎます。


 書状にあった言葉が、そのまま出てきた。わたくしは、卓の上の束を見た。開かれていない束を。


 それでも、わたくしはマルガさんのほうへ一歩出た。


「マルガさん」

「はい」

「あの方は、匙を両手でお持ちになります」

「……はい」

「口へ運ぶ前に、必ずこちらをご覧になります。頷いて差し上げてくださいませ。頷かないと、いつまでもお待ちになります」

「かしこまりました」

「頷き方は、深くなさらないでください。顎だけ、一度」


 マルガさんは、わたくしの顔を見た。真面目な方だと思う。分からないという顔を、正直にしていた。


「……申し訳ございません。もう一度、伺ってもよろしいですか」

「はい。何度でも」

「顎だけ、一度」

「はい。目は、合わせたままで」


 その人は、頷いてみせた。早かった。少し早い。それでは急かしになる。


「もう少しだけ、ゆっくり」


 もう一度、頷いてみせた。今度は、遅かった。


「マルガさん」

「はい」

「その紙に、書けなかったのが、そこでございます」


 わたくしは、卓の上の束を指した。自分の声が、思ったより静かに出た。


「四十八は書けました。濃さも時刻も書けました。頷き方だけ、どうしても書けませんでした」

「……」

「三年かかりました。ですから、すぐにお出来にならなくても、それは当たり前でございます」


 マルガさんは、頭を下げた。深く下げた。

 悪い人ではない。悪い人ではないから、こわい。


「ミリアムさん」


 義母の声だった。


「そのくらいで」

「はい」

「引き継ぎというのは、そういうものではございません」

「……と、仰いますと」

「あなたのやり方を、そのまま移すことではないのですよ」


 その人は、微笑んでいた。


「ミリアムさん」

「はい」

「明日、ゆっくりお話ししましょう」


 義母は、そう仰った。微笑んでいた。この人は、怒鳴らない。三年、一度も怒鳴られたことがない。


「あなたのなさっていたことを、伺いたいのです。全部」


 厨へ降りたのは、日が落ちてからだった。


 台の隅に、林檎が三つ出してあった。ギゼラさんが昼のうちに出したのだと思う。焼く日だった。


 わたくしは、その三つを籠へ戻した。竈の火は、もう落としてある。


 その夜、ニルスさまは召し上がらなかった。


 粥は、いつもどおりの時刻に、いつもどおりの濃さで出した。その方は匙を取った。両手で取って、掬って、それから、わたくしを見た。


 わたくしは頷いた。


 匙は、口の手前で止まった。しばらく止まって、それから、皿に戻された。


「はい」


 わたくしは、それだけ言った。叱らない。急かさない。明日がある、と言ってやりたかったけれど、それは言わなかった。明日、何があるのかを、わたくしが知らないからだ。


 皿を下げて、帳面を開いた。


 三日ぶりの、零だった。

 みっつめの章にお付き合いくださって、ありがとうございました。


 この人は一度も声を荒げません。書状も丁寧でしたし、礼の角度も正確でした。柱の話をするときも、微笑んでいました。


 「あなたのなさっていたことを、伺いたいのです。全部」——明日の朝、二人で話します。


 ブックマークと評価は、次の帳面の紙代に充てさせていただきます。


【その日の献立】 麦の粥に乳、蕪。—— ふたくち。夕は、召し上がりませんでした。

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