第20話:玄関に立つ人
馬車は、二台とも中庭まで入ってきた。
一台目は、黒い箱馬車だった。二台目は荷馬車で、木の箱と、行李がいくつか積んである。長く滞在する者の荷の量だった。わたくしは、それを見て、指先が冷たくなるのが分かった。
ニルスさまは、わたくしの後ろにいた。袖を掴んではいない。ただ、いつもより近くに立っている。
箱馬車の扉が開いて、義母が降りてきた。
外套は黒で、襟に灰色の毛皮がついていた。旅の埃がついていない。峠を越えてきた人の服には見えなかった。降りるときに、御者が手を貸そうとして、断られていた。
義母は、まず中庭を見た。薪の山を見て、井戸を見て、それから、壁の高さを見上げた。
「立派なお館ですこと」
誰にともなく、そう仰った。
セヴェリンさまが玄関の段の上に立っていた。義母は段の下から、正確な角度で礼をした。フーベルトさんの礼と同じ角度だった。この家の礼は、みんなこの角度なのだと思う。
「グレーヴェン辺境伯さま。突然のお訪ね、お許しくださいませ」
「どうぞ」
「ヘルミーネ・フェルトハイムと申します。あの子の祖母でございます」
広間へ通した。
暖炉に火を入れて、椅子を出した。ギゼラさんが茶を運んできて、置いて、すぐに下がった。下がるとき、わたくしの横を通って、袖を一度だけ引いた。何の意味かは、分からなかった。
義母は、椅子に座らなかった。
立ったまま、部屋を見回している。それから、ニルスさまのほうを向いた。
「まあ」
その方が、わたくしの後ろで動いた。
「大きくなりましたね」
義母は、そう仰った。声は柔らかかった。祖母が孫に言う声だった。
ニルスさまは、答えなかった。答えないどころか、動かなかった。息を止めているのが、背中越しに分かった。
「ご挨拶は」
わたくしは、少し体をずらして、その方を隠す位置に立った。自分でも、なぜそうしたのか分からない。体が先に動いた。
「ミリアムさん」
義母が、わたくしを見た。
「はい」
「お久しゅうございます」
「ご無沙汰しております」
「お元気そうで、なによりですこと」
わたくしは頭を下げた。それから、卓の上に置いておいた紙の束を取って、両手で差し出した。
「これを」
「あら」
「四十八ございます。順番と、濃さと、時刻を書きました。書いていないことも、書けるだけ書きました」
義母は、その束を受け取った。
いちばん上の一枚を見て、それから、裏返して、束の厚みを指で確かめた。わたくしは、次の言葉を待っていた。
「まあ、ご丁寧に」
そう仰って、卓の上に置いた。
置き方は、丁寧だった。角を揃えて、まっすぐに置いた。開かなかった。
わたくしは、その束を見ていた。
離縁の夜と同じだった。あのときも、卓の上に置いた。あのときも、開かれなかった。ちがうのは、今度は「まあ、ご丁寧に」がついたことだけだ。
義母は、もう別のほうを見ていた。
暖炉の横の柱だった。
「まあ、これは」
その人は、柱に近寄った。わたくしが彫った線に、指を当てている。
「柱に傷をおつけになったの」
「……ニルスさまの、背丈でございます」
「背丈」
「はい。月に一度、お測りしております」
義母は、指を離した。振り返って、わたくしを見た。困った顔をしていた。あの家で何度も見た顔だ。
「ミリアムさん。そういうことをなさるから、いつまでも子どものままなのですよ」
わたくしは、返事をしなかった。
義母は、それ以上は柱を見なかった。彫った線の、すぐ下。煤の中に、二列の古い刻み目がある。左の列は、九本で止まっている。その人は、気づかずに柱から離れた。
セヴェリンさまが、暖炉のほうを向いた。顔は見えなかった。
「乳母を連れてまいりました」と、義母が言った。「マルガと申します。王都で三家に仕えた者でございます」
荷馬車のほうから、女の人が入ってきて、礼をした。四十くらいの、きちんとした方だった。悪い人には見えなかった。悪い人には見えないほうが、たぶん、こわい。
「あの子の食事は、この者が引き継ぎます」
引き継ぎます。
書状にあった言葉が、そのまま出てきた。わたくしは、卓の上の束を見た。開かれていない束を。
それでも、わたくしはマルガさんのほうへ一歩出た。
「マルガさん」
「はい」
「あの方は、匙を両手でお持ちになります」
「……はい」
「口へ運ぶ前に、必ずこちらをご覧になります。頷いて差し上げてくださいませ。頷かないと、いつまでもお待ちになります」
「かしこまりました」
「頷き方は、深くなさらないでください。顎だけ、一度」
マルガさんは、わたくしの顔を見た。真面目な方だと思う。分からないという顔を、正直にしていた。
「……申し訳ございません。もう一度、伺ってもよろしいですか」
「はい。何度でも」
「顎だけ、一度」
「はい。目は、合わせたままで」
その人は、頷いてみせた。早かった。少し早い。それでは急かしになる。
「もう少しだけ、ゆっくり」
もう一度、頷いてみせた。今度は、遅かった。
「マルガさん」
「はい」
「その紙に、書けなかったのが、そこでございます」
わたくしは、卓の上の束を指した。自分の声が、思ったより静かに出た。
「四十八は書けました。濃さも時刻も書けました。頷き方だけ、どうしても書けませんでした」
「……」
「三年かかりました。ですから、すぐにお出来にならなくても、それは当たり前でございます」
マルガさんは、頭を下げた。深く下げた。
悪い人ではない。悪い人ではないから、こわい。
「ミリアムさん」
義母の声だった。
「そのくらいで」
「はい」
「引き継ぎというのは、そういうものではございません」
「……と、仰いますと」
「あなたのやり方を、そのまま移すことではないのですよ」
その人は、微笑んでいた。
「ミリアムさん」
「はい」
「明日、ゆっくりお話ししましょう」
義母は、そう仰った。微笑んでいた。この人は、怒鳴らない。三年、一度も怒鳴られたことがない。
「あなたのなさっていたことを、伺いたいのです。全部」
厨へ降りたのは、日が落ちてからだった。
台の隅に、林檎が三つ出してあった。ギゼラさんが昼のうちに出したのだと思う。焼く日だった。
わたくしは、その三つを籠へ戻した。竈の火は、もう落としてある。
その夜、ニルスさまは召し上がらなかった。
粥は、いつもどおりの時刻に、いつもどおりの濃さで出した。その方は匙を取った。両手で取って、掬って、それから、わたくしを見た。
わたくしは頷いた。
匙は、口の手前で止まった。しばらく止まって、それから、皿に戻された。
「はい」
わたくしは、それだけ言った。叱らない。急かさない。明日がある、と言ってやりたかったけれど、それは言わなかった。明日、何があるのかを、わたくしが知らないからだ。
皿を下げて、帳面を開いた。
三日ぶりの、零だった。
みっつめの章にお付き合いくださって、ありがとうございました。
この人は一度も声を荒げません。書状も丁寧でしたし、礼の角度も正確でした。柱の話をするときも、微笑んでいました。
「あなたのなさっていたことを、伺いたいのです。全部」——明日の朝、二人で話します。
ブックマークと評価は、次の帳面の紙代に充てさせていただきます。
【その日の献立】 麦の粥に乳、蕪。—— ふたくち。夕は、召し上がりませんでした。




