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離縁されましたので、あの子の食事は明日からご自分で  作者: 蒼井玲


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第19話:四十八番目

 雪は、三日おきに降るようになった。


 朝いちばんに中庭の道をつけるのが、若い兵たちの仕事だ。厨から井戸まで、井戸から門まで、幅は人ひとりぶん。それ以外は白いままにしておく。全部かくと、雪の置き場が無くなるのだそうだ。ニルスさまは、その道を歩くのが好きだった。両側が自分の背より高くなる日もある。


 わたくしは、写しを七枚まで書いた。


 その朝、厨の台に蜂蜜の壺が出ていた。


 ギゼラさんが出しっぱなしにしたのだと思う。三日に一度、セヴェリンさまの林檎を焼くようになったので、棚に戻すのが面倒になったらしい。壺の口には、木の匙が挿してあった。


 ニルスさまは、豆の盆の前に座っていた。白と茶を分けるのは、この方の仕事になっている。ギゼラさんが盆を出すと、勝手に椅子を引いて座る。


 その手が、途中で止まった。


 わたくしは、粥をかき混ぜながら見ていた。その方は、蜂蜜の壺を見ていた。琥珀の色に、窓からの光が入っている。


 しばらく見て、それから、指をさした。


「これ、たべたい」


 わたくしは、鍋の前で動かなくなった。


 ギゼラさんが、こちらを見た。わたくしは、その人を見た。二人とも、しばらく何も言わなかった。


「……いま、なんて」

「これ、たべたい」


 もう一度、はっきりそう言った。


 わたくしは鍋を火から下ろして、手を拭いて、それから、匙を取った。蜂蜜を、匙の先に少しだけ取る。ほんの少しだ。


 卓に置いて、その方の前に出した。


 ニルスさまは、匙を両手で取った。それから、わたくしの顔を見た。


「どうぞ」


 頷いた。


 口に入れて、しばらく動かなかった。わたくしは待った。ギゼラさんも、豆を選る手を止めたままだった。


 飲み込んだ。


 それから、その方は、もう一度壺を見た。わたくしは、もう一杯すくって出した。二杯目も飲み込んだ。三杯目で、手が止まった。


「よくできました」


 わたくしは、そう言った。言ってから、うまく息が吸えていないことに気づいた。


「ニルスさま」

「……はい」

「どうして、あれが食べたいと思われましたか」

「……」

「お答えにならなくてもよろしいのです。ただ、伺いたくて」


 その方は、壺のほうを見た。


「ひかってた」

「光っておりましたか」

「うん」

「甘いから、ではなく」

「わからない」

「はい」

「たべてから、あまかった」


 わたくしは、匙を持ったまま頷いた。


 食べる前に分かるものと、食べてから分かるものがある。この方は今日、分からないものに手を伸ばした。三年、分からないものは口に入れなかった方が。


「ギゼラさん」

「……ああ」

「四十八でございます」

「そうかい」


 その人は、豆をひとつまみ椀に落とした。落とすのに失敗して、二つほど床に転がった。


「……そうかい」


 もう一度言った。それから、拾いに行った。


 しゃがんだまま、なかなか立たなかった。


「ギゼラさん」

「うるさいね」

「まだ何も申し上げておりません」

「言おうとしただろう」

「はい」

「言わなくていいよ」


 その人は、豆を二つ握って立ち上がった。膝を伸ばすのに、卓のふちを使った。


「あたしゃね、四十年ここで飯を作ってるけどね」

「はい」

「新しいものを食べたって喜ばれたのは、初めてだよ」

「今日のは、わたくしが出しました」

「あんたが出したのは匙だろう。蜂蜜を出しっぱなしにしたのはあたしだ」

「……はい」

「だから、あたしの手柄でもある」


 わたくしは、頭を下げた。ギゼラさんは、それを見なかった。見ないで、棚に背を向けたまま言った。


「坊主に、明日も出してやんな」

「三日おきにいたします」

「なんでだい」

「三日続けると、四日目に召し上がらなくなりますので」

「……あんた、ほんとに面倒な仕事してるね」

「はい」


 その日の夕方、書斎へ報せに行った。


「四十八番目が見つかりました」


 セヴェリンさまは、書きものの手を止めた。


「何ですか」

「蜂蜜でございます」

「……蜂蜜」

「はい。ご自分から指をさして、たべたい、と仰いました」


 その人は、しばらく黙っていた。


「私の林檎の壺ですか」

「はい」

「では、私のせいで見つかった」

「そういうことになります」

「三日に一度、出しておいてよかった」


 わたくしは、そこで初めて笑ったと思う。笑ってから、慌てて口を押さえた。あの家では、笑うところを人に見せたことがない。


「ミリアム殿」

「はい」

「四十七が四十八になるのに、どのくらいかかりましたか」

「……ふた月でございます」

「三年で四十七、ふた月で一つ」

「はい」

「悪くない」


 その人は、そう言った。


 わたくしは、それを聞いて書斎を出た。廊下で、少し立ち止まった。悪くない、と言われたのは、たぶん初めてだった。


 その日、わたくしは一冊目を開いて、十七の書き込みを読み返した。


 ——すきなのは、あまいものではなくて、やわらかいもの。


 この行を、わたくしはずっと守ってきた。四十七のうち、甘いものは一つもない。干した林檎は甘いけれど、あれは果物の甘さで、砂糖や蜜のことではない。菓子は一度も入れなかった。ズザンネさまがそう書いていたからだ。


 けれど、今日、あの方は蜂蜜を召し上がった。


 わたくしは、あの家の菓子を思い出していた。


 夜の卓に出ていた菓子は、焼き固めたものだった。木の実が入っていて、硬い。あれを噛み砕くには、大人の歯が要る。あの方は、あれを食べられなかった。


 甘いから駄目だったのではない。硬かったから駄目だった。


 ズザンネさまも、たぶんそう見えたのだと思う。菓子を出す。食べない。それを何度か見て、甘いものは駄目だと書いた。それは、あの家の卓に並ぶ菓子しか見たことのない人の書き方だった。


 あの人も、外へ出られなかった。


 わたくしは、写しの八枚目に、新しい行を足した。


 四十八。蜂蜜。匙に少量。柔らかいもの。

 ——甘いものが駄目なのではありません。硬いものが駄目なのです。


 書いてから、しばらくその行を見ていた。


 これは、義母に渡す紙だ。義母は、この行を読むだろうか。読んで、あの家の菓子を変えるだろうか。


 変えないだろう、と思った。思ってから、それでも書いておくことにした。書いておけば、いつか誰かが読む。厨の使い残しを誰かがもらうかもしれない。


 夕方、門のほうで音がした。


 鐘ではない。門番の声だった。走る足音が、中庭を横切っていく。わたくしは窓を開けた。冷たい空気が入ってきた。


「ミリアムさま!」


 下から呼ばれた。


「馬車が、峠を越えてきます。二台です」

 お読みくださって、ありがとうございます。


 ギゼラばあさんは豆を二つ床に落として、拾いに行ったきりなかなか立ちませんでした。膝が痛かったのだと思います。たぶん、それだけです。


 峠を越えてくる馬車が、二台。荷馬車のほうには、長く滞在する者ぶんの行李が積んであります。


【その日の献立】 麦の粥に乳、蕪、林檎。—— みくち。/蜂蜜、匙に二杯。—— 四十八番目でございます。

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