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離縁されましたので、あの子の食事は明日からご自分で  作者: 蒼井玲


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18/30

第18話:先代夫人ヘルミーネ

 書状は、広間の卓で開かれた。


 セヴェリンさまが封を切って読み、それから、わたくしのほうへ回した。紙は上等だった。あの家の書きもの用の紙で、手触りで分かる。


 字はきれいだった。


 義母の字を見たのは、あの家で二度だけだ。婚礼のときの署名と、贈り物に添えられた札。書く用のあまり無い方なのだと思っていた。こうして見ると、うまい。習って、直されて、直りきった字だった。


 書いてあることにも隙がなかった。


 まず突然の書状を詫びている。次に、こちらの領地の冬を案じている。峠の雪のことを、正確に書いていた。あの家からここまで来たことのある人の書き方だ。それから孫のことを書いていた。


 ——このたびは、あの子が大変なご迷惑をおかけいたしました。


 迷惑と書いてある。


 ——嫡子の身でありながら、家を出るようなことをいたしまして、当家の不徳といたすところでございます。乳母はようやく王都より着きましたが、あの子の様子を知る者が家におりませんゆえ、往生しております。


 わたくしはそこで一度、紙を置いた。


 様子を知る者が家におりません。そのとおりだった。三年、わたくししか知らなかった。そのあいだ、義母はわたくしに一度も訊かなかった。


 ——つきましては、近いうちに、そちらへ伺いたく存じます。


 紙を持ち直した。


 ——道中のことは、こちらで手配いたします。ご迷惑はおかけいたしません。老いた祖母が孫の顔を見に参るだけのことと、お汲み取りいただければ幸いに存じます。


 最後に、こう書いてあった。


 ——ミリアムさんにも、お目にかかりとうございます。あなたのなさっていたことを、詳しく伺いたいのです。あなたのお仕事を、きちんと引き継ぎたいと存じます。


 わたくしはその二行を三度読んだ。


「ミリアム殿」


 顔を上げると、セヴェリンさまがこちらを見ていた。


「どう読みましたか」

「……はい」

「正直に」

「わたくしのやり方を、お訊きになりたいのだと思います」


 言いながら、声が高くなっているのが分かった。


「四十七をお渡しできます。写しはございます。書いていないこともお話しできます。頷き方や、時刻や、皿の下げ方や。お話しすれば」


 そこで、言葉が続かなくなった。


 お話しすれば、どうなるのだろう。あの家の卓に、粥が並ぶだろうか。


「セヴェリンさま」

「はい」

「わたくしは、この方に一度も訊かれたことがございません」

「知っています」

「今、初めて訊かれました」


 わたくしは紙の端を指で押さえた。


「三年、待っていたのだと思います。訊かれるのを」


 セヴェリンさまは、何も言わなかった。しばらくしてから、書状を自分のほうへ引き寄せた。


「私は、別の読み方をしました」

「……はい」

「言いますか」

「伺います」


 その人は、指で行を追った。


「迷惑、と書いてある」

「はい」

「甥が家を出たことを、この人は迷惑と呼んでいる。裸足で走った子のことを」

「……はい」

「それから、乳母は着いたと書いてある。着いたのに、往生していると」

「はい」

「つまり、乳母では駄目だったということです。それを、この人は書き方で隠している」


 わたくしは、紙を見た。そう読めた。読めるのに、さっきは読まなかった。


「最後の二行は」


 セヴェリンさまは、そこで少し間を置いた。


「引き継ぎたい、と書いてあります」


 厨のほうから、ギゼラさんが顔を出した。


 いつから聞いていたのかは分からない。この館の人は、みんな足音を立てない。


「行くんじゃないよ」


 その人は、それだけ言った。


「行きません。向こうがおいでになるそうです」

「なら、なおさら悪いね」

「なぜでございましょう」

「来る人ってのは、用があるから来るのさ。用のない人は手紙で済ませる」


 ギゼラさんは、それきり厨へ戻っていった。


 その日の午後、わたくしは書状をもう一度読んだ。誰もいない広間で、声に出して読んだ。声に出すと、目で読んだときと少しちがう。


 読み終えて、机の上に置いた。


 どちらの読み方も、正しいのだと思う。義母は本当に孫を案じておいでかもしれないし、同時に、わたくしを片付けたいのかもしれない。人はそのどちらもを、一枚の紙に書ける。


 わたくしに分かるのは、ひとつだけだった。


 あの方は、いま、あの家にいない。いない子のために乳母を雇い、いない子の食事のことでこちらへ来る。それは、連れて帰るという前提が動いていないということだ。


 書状のどこにも、あの子をこちらに置いてよい、とは書いていない。


 それでも、わたくしは写しを作ることにした。連れて帰られるのなら、なおさら要る。あの家の卓に粥が並ぶかどうかは、わたくしの手を離れたあとの話で、それでも紙は残る。


 残るものを作るのが、わたくしの仕事だった。


 その日から、四十七の写しを作りはじめた。


 新しい紙に、順番どおり書き写す。濃さと、時刻と、続けてはいけない日数。書いていないことも、できるだけ言葉にして足した。頷き方のところで、手が止まった。


 頷き方は、書けなかった。


 早すぎると急かしになる。遅すぎると許しにならない。あの方が匙を持ち上げて、こちらを見て、それから目を戻すまでのあいだに、ちょうど一度。深くしない。顎だけ動かす。目は合わせたまま。そう書いてみて、読み返して、線を引いて消した。


 これを読んで、そのとおりにできる人がいるだろうか。


 わたくしにできるのは、それだけの日数をかけたからだ。四百作って四十七見つけた手の覚えを、紙に写して渡せるのなら、最初からこんなに苦労していない。


 それでも、書いた。消して、また書いた。夜半まで書いた。


 書きながら、わたくしは少し嬉しかったのだと思う。


 訊かれたのだ。初めて、あの家の人に。引き継ぎたいと、書いてくださった。


 途中で、ニルスさまが起きてきた。


 寝間着のまま、卓の横に立っている。わたくしは椅子をひとつ引いた。


「眠れませんか」

「……」

「お座りになりますか」


 その方は座った。わたくしの書いている紙を見ている。


「これは、お食事の書きつけでございます」

「……だれの」

「ニルスさまのです」

「どこに、もっていくの」


 わたくしは、羽根ペンを置いた。


「よくお分かりになりましたね」

「……」

「お祖母さまが、こちらへおいでになります。近いうちに」


 その方は、こちらを見なかった。膝の上で、両手を握った。強く握った。爪が短いので、掌に跡はつかない。


「ニルスさま」

「……かえりません」

「はい」

「かえりません」

「はい。承っております」


 わたくしは、その手の上に自分の手を置いた。しばらくして、力が抜けた。


 その方は、卓に頬をつけて眠ってしまった。わたくしは、片手で書き続けた。


 紙を揃えて、卓の上に置いた。いちばん上の一枚が斜めになっていたので、直した。

 お読みくださって、ありがとうございます。


 今日ミリアムが書けなかったのは「頷き方」でした。三年かけて手が覚えたことは、紙に写せません。写せないものを人に渡すことを、世間では引き継ぎと呼びます。


 厨の棚に、去年の蜂蜜がひと壺。誰も使わないまま、埃をかぶっています。


【その日の献立】 麦の粥に乳、蕪、林檎。—— みくち。/写しは、四枚まで進みました。

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