第18話:先代夫人ヘルミーネ
書状は、広間の卓で開かれた。
セヴェリンさまが封を切って読み、それから、わたくしのほうへ回した。紙は上等だった。あの家の書きもの用の紙で、手触りで分かる。
字はきれいだった。
義母の字を見たのは、あの家で二度だけだ。婚礼のときの署名と、贈り物に添えられた札。書く用のあまり無い方なのだと思っていた。こうして見ると、うまい。習って、直されて、直りきった字だった。
書いてあることにも隙がなかった。
まず突然の書状を詫びている。次に、こちらの領地の冬を案じている。峠の雪のことを、正確に書いていた。あの家からここまで来たことのある人の書き方だ。それから孫のことを書いていた。
——このたびは、あの子が大変なご迷惑をおかけいたしました。
迷惑と書いてある。
——嫡子の身でありながら、家を出るようなことをいたしまして、当家の不徳といたすところでございます。乳母はようやく王都より着きましたが、あの子の様子を知る者が家におりませんゆえ、往生しております。
わたくしはそこで一度、紙を置いた。
様子を知る者が家におりません。そのとおりだった。三年、わたくししか知らなかった。そのあいだ、義母はわたくしに一度も訊かなかった。
——つきましては、近いうちに、そちらへ伺いたく存じます。
紙を持ち直した。
——道中のことは、こちらで手配いたします。ご迷惑はおかけいたしません。老いた祖母が孫の顔を見に参るだけのことと、お汲み取りいただければ幸いに存じます。
最後に、こう書いてあった。
——ミリアムさんにも、お目にかかりとうございます。あなたのなさっていたことを、詳しく伺いたいのです。あなたのお仕事を、きちんと引き継ぎたいと存じます。
わたくしはその二行を三度読んだ。
「ミリアム殿」
顔を上げると、セヴェリンさまがこちらを見ていた。
「どう読みましたか」
「……はい」
「正直に」
「わたくしのやり方を、お訊きになりたいのだと思います」
言いながら、声が高くなっているのが分かった。
「四十七をお渡しできます。写しはございます。書いていないこともお話しできます。頷き方や、時刻や、皿の下げ方や。お話しすれば」
そこで、言葉が続かなくなった。
お話しすれば、どうなるのだろう。あの家の卓に、粥が並ぶだろうか。
「セヴェリンさま」
「はい」
「わたくしは、この方に一度も訊かれたことがございません」
「知っています」
「今、初めて訊かれました」
わたくしは紙の端を指で押さえた。
「三年、待っていたのだと思います。訊かれるのを」
セヴェリンさまは、何も言わなかった。しばらくしてから、書状を自分のほうへ引き寄せた。
「私は、別の読み方をしました」
「……はい」
「言いますか」
「伺います」
その人は、指で行を追った。
「迷惑、と書いてある」
「はい」
「甥が家を出たことを、この人は迷惑と呼んでいる。裸足で走った子のことを」
「……はい」
「それから、乳母は着いたと書いてある。着いたのに、往生していると」
「はい」
「つまり、乳母では駄目だったということです。それを、この人は書き方で隠している」
わたくしは、紙を見た。そう読めた。読めるのに、さっきは読まなかった。
「最後の二行は」
セヴェリンさまは、そこで少し間を置いた。
「引き継ぎたい、と書いてあります」
厨のほうから、ギゼラさんが顔を出した。
いつから聞いていたのかは分からない。この館の人は、みんな足音を立てない。
「行くんじゃないよ」
その人は、それだけ言った。
「行きません。向こうがおいでになるそうです」
「なら、なおさら悪いね」
「なぜでございましょう」
「来る人ってのは、用があるから来るのさ。用のない人は手紙で済ませる」
ギゼラさんは、それきり厨へ戻っていった。
その日の午後、わたくしは書状をもう一度読んだ。誰もいない広間で、声に出して読んだ。声に出すと、目で読んだときと少しちがう。
読み終えて、机の上に置いた。
どちらの読み方も、正しいのだと思う。義母は本当に孫を案じておいでかもしれないし、同時に、わたくしを片付けたいのかもしれない。人はそのどちらもを、一枚の紙に書ける。
わたくしに分かるのは、ひとつだけだった。
あの方は、いま、あの家にいない。いない子のために乳母を雇い、いない子の食事のことでこちらへ来る。それは、連れて帰るという前提が動いていないということだ。
書状のどこにも、あの子をこちらに置いてよい、とは書いていない。
それでも、わたくしは写しを作ることにした。連れて帰られるのなら、なおさら要る。あの家の卓に粥が並ぶかどうかは、わたくしの手を離れたあとの話で、それでも紙は残る。
残るものを作るのが、わたくしの仕事だった。
その日から、四十七の写しを作りはじめた。
新しい紙に、順番どおり書き写す。濃さと、時刻と、続けてはいけない日数。書いていないことも、できるだけ言葉にして足した。頷き方のところで、手が止まった。
頷き方は、書けなかった。
早すぎると急かしになる。遅すぎると許しにならない。あの方が匙を持ち上げて、こちらを見て、それから目を戻すまでのあいだに、ちょうど一度。深くしない。顎だけ動かす。目は合わせたまま。そう書いてみて、読み返して、線を引いて消した。
これを読んで、そのとおりにできる人がいるだろうか。
わたくしにできるのは、それだけの日数をかけたからだ。四百作って四十七見つけた手の覚えを、紙に写して渡せるのなら、最初からこんなに苦労していない。
それでも、書いた。消して、また書いた。夜半まで書いた。
書きながら、わたくしは少し嬉しかったのだと思う。
訊かれたのだ。初めて、あの家の人に。引き継ぎたいと、書いてくださった。
途中で、ニルスさまが起きてきた。
寝間着のまま、卓の横に立っている。わたくしは椅子をひとつ引いた。
「眠れませんか」
「……」
「お座りになりますか」
その方は座った。わたくしの書いている紙を見ている。
「これは、お食事の書きつけでございます」
「……だれの」
「ニルスさまのです」
「どこに、もっていくの」
わたくしは、羽根ペンを置いた。
「よくお分かりになりましたね」
「……」
「お祖母さまが、こちらへおいでになります。近いうちに」
その方は、こちらを見なかった。膝の上で、両手を握った。強く握った。爪が短いので、掌に跡はつかない。
「ニルスさま」
「……かえりません」
「はい」
「かえりません」
「はい。承っております」
わたくしは、その手の上に自分の手を置いた。しばらくして、力が抜けた。
その方は、卓に頬をつけて眠ってしまった。わたくしは、片手で書き続けた。
紙を揃えて、卓の上に置いた。いちばん上の一枚が斜めになっていたので、直した。
お読みくださって、ありがとうございます。
今日ミリアムが書けなかったのは「頷き方」でした。三年かけて手が覚えたことは、紙に写せません。写せないものを人に渡すことを、世間では引き継ぎと呼びます。
厨の棚に、去年の蜂蜜がひと壺。誰も使わないまま、埃をかぶっています。
【その日の献立】 麦の粥に乳、蕪、林檎。—— みくち。/写しは、四枚まで進みました。




