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離縁されましたので、あの子の食事は明日からご自分で  作者: 蒼井玲


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第17話:はじめての「うまい」

 初雪は、峠から十日遅れて降りてきた。


 朝、窓を開けたら中庭が白かった。積もるほどではなく、石畳の隙間だけが白い。ニルスさまは窓のところに立って、しばらく見ていた。あの家の庭には、雪が積もるほど降らなかった。


「触ってごらんになりますか」


 頷いたので外へ出た。手袋がないので、袖を伸ばして手を包んでやった。その方は石畳にしゃがんで隙間の白いところを指で押した。押して指を見て、また押した。


 三度そうしてから、こちらを見上げた。


「冷とうございますね」

「……つめたい」


 わたくしはその一言を帳面に書いた。食事のことではないけれど、書いた。書く欄がなかったので、余白に書いた。


 その日の午後にギゼラさんへ訊いた。


「ズザンネさまは、何がお好きでしたか」


 豆を選る手が止まった。


「なんでまた」

「作ってみたいのです」

「食べる人がいないだろう」

「ひとり、おいでです」


 ギゼラさんは、わたくしの顔をしばらく見ていた。それから椅子の背にもたれた。


「……焼いた林檎だね」

「林檎」

「地下のを半分に切って、芯を抜いて蜂蜜を落として焼くのさ。冬のあいだ、あの子はそればっかりだった」

「蜂蜜は、この館に」

「あるよ。誰も使わないけどね」


 その人は立ち上がって、いちばん上の棚から壺を下ろしてくれた。埃をかぶっていた。拭くと、下から琥珀の色が出てきた。


「坊っちゃまは、これを食べないよ」

「はい。存じております」

「じゃあ誰が」

「旦那さまでございます」


 ギゼラさんは何も言わなかった。言わずに、いちばん大きい林檎を選んで、わたくしの前に置いた。


 半分に切って、芯を抜いた。抜いた穴に、蜂蜜を落とす。落としすぎると縁からこぼれるので、匙の背で受けながら少しずつ入れた。竈の端に置いて、火から遠いところで長く焼く。近づけると皮が焦げると、ギゼラさんが横から言った。言いながら、その人は自分の仕事に戻らなかった。


「見ておいでですか」

「暇なんだよ」

「豆は」

「昼に炊いた」


 林檎は、しばらくすると音を立てはじめた。皮の内側で、汁が沸いている音だ。厨に、甘い匂いが立った。


 ニルスさまが、厨の戸口に来た。


「よい匂いでございますね」


 その方は頷いた。頷いて、それから、匂いのするほうへ一歩入ってきた。自分から厨へ入ってきたのは、初めてだった。


「これは、あの方のぶんですので、ニルスさまのぶんは明日にいたしましょう」


 また頷いた。それでも、焼き上がるまで戸口にいた。


 夕食のあとに出した。


 広間の卓で、セヴェリンさまは書類を読んでいた。わたくしが皿を置くと、顔を上げた。


「これは」

「焼いた林檎でございます」

「私に」

「はい」


 その人は、皿を見た。それから、わたくしを見た。


「申し上げておきますが、無駄です」

「存じております」

「味は分かりません。甘いも分からない」

「はい」

「では、なぜ」

「四十七も、そうやって見つけました」


 わたくしは匙を皿の横に置いた。


「合わないものを、四百ほど作りました。四百作って、四十七見つかりました。分からないものを試すのは、慣れております」


 セヴェリンさまは、しばらく皿を見ていた。それから匙を取った。


 ひとくち食べた。


 その人は、噛まなかった。口に入れたまま、動かない。匙を持った手が、止まっている。


 わたくしは待った。急がせると、止まってしまう。そういうことは、あの家で覚えた。急がせない。待つ。待って、それでも駄目な日は、明日にする。


 やがて飲み込んだ。


「……うまい」


 それだけだった。


 わたくしは頭を下げた。何か言おうとしたけれど、言葉にならなかったので、下げるだけにした。


 セヴェリンさまは、匙を置いた。置いてから、両手で顔を覆った。声は出さなかった。肩も動かない。ただ、そうしていた。


 しばらくして手を下ろした。


「妹が死んだ日からです」


 その人はそう言った。


「あの日の朝に食べたものを、覚えていない。覚えていないと気づいたのが、その半年後でした」

「はい」

「医者は、どこも悪くないと言いました」

「はい」

「正しかった」


 わたくしは、卓の向こうに立っていた。


 どこも悪くない。この言葉を、わたくしはもう三度聞いている。ニルスさまのことで一度、ズザンネさまのことで一度、この方のことで一度。三度とも、正しかったのだと思う。悪いところは、その人の中には無い。


「セヴェリンさま」

「はい」

「明日も、お出ししてよろしいでしょうか」

「……」

「毎日ではございません。三日に一度にいたします。三日続けると、四日目に食べられなくなりますので」


 その人は、少し笑った。


「それは、あの子の話でしょう」

「はい。ですが、たぶん、どなたも同じでございます」


 物音がして振り返った。


 扉のところに、ニルスさまが立っていた。いつからいたのかは分からない。この方は足音を立てない。


「ニルスさま。お休みになったのでは」


 その方は、こちらへ来た。わたくしのところではなく、卓のほうへ来た。


 セヴェリンさまの椅子の横で止まって、その人を見上げる。


 セヴェリンさまは、動かなかった。動かずに、椅子を少し引いた。


 ニルスさまは、膝に乗った。


 両手を膝の上に置いて、まっすぐ座った。誰も、何も言わない。セヴェリンさまの手が、行き場を探して、それから、その方の頭の上に置かれた。置き方が、木彫りの鳥を掛けるときのようだった。


 わたくしは、皿を下げるふりをして、少し離れた。


 しばらくして、セヴェリンさまが小さい声で言った。


「ミリアム殿」

「はい」

「この子が眠るまで、動けません」

「では、そのままで」

「……いつまで、こうしていればよいのですか」

「わたくしにも分かりかねます。三年おりましたが、膝に乗られたことはございませんので」


 その人は、それきり黙った。ニルスさまは、四半刻ほどして眠った。


 その夜、部屋に戻ってから帳面の余白を見ていた。


 つめたい、と書いた行の下に、まだ余白がある。いつまでここにいるのだろうと思った。


 考えたのは、初めてだった。


 あの家では、いつまでいるのだろうと考えたことがなかった。いる場所が決まっていたからだ。ここでは、決まっていない。決まっていないから、考える。


 わたくしは帳面を閉じた。閉じてから、明日の献立を決めていないことに気づいて、また開いた。


 書いたのは、明日の献立ではなかった。


 ——焼いた林檎に蜂蜜。旦那さま。ひとくち。


 人のことを書いたのは、初めてだった。欄が足りないので、また余白に書いた。この帳面は、そのうち余白のほうが多くなるかもしれない。


 翌朝、門番が書状を持って上がってきた。


 封の蝋にフェルトハイムの紋が押してあった。差出人の名は、ディートリヒさまではなかった。

 お読みくださって、ありがとうございます。


 「うまい」の一言に、この作品でいちばん長い時間をかけました。五年ぶんです。


 翌朝、門番が書状を持って上がってきます。封の蝋はフェルトハイムの紋で、差出人はディートリヒではありません。


【その日の献立】 麦の粥に乳、蕪、林檎。—— みくち。/焼いた林檎に蜂蜜。—— ひとくち。

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