第16話:合うと言い張る人
朝の光で見ると、二つの列はもっとはっきりした。
左は、フェルトハイム家の献立だ。朝は麦のパンと、卵と、干し肉。昼は肉の煮込みと、根菜。夜は焼いた肉と、豆と、菓子。季節で少し変わるけれど、骨は変わらない。毎日見ていたから、迷わずに書けた。
右は、四十七。
わたくしは、重なるものに印をつけていった。
麦。これは重なる。粥にすればパンと同じものだ。
湯。これも重なる。
そこで、印が止まった。
卵には、黄身が入っている。あの家の卵は必ず両方だ。白身だけの卵料理は、あの家の献立にはない。干し肉は硬い。噛む仕事が要る。あの方は噛む途中でやめる。煮込みは香りが強い。湯気が立つと駄目だと、ズザンネさまが書いている。菓子は甘い。あの方が召し上がるのは甘いものではなく、柔らかいものだ。これもあの人が書いていた。
わたくしは、紙の上に手を置いた。
二つ。四十七のうち、あの家の献立と重なるのは二つだった。
つまり、あの家の卓に並んでいたもののうち、あの方が食べられるものは、ほとんど無かった。朝も昼も夜も、食べられないものが出ていた。わたくしがいたあいだ、毎日。
わたくしは、それを知らなかったわけではない。知っていたから、厨で別に作っていた。決まりの献立とは別に、四十七のほうを作っていた。義母に見つかると、そのたびに言われた。
甘やかしては駄目。出したものを、出したとおりに。
そのときは、育て方の考えの違いだと思っていた。厳しい方なのだ、と思っていた。
一度だけ、はっきり見えた日がある。
二年目の秋だった。あの方が熱を出して、三日ほど、粥しか召し上がれなかった。熱が下がった日の夜、義母が広間の卓に呼んだ。卓には、いつもの献立が並んでいた。焼いた肉と、豆と、菓子。
「今日はお粥にさせてくださいませ」と、わたくしは申し上げた。「まだ、お戻りになったばかりですので」
「戻ったのなら、戻ったものを召し上がるのです」
「ですが」
「ミリアムさん。この卓に並んでいるものは、この家の子が食べるものです」
義母は、そう仰った。困った顔をしていた。本当に、困っていらした。
「あなたが粥を出すと、この子はいつまでも粥の子のままですよ」
あの方は、その夜、何も召し上がらなかった。肉を切ろうとして、匙を持ち替えて、それからずっと皿を見ていた。皿が下げられるまで、そうしていた。わたくしは厨で粥を温め直して、部屋へ持っていった。夜半だった。ふたくち、召し上がった。
あのとき、わたくしは義母を厳しい方だと思った。いま、二枚の紙を並べて、分かる。あの人は、厳しかったのではない。
ちがった。
わたくしがやっていたのは、献立の入れ替えだ。義母が守らせようとしていたのは、献立そのものだった。合う合わないの話ではない。その卓に何を並べるかという話だ。合わないから替えるという発想が、あの人には最初から無い。
わたくしは一冊目を開いて、十七の書き込みを順に読んだ。
おとがすると、とまる。あさは、ひかりのあるところで。ゆげが立つと、だめ。すきなのは、あまいものではなくて、やわらかいもの。
全部、決まりの献立の外にある。
この人も、外でやっていた。外でやって、四年で亡くなった。
厨へ降りると、ギゼラさんが窓を閉めていた。
「冷えるね。今朝、峠が白かったよ」
「もう雪でございますか」
「峠だけさ。ここに来るのは、あとふた月」
わたくしは、湯を沸かしながら訊いた。
「ギゼラさん。この館の献立は、どなたがお決めになりますか」
「決める?」
「はい。朝はこれ、昼はこれ、という」
「そんなもんないよ」
その人は、あっさりそう言った。
「うちは冬に何が残ってるかで決まる。地下に蕪があれば蕪だし、肉があれば肉さ。決まってたら、雪の年に全員飢えるだろう」
「では、代々の決まりは」
「ないったら。四十年ないよ」
湯を注ぐ手が、止まった。
「四十年、ないのでございますね」
「あんたの家にはあったのかい」
「……ございました」
書いたものを見たことは、一度もない。けれど、あれは確かに決まっていた。厨の者は諳んじていたし、間違えると叱られていた。エーリヒさんが一度だけ昼に汁物を出して、義母に呼ばれたことがある。
朝のぶんは、湯が沸いてから取り分けた。
粥に乳、蕪をひとかけ、林檎をひときれ。四日、同じものを出している。増やしていないのは、増やす理由が無いからだ。
部屋へ運ぶと、ニルスさまは窓際の椅子に座っておられた。光の入るほうだ。
——あさは、ひかりのあるところで。
その一行は、今朝読み返したところだった。読み返す前から、わたくしはそうしていた。
匙を取って、こちらを見る。わたくしは頷いた。
みくち。蕪も、林檎も、残らなかった。四日、同じだ。
帳面に同じことを四日書くのは、退屈な仕事だった。退屈なほうがいい。
その日の午後、書斎で二枚の紙を広げた。
セヴェリンさまは、左の列を上から下まで読んだ。
「これは、毎日ですか」
「毎日でございます」
「三年」
「はい」
「そのうち、あの子が食べられるものは」
「二つでございます」
その人は、紙から目を上げなかった。
「二つ」
「麦と、湯でございます」
しばらく、何も言わなかった。
「ミリアム殿」
「はい」
「あなたは、これを毎日見ていた」
「はい」
「見ていて、どうしていましたか」
「厨で、別に作っておりました」
「見つかったら」
「叱られました」
わたくしは、そこで少し言葉を選んだ。
「叱られる、というのとは少しちがいます。義母さまは、お怒りにはなりません」
「では」
「困った顔をなさいます。それから、同じことを仰います。甘やかしては駄目、と」
「同じことを」
「いつも同じ言葉でした。一度も変わりませんでした」
セヴェリンさまは、紙を机に置いた。
「その献立は、誰が決めたのですか」
訊かれて、答えられなかった。
「……存じません」
「あなたは三年その家にいた」
「はい」
「それだけおいでで、誰が決めたかは分からない」
「はい」
言いながら、自分でおかしいと思った。
誰が決めたのか、一度も訊いたことがない。訊こうと思ったこともなかった。あれは、昔からそうなっているものだ。柱に傷がないのと同じで、そこにあるものだった。
「書いたものは、ございませんでした」
「献立表が無い」
「見たことがございません。厨の者は覚えておりました。ですが、紙は」
わたくしは、そこで口をつぐんだ。
紙が無いのに、全員が同じものを守っている。間違えると、義母に呼ばれる。
では、正しいかどうかを判じているのは誰だろう。
「セヴェリンさま」
「はい」
「あの献立は、書いてございませんでした」
わたくしは、そう言った。
「書いていないものを、毎日、間違えずに守っておりました。わたくしも、厨の者も」
その人は、何か言おうとして、やめた。やめてから、こう訊いた。
「では、間違いだと決めているのは、誰ですか」
「……義母さまでございます」
「その方は、何を見て決めているのですか」
わたくしは、答えられなかった。
紙が無い。写しも無い。読み合わせも無い。それでも、間違いは必ず見つかる。誰かが見て、困った顔をして、同じ言葉を言う。
窓の外で、風が鳴っていた。峠が白いという日の風だ。
お読みくださって、ありがとうございます。
書かれていない決まりは、誰にも直せません。直すには、まずそれを紙に書かなければならないからです。ミリアムは今日、それを紙に書きました。
峠が白くなりました。ここへ雪が来るまで、あとふた月だそうです。
【その日の献立】 麦の粥に乳、蕪、林檎。—— みくち。四日続けて。




