終 此岸に星二つ
全国どこにでもあるチェーン展開のラーメン屋は、金曜日の夕飯時ということもあって、騒々しいほどに賑わっていた。
部活帰りらしいジャージ姿の学生たちが楽しげに舌も箸も止めずにいる横の席で、家族連れの母親が外食にはしゃぐ子供がソファに立とうとするのを叱る。
配膳担当の店員が小走りで厨房とテーブルを行き交い、あまりの忙しさにか、注文を聞くどころか水さえ持ってくる気配がない。
ほんの数十分前まで対峙していたものが、本当に現実での出来事だったのかと疑いたくなるほどに、当たり前の日常が当たり前の光景として目の前に広がっていたが、手に残る臓腑の生々しい感触と、向かい側に座っている存在は、疑いようもなく現実のものだった。
「さすが金曜の夜はえらいこっちゃやなァ。急いどらんからええけど……仁道ちゃんもお疲れさんやったな。正直、ここまでやれるとは思っとらんかったわ。鍋島さんと仁道ちゃんがおらんかったら、南羽柊の心証めっちゃくちゃ悪なっとったでな……お礼も兼ねて、五千円までなら奢ったるから、好きなもん頼み」
八千斑が纏っている空気は、すっかり出会った当初と変わりない。
金色の瞳から無慈悲な冷たさは消え、その色に相応しい、陽だまりのような暖かさが宿っている。
「……奢ってほしくてついてきたわけじゃない。そもそも、お前の報酬だろう」
仁道の言う通り、五千円というのは今回の報酬であり、夏芽が財布に入れていた、一番大きな額の紙幣であった。
彼女が支払いを渋ったわけではなく、八千斑が「おれに払う金があるんなら、はよリフォームしな」ときっぱり断ったのである。
八千斑が連絡先すら聞かずに去ろうとしたので、夏芽はあたふたとしながら、仁道に電話番号を走り書きしたメモの切れ端を押し付けた――ちなみに、彼女が耳まで赤くしていたことは、八千斑しか知らない。
「おれの金なら好きに使わせてェや。そんで、それは分かっとるで。聞きたいんやろ、これのこと」
八千斑はソファ席の端に置いた、あたらびペットクリニックのロゴが入った大きな紙袋を指差す。
中身はあの猿の像と、南羽夏萌の日記である。
報酬が安すぎると訴える夏芽にそれならばと譲ってもらったのだが、八千斑としては霊障を招きそうなものを遠ざけたかったらしく、結局は自分が得をしていることに、彼女は一生気付かないだろう。
「おれとしちゃあ、素人さんをあんま巻き込みたないんやけどなァ」
「もう巻き込んだだろう。巻き込みすぎてるぐらいだぞ」
「確かに。……ま、話すだけならええか」
八千斑は紙袋の中から木彫りの指を取り出し、テーブルの上に無造作に置いた。
どこかで嗅いだ気がする甘い香りが漂ったが、すぐに油の匂いに掻き消された。
「仁道ちゃん、“猿の手”って知っとる?」
「言葉通りの意味じゃないなら、知らん」
「猿の手は、ウィリアム・ワイマーク・ジェイコブズっちゅうイギリスの作家さんが書いた短編に出てくるもんでな――」
ある老夫婦が友人から、“どんな願いも三つ叶えるが、定められた運命に逆らおうとすれば災厄が訪れる”という猿の手のミイラを譲り受ける。
息子の提案で、家のローンを完済するための金が欲しいと願うと、翌日、息子が勤めている工場で機械に巻き込まれて事故死し、ちょうどぴったりローンを完済できるだけの弔慰金が支払われた。
妻の懇願に負け、夫は猿の手に息子を蘇らせるよう願うが、最初の願いを考えれば、普通に帰ってくるはずがない。
息子の無惨な遺体を知る夫は、誰かが玄関ドアをノックする音に、慌てて最後の願いを口にする。
するとノックは止み、三つの願いは最悪の形で消費されてしまった。
「……って話なんやけど」
「つまり……この指も?」
「そ。御晴写……猿の手よりタチの悪い代物でな。誰のどんな願いでも叶えるけど、絶対に歪んだ形で叶うんよ」
「じゃあ、あの親子は」
「……日記、チラッと読んだけど、願ったんは『介護の必要が無くなるか、せめておむつがいらなくなるぐらいに元気になりますように』やったな……下半身が無きゃあシモの世話せんでええし、そもそも死んだら介護の必要なくなるし……元気になるんも、生前とは指定されてへん」
指を紙袋に放り込んだ八千斑の、うんざりしたような溜息に嘘は無かった。
あまりに救いが無さすぎて、いっそ嘘であったほうがマシだったろうが、仁道はもはや疑わなかった。
自分が実際に体験したからというのもあるが、もしもこれが宗教団体の仕込みや演技だとすれば、神を信じる意味を一つも持てない話しかしないのはおかしい。
「お前は、これを探してるのか」
「半々。見つかったらええなあって感じやなァ。探したいンは山々なんやけど、大っぴらに探し回って世間様にバレたらどないなるか、分かるやろ」
「それは……確かに」
父親に元気になってほしいという純粋な祈りすら悲劇を生んだのだ。
使い切れないほどの金が欲しい、努力をせずに高い地位に就きたい、誰よりも美しくなりたい、永遠に若くありたい、あの人を手に入れたい、あいつを苦しめたい……誰しもが一度は頭に過ぎらせる平凡な願望も、歪めば、果たしてどれほどの人間が不幸になるか。
むしろ、不幸で済めば幸運だろう。
「ま、猿の手と違ごて願いは一個しか叶えられんし、使こたら力は消えるんだけは救いやけど……猿の手と違ごて、一個やないのが厄介なんよなァ」
「複数あるのか?!」
「そらそうやろ、流れ的に。元々は、せやなァ、歩くようなった子供ぐらいの大きさの、千手観音みたいな仏像でな。なんでバラバラになって、あっちゃこっちゃ散らされてもうたんかは知らんけど、行方がわからん破片がまだまだあるんよ。おまけに祀られとったんは今回が初めてや……こらァ、御晴写が何か知ってか知らでか、なんぞ悪用しようとしとる輩がおるんかもな」
恐ろしい話だ。
けれど、もしかしたら本当に恐ろしいのは、想像するだにおぞましいことを、天気の話でもするような口振りで話す八千斑のほうなのかもしれない。
「……はー、やめやめ。辛気臭さ。よお食って寝て、忘れてまい。怖かったやろ」
しかし、それでも。ここまでいっても。
「……お前には、そう見えるのか」
「ん?」
「俺が、怖がってるように」
外すタイミングを逃した眼鏡の奥。
黒い瞳を、ますます黒々と染める闇がある。
ぽっかりと空いた、虚ろの穴。
塞がることのない傷口。
体現された絶望。
そう喩えるしかない黒を、八千斑は真顔で見据えた。
そして、唇を開いたが、
「――お待たせして大変申し訳ございません! ご注文はお決まりでしょうか!」
ほとんど駆け込む勢いでやって来た店員に遮られた。
年老いた男で、エプロンの胸元、意味不明なまでにデコレーションされた名札に『死ぬ気で接客します! 店長のゆかりん☆です!』とある。
ぎょっとするほど痩せているせいか、テーブルに水の入ったコップを置く手が若干震えており、顔色がよろしくない。
「……仁道ちゃん、適当に注文してええで」
心労を感じさせる風貌を、八千斑は何故だか軽蔑の目で見て、メニューに視線を向けて示す。
「じゃあ、豪商ラーメンの麺大盛り、チャーシュー追加で」
「はい。他のトッピングの追加はよろしいですか?」
「結構です。それから炒飯と」
「炒飯は通常サイズでよろしいでしょうか? セットメニューもございますが」
「通常サイズで。それと餃子と春巻きを二人前に、油淋鶏と酢豚を一人前。あとは烏龍茶を大ジョッキで」
淀みない注文のその辺りで、無言で見守る八千斑の脳内が「適当にって言うたから気ィ遣わせたかな」から「分けるにしちゃなんか変やな」に変わり、
「お前は?」
それが『お前は他に何か頼みたいものがあるか』ではなく『お前は何を頼むんだ』であると気付いて、クエスチョンマークで埋まる。
「……天津麺で」
「かしこまりました。少々お待ちください!」
忙しくてそれどころではないのだろう店長が、リアクションせず去っていったこと。
仁道が受け狙いでも恥じらうでもなく平然としていること。
先ほどまでのシリアスな雰囲気と落差がありすぎること。
じわじわと込み上がってくる感情に、八千斑の口角がひくりと攣る。
肩が小さく震え始めた。
「……じ、仁道ちゃん……その、普段からそんな食べるん……?」
「なんだ。さっきも言ったが、奢られる気はないぞ」
「それは……分かっとるけど。あれか、動いたから腹減った感じ……?」
「いや。これでも、今日は食欲が無いんだが」
「……ぶっ」
とうとう、彼の笑いの壺は、押さえられるのを通り越して貫通した。
「っふ、ふふ、こっ、これで無けりゃ、本調子はどないな、っ、ひ、ひひ、なァっ、なに、なに悩んどるんか、し、知らんっ、けどォ……しょ、食費のほう、し、心配せえや……!」
驚く仁道を置き去りに、八千斑は腹を抱えて笑い転げる。
幸いなことに、八千斑の爆笑は、学生たちの馬鹿騒ぎと幼児の泣き声に掻き消されて誰にも聞こえていないようだ。
近くの席にいる女子高生の三人組は、彼の、整いすぎた顔のほうに気を取られている。
頬を赤らめ、目を輝かせて、どっちがタイプだ何だとひそひそと囁き合うのがかすかに聞こえてきたが、話に参加していない一人は、何故か顔を真っ青にして、吐き気を堪えるような顔をしていた。
八千斑はテーブルに突っ伏し、陸に打ち上げられた魚さながらに痙攣しながら何度か激しく咳き込み、数分経ってようやく笑いが治まったのか、アームカバーで涙を拭いながら顔を上げた。
「ごほっ……あー、おもろ……仁道ちゃんなァ、うちで働く気ィ無い?」
脈絡が無さ過ぎる誘いに、仁道は目を丸くする。
今日は驚いてばかりである。
「ど、どうした。急に」
「強うて賢ォておもろい、こんな三拍子揃った人材なかなか出会えんわ。それに事情はよお分からんけど、なんも怖ないんやったらうちの求人とぴったりやん」
『恐れ知らずの方をお待ちしております』。
事務所で見せられた広告の文言を思い出し、仁道は真顔に戻った。
八千斑は人間離れした金の瞳を涙で輝かせて、返答を待っている。
その瞳を見据えた仁道の胸の内に、降って湧くものがあった。
――俺は、こいつの前でなら、人間でいられるかもしれない。
「……分かった。そこまで言うなら」
「ほんま? ンじゃあ、詳しい話どないする? 明日?」
「退職後の手続きが色々とあるから、明後日でもいいか」
「一日だけでええん? やっぱり無しで! とかは言わへんで」
話し合う二人のもとに、配膳ロボットが料理を運んでくる。
盆の隅に支払い用の伝票とともに、男女両方の字でずらりと名前と電話番号が箇条書きされたメモが隠されていたが、相変わらず忙殺されている店長の小走りの風圧で舞い上がり、厨房に帰ってゆくロボットの車輪に踏まれ、空調の風でソファの下に飛ばされ、二人に気付かれることはなかった。
「そしたら、これからよろしゅうな、仁道ちゃん」
八千斑が水のコップで乾杯の形を取ろうとするのを烏龍茶のジョッキで受けて、仁道は今日初めて、眉間の皺をほどいた。




