零 かつて夏の街にて
雑多な街であった。
大通りは息が詰まるような活気に満ち溢れて、忙しなく行き交う人々の表情は満足げでありながらも、どこか虚ろにも見える。
安定を選べば不自由になり、自由を選べば不安定になる――危うい天秤の皿を必死に並行に保とうとする、その苦悩が透けているのだろうか。
その陽気な不自由をビルやら何やらで隔てた裏側で、陰気な自由を謳歌している者がいる。者どもがいる。
陰気な自由というのはつまり、真っ当な人間があくせくと汗水垂らして働いている時間にキャンバスに一銭にもならない線を引いているとか、たった数人の客のために帳簿を赤字で埋めつつ料理の仕込みをしているとか、そういうものだ。
大正元年。
めまぐるしい進化と発展により、ありとあらゆるものが変貌を遂げ、誰もが時代の波に流されぬよう必死に藻掻くなか、まともに表通りを生きられない、あるいは生きる気のない人間が流れ着く最果てが、この路地裏であった。
時刻は正午ちょうど。
青い絵の具を流したような晴天の下を、まともでない人間の一人が歩いていた。
若い男である。
こんな時間に外を出歩いているのだから成人であろうが、小柄で貧相な体躯と、目のくりくりとした童顔であるせいで、十代の少年にも見える。
恐らくは生来の巻き毛のうえに手入れもしていないのだろう、鳥の巣のようにもじゃもじゃとした蓬髪に、鰹節でもまぶしたように木屑が散っている。
右脚を重たげに引き摺っており、遊環の通されていない錫杖の先が地面を抉って、奇妙な足跡を残していた。
そこかしこから食欲をそそる香りが漂ってくるなか、彼は迷わず『あやめぐさ』と暖簾が出された店の前に立った。
髪から木屑を丹念に払い、何度か深呼吸し、決意に満ちた表情で扉を開く。
「――あら、いらっしゃい! 一昨日ぶりじゃないの、月彦さん」
カウンターを水拭きしていた若い女給が、思わず目を細めてしまいそうになるほどに明るい笑みを満面に咲かせた。
晴れやかな笑顔には、幼児がクレヨンを握り締めて描き殴ったような真っ赤な痣が縦横無尽に走っており、布巾を持つ手も、襷掛けで露になった腕も、衿から覗く首筋も、痣と肌とで紅白のまだらになっているが、そう生まれついた悲壮感というものをまるで感じさせない。
むしろ、その痣の赤と、美しく結い上げられた島田髷と無地の紬の黒が、肌にわずかに残った白を際立たせて、痣さえ無ければ絶世だ傾国だと軽薄な男たちが店に詰めかけそうな顔立ちもあって、唯一無二の魅力を生み出している。
月彦と呼ばれた男は照れ臭そうに微笑み、勝手知ったる馴染みの店とばかりに、扉に程近い窓際の席に着いた。
店内には、二人の他には誰もいない。
「う、うん。夢中になっちゃってね」
「だめよ、ちゃんと食べなきゃ。今日は何にする?」
「そうだなあ。一昨日は魚だったから、肉にしようかな」
「だったらちょうどいいわ。モツ煮、今日から一日中出すことになったの。あいつが通ってるからって評判になったみたいで……あたしとしては複雑だけど」
「それは……」
「あら、ごめんなさい。愚痴っちゃった。それで、モツ煮でいい?」
「あ、ああ、うん。モツ煮と銀シャリに、大根のお新香。ぜんぶ大盛りで」
「はぁい。……うふふ、月彦さんたら、相変わらずよく食べるわねえ。どこに入ってるのかしら。でも、あたし、いっぱい食べるひと、好きよ」
女給が厨房に続く珠暖簾をくぐるのを月彦は笑顔で見送ったが、彼女の姿が完全に見えなくなった瞬間、テーブルに突っ伏した。
ほのかに赤らんだ顔を伏せたまま懐を探り、そこにあるものを指先で確かめると、蓬髪を更にぐしゃぐしゃと手で掻き乱して、
「……いつまで待たせるつもりだ」
足音も気配も無く掛けられた声に、弾かれたように顔を上げる。
白髪を後頭部で一本に束ねた和装の老人が、ぎろぎろとした目で彼を見ていた。
皺だらけの顔と痩躯は確かに老人らしいが、立ち姿のどこにも隙が無い。
「……い、いやあ、ごめんね、マスター。やっぱりいっとう愛するものは彫りづらくて。軍荼利明王なんかまだ蛇しかできてない。それに、金剛夜叉明王と夜叉の側面を同時に表現してみようかと思ったんだけど、ヤーヌスみたいに両面にするか、宿儺みたいに双頭にするか迷ってて……」
「そちらではない」
動揺を誤魔化すように捲し立てたのをばっさりと切り捨てられ、言われずとも“そちら”ではないことに最初から気付いていた月彦は一気に耳まで赤く染めて、ふたたび頭を掻き毟った。
定食屋の店主には似つかわしくない肩書きで呼ばれた老人は馬鹿馬鹿しそうに舌打ちをしたが、その表情は愉快でたまらないというのを隠しきれていなかった。隠そうともしていなかった。
「昨日……ダニだかノミだか、とにかく、あのいけ好かん御曹司が、柘榴石の指輪を置いていった。『海の向こうでも君の美しい肌を思い出したくて、お揃いにしたんだよ』と、くだらぬことをほざいてな……おまえが男を見せんばかりに、いつか妥協されても知らんぞ」
「でも……僕はこの通りのかたわものだし、まだまだ無名だし、お金もないし、見た目だってぱっとしないし……」
「不具と言うなら、彼奴もそうだ。だが、おまえは気にしたか? 彼奴は気にするのか? 気にしたのか、一度でも?」
――お前は、その程度のものか。
何もかもを見透かすような、正しく獣じみた瞳に睨まれ、月彦は息を呑む。
女給が上機嫌に、料理の載った盆を手にやって来なければ、本能的にこの場から逃げ出していたかもしれない。
湯気の立つ皿を机に並べ、常連客の深刻そうな顔色を不思議そうに見る彼女に、マスターはふんと鼻を鳴らした。
「座ってやれ。おまえに話があるそうだ」
「あたしに?」
「ああ。この世のどんなことよりも、大事な話だ……」
にやりと悪い笑みを浮かべて厨房の奥へ引っ込んでいくマスターの背中と、女給の――この世の誰よりも愛おしく想う女の顔を交互に見て、月彦は観念したように溜息をついて、彼女の瞳をまっすぐに見据えた。
懐を探り、そこにあるものを、指先で確かめる。
ビロード張りの小さな箱を。
深呼吸し、その中にあるものを、脳裏で思い描く。
ああでもないこうでもないと悩みながら、何日もかけて彫り上げた指輪を。
「そうだよ。とっても大事な話なんだ、おはるちゃん――」




