六 夏鳥 紫雲を飛ぶ
「な、夏萌……帰ってきてくれたんだな……ごめんな、お父さんのせいで……戻ってきたくなんか、なかったろうに……ごめんなあ……」
先ほどまでの暴走が嘘のように、南羽柊は、完全に正気付いていた。
娘と同じ読み仮名と、同じ医者という未来と、同じ雰囲気を持った夏芽のことを自分の娘だと思い込んでこそいたが、表情には憎悪も飢餓もなく、喜びと悲しみが入り混じった痛々しい笑顔が浮かんでいる。
「ごめんな……お父さんが馬鹿だったんだ。母さんみたいに若くて綺麗な人が、こんな年寄りを本気で愛してくれるはずなかったのに……そのせいで、何の罪もないお前が、明るい未来を生きるはずだったお前が、学校に行けなくなって、誰にも助けてもらえなくて……おまえが出て行くのも、当たり前だ……」
“夏萌”が首を吊ったのは、寝たきりの彼は行けない二階の子供部屋だった。ならば、知らなかったのかもしれない。知れなかったのかもしれない。
娘が突然いなくなったのは、介護に疲れ果てて家を出ていったからだと、死後もなお霞がかった頭で、思い込んでいたのかもしれない。
「――そ、そうだよ、お父さん……私、辛かったよ!」
気付けば、夏芽は叫んでいた。
柊の前に跪き、演技をしようとも思わず、まるで目の前にいるのが本当に自分の父親であるかのように、溢れる涙をそのままに、叫んでいた。
「疲れたし、不安だったし、苦しかった! で、でも、嫌じゃなかったよ。お父さんだもん……私の、お父さんだもん……!」
実の父親が間違えるほどに夏芽と夏萌が似ているのであれば、この吐露もきっと、夏萌が思っていたことに等しいのだろう。
確かにあの日記帳の中身にも、誰かを責める言葉は見当たらなかった。
母親に対しては、自分たちを捨てたことへの純粋な悲しみ。
父親に対しては、ちゃんとした介護をしてやれない心苦しさ。
親戚に対しては、母親の非礼を謝りに行けない申し訳無さ。
“ふゆちゃん”への劣等感に対しても「こんなふうに考えてしまう自分がいやだ」という嘆きが続いていた。
「ごめんな、夏萌……でも、なれたんだな、医者に……おまえの夢、小さい頃からずっと話してた……みんな助けるんだって、言ってたもんな……」
「うん……私、なれたんだよ、お医者さんに。お父さんが応援してくれたから」
八千斑は柊から抜いた剣を手に、二人を見守っている。
その横顔から、先ほどまでの冷酷とも言える覚悟が消えていた。
憐憫も怒りも自嘲も無念もなく、ただ、慈愛があった。
「……夏萌……お父さん、安心したら、腹が減ったよ……」
夏芽はぎくりとして、柊の腹部に向きかけた視線を逸らした。
「お父さんな、おまえがいなくなってから、ずっと寝てたんだ……そうしたら、ある日、誰かがご飯を用意してくれるようになって……食べれば食べるほど、力が湧いてきて……でも、食べても食べても、腹が減って……」
死後も未だ夢現を漂っている柊は、変貌の自覚が無いようだ。
悟らせれば確実に悪い結果を招くだろう。
答えを探しあぐねて戸惑う夏芽の横から、仁道は手を伸ばした。
事務所で出されたお茶請けの饅頭――食べる気分ではなく放置していたのを、八千斑に「あとで食べな」とポケットに詰められたものだ――を、差し出すために。
「あっ……えっと……」
しかし、食べるものがあっても、本当の意味では食べられない。
そう訴える夏芽の視線に応えるように、仁道は柊の身体を抱き上げた。
掴めた。殴れた。蹴れた。貫けた。
それならば、どこにでも触れられるはずだ。
その中身にも。
「……お、お父さん、はい」
口に運ばれた、小さく割った饅頭を、柊はゆっくりと味わう。
飲み込まれたそれは、上半身の断面から、こぼれなかった。
仁道が、その大きな掌で、断たれた内臓を塞いでいたからである。
こんな状況であっても、常人であれば触れる発想すら出ないだろう。
だが、自分はそう思わない。そう感じない。
仁道は、それが刑事としての長年の経験から来るものではないと思い知っていて、内心で自分自身をせせら笑った。
「……ああ……すごいな、夏萌……さすが、僕の娘……僕の……自慢の……」
満ち足りた笑みを浮かべる柊に、八千斑が静かに近付く。
その手にはまだ剣があったが、見た目も持ち方も変わっていないというのに、八千斑が何をするのか分からずとも、仁道も夏芽も、胸の奥底から、焦燥ではなく安堵が込み上げてくるのを感じた。
「夏芽さん、ようやった。これで、人間として送ってやれる」
柊の瞳が、夏芽を見つめ、仁道を見上げ、八千斑を見るでもなく見た。
そこには、穏やかな幸福感だけがある。
八千斑の唇に、かすかに笑みが浮かぶ。
その顔立ちの美しさも相俟って、菩薩を連想させる微笑だった。
「――裁きに非ず、赦しに非ず、救いに非ず」
八千斑が翳した右手に、剣は無かった。
代わりに、両端に五本の爪が付いた、漆黒の、棒状の何かが握られていた。
仁道はそこでやっと、先ほどの鈴と、剣について思い当たった。
色こそ違うが、修学旅行で初めて見た仏像が、いくつもの手で握っていたものだ。
煩悩や悪鬼羅刹を打ち砕く、金剛鈴、利剣、そして――金剛杵。
「我は唯、喰らい、断ち、貫き、灼く者なり。故に我、力に非ず、仰に非ず、誉に非ず。汝は唯、善ならば昇り、悪ならば落ちるのみ――」
金剛杵が額に触れるか触れないかというところで、柊の全身の輪郭がやわく砕けた。
焼けたものがそのままの形で灰となって、崩れてゆくように。
やがて跡形もなくその姿が消えてしまうと、途端に、辺りの空気が一変した。
涼しい夜風が頬を撫でる。
草の合間で虫が鳴いている。
どこかから家族の談笑が聞こえてくる。
掃き出し窓は壊れておらず、門扉に影は無く、貼られた札も消え失せていた。
点々と落ちたドライフードの残骸だけが、全ては現実だったと物語っている。
地面に膝をついたままの夏芽が、呆然と八千斑の顔を見上げた。
「……お、終わったん、ですよね?」
「せやなァ。鍋島さんと仁道ちゃんの手柄や、お疲れさん」
「よ、よ、よかったぁ……!」
安堵に腰を抜かした夏芽が両手で顔を覆い、メイクが溶け崩れて現代アートの有様になった顔に気付いて素っ頓狂な声を上げる。
とりあえずハンカチを貸そうとしている仁道の脇をすり抜けて、八千斑は家の中に入っていき、しばらくして、猿の像を手に戻ってきた。
「どうしたんだ」
「いや……偶然やと思たんやけどなァ……」
猿の首が捻じ切られる。
ひっくり返して何度か振ると、八千斑の手の上に、ころりと何かが落ちてきた。
「……やっぱりな。どうなっとるんや……」
それは、本物かと見紛うほどの、精巧な木彫りの指だった。




