終 藁の蟇
洞穴の如き口から放たれた白い炎が、銜えた観光バスごと繭を焼いた。
闇が照らされ、周囲が真昼と同じぐらいに明るくなる。
肉の焦げる臭いが辺りに漂い、聞くに堪えない絶叫とともにひび割れから次々と飛び出した異形の腕やら脚やらが、苦痛に悶えて空を掻く。
不思議なことに、凄まじい勢いで吐き出された炎は仁道たちの立っているところまで届いていたにも拘わらず、彼らの髪の毛一本すら焼くことはなかった。
熱いどころか、春の朝、陽が射すベッドにのんびりと寝転んでいるかのような心安らぐ暖かさが、雨で冷え切った身体をくるんでいた。
とはいえ阿鼻叫喚の光景であるというのに、誰も、何も言わなかった。
瞬きも呼吸も忘れて、ただ見上げていた。
魅入られていた、と言い換えてもいい。
恐怖は感じなかった。
これはひとを傷付けるものではないと、誰もが本能的に理解していた。
むしろ救うものであると、誰もが理性的に確信していた。
「……なんや、調子狂うなァ。悲鳴のひとつぐらい、覚悟しとったんやけど……」
フレームだけを残して焼け焦げた観光バスをそっと地面に置いて、鰐のような何か――八千斑は、またも苦笑した。
落ち着かなさそうに赤い舌を出し入れしている彼の前脚の一本に、バイドゥーリヤが歩いていって、軽く頭突きをする。
そして穏やかな鳴き声を掛けられた八千斑は、金の瞳を眩しそうに細めた。
「……せやなァ。みィんな、ええ子やもんなァ。この程度で、怖がらへんわな」
いつの間にか、雨は止んでいた。
分厚い雨雲がわずかに晴れて、隙間から月が顔を出している。
八千斑は降り注ぐ月光に何度か瞬きをして、表情の無い爬虫類の顔に、確かにやわらかな笑みを浮かべたようだった。
「そしたら、さっさと終わらせて、さっさと帰ろか。今日だけで色々ありすぎて、全員、話したいこと山ほどあるやろし」
のんびりと言って、未だ燃え盛る繭を、前脚で踏んで押さえる。
炎を上げるそれから突き出た無数の手足は既に動きを止めており、ひときわ大きな裂け目から、何とも形容し難いものに変わり果てた、蟇住であろう人型が苦しげに地面を掻き毟っている。
彼は焼け爛れた喉から血を吐きながら、自身を見下ろす五人と一頭を、憎悪に満ちた目で睨み付ける。
「……は、はは……ご、んな……バグ技、みでぇな、やりがだ……ぐぞ、野郎、が……ぞ、ぞな、ぞんな、に、ボクが、ごわがっ、たの、がよ……」
確かに、怪獣映画めいた決戦でも始まるかと思いきや、この有様である。
蟇住が本気を出す前に慌てて手を出したと言われても違和感は無い。
勝ち誇ったように引き攣った笑い声を上げる蟇住を、八千斑は鼻で笑った。
「アホか。そんなわけあるかい。演者気取りも大概にせえよ」
「……だ、だっだら、なん、で……」
「おれが心配したんは、お前やのうて、お前が道連れにした人らや。無理やり操られてようが、望んで従ってようが、はよ終わらせたらんと、いらん罪がどんどん増えてくからな……お前なんぞ怖ないし、興味も無いわ」
「で、でも……ぞれなら、ざいじょ、がら、ごうずれば……」
「そこんとこはおれの我儘や。地獄の罪人とちゃんと話そと思たら、めっちゃくちゃ複雑な手続きと、とんでもない待ち時間が要るんやよなァ。ここで少しは知っとかんと、仁道ちゃんの悩みが長引くやろ」
冷たく突き放されて初めて、蟇住の、美作可憐の面影などもはやどこにも見当たらない顔に、絶望が色濃く浮かんだ。
結局、こうまでしても、彼は主役になれなかったのだ。
そして追い打ちをかけるように、八千斑は絶対零度の声色を重ねた。
「最後に、一個だけ聞かせてもらいたいんやけど。……お前、ほんまは誰なん?」
「え……ボ、ボク、は、蟇住……」
「本人と会ったって言うたやろ。蟇住明綺羅は確かに死んどるで」
「ボ……ボグは……ボク、ばぁ……」
熱で白濁した瞳が彷徨い、歯の根が合わないほどがちがちと震え出す。
本当に心当たりが無さそうな様子に、八千斑はちいさく舌打ちをした。
十中八九、猿聟の仕業だろう。
利用するためだけの関係だとしても、あの男が他人を信用するとは思えない。
自分の掌の上で踊る蟇住の醜態を愉しんでいたに違いない。
「……まあ、ええわ。何にせよ、お前にも魂はある。全員分の裁きが終わってから、腰据えて聞かせてもらうわ……仁道ちゃん、何か言いたいことある?」
唐突に水を向けられて、仁道は正直なところ、言葉に困ってしまった。
全ての切っ掛けとなった蟇住明綺羅はとっくの昔に死んでいる。
誹謗中傷をばら撒いた美作可憐は、本人ではなかった。
美作可憐に成り代わった自称・蟇住明綺羅は、もうすぐ裁きを受ける。
誰に怒ればいいのか、分からなくなっていたのである。
いや、そもそも――今の仁道の胸中に、怒りは無かった。
自分は誰も傷付けていなかったのだという底無しの安堵だけだった。
やろうと思えば罵詈雑言を引き出すことはできるが、したくもない。
それは、今まで自分を信じてくれていた八千斑たちへの侮辱に思えた。
だから、言いたいことといえば、
「……いや。特に無い」
それだけであった。
「……ぶっ、ぶざ、げるなぁ! ボ、ボグ、が、憎いだろッ、じぶん、で、ごろじだい、だろおッ! いいごぶんなッ、ばげもの、の、ぐぜにぃっ!!」
仁道がここで「死んでも許さない」とでも言えば、蟇住明綺羅は少なくとも一人の心には永遠に残れただろうが、そうはならなかった。
とことんまで主役になる機会を奪われた蟇住は火傷の痛みも相俟って、半狂乱で両腕を振り回したが、子供の癇癪にしか見えない。
「……どれだげ、誰かを、だずげだって……おまえ、ば、ばげもの、で、おまえは、女ひどり、ずぐえ、ながっだんだ……ひ、ひひ……せいぜい、自己満足じでろ……ぼ、抱擁、の、ぬぐもりも、じれない、人間もどぎが……!」
当然、そんな捨て台詞では誰も傷付かない。
仁道も、朔哉も、冬似も、よすがも、バイドゥーリヤも、八千斑も。
彼を見下ろす双眸にあるのは、どうしようもないものに対する憐憫のみだ。
「っぞ、んな、めで、みるな、ボグ、をぉ、あわれ、むなぁ! ぢ、ぐじょ、ぢぐじょぉぉ! おぞれろ、ごわがれ、ボクを、みどめ、で……」
八千斑が、大きく息を吸った。
喉の奥で火花がはじけ、白い炎が瀑布のように溢れ出す。
繭が萎んでゆくにつれ、中から半透明の影がいくつもいくつも抜け出して、夜空へと昇り、あるいは地面へと潜る。
老若男女様々な声で、感謝や謝罪の言葉がひそひそと聞こえてきた。
先ほどまで喚いていたはずの蟇住は悲鳴すら上げず、静かに焼かれていく。
その、炭化しかけた身体が――唐突に、風船のように膨れ上がった。
黒ずんだ皮膚がめりめりと裂け、剥き出しになった肉から骨が突き出す。
「! 仕込み呪詛か! よすが! 避――」
八千斑の叫びも虚しく、全員の目の前で、蟇住の肉体が爆散した。
噴き出したのは血ではなく、どす黒い煙であった。
黒煙はあっと言う間に一同を包み、仁道は咄嗟に袖で顔を覆ったが、意思を持っているかのように隙間から滑り込み、呆気なく吸い込んでしまった。
数珠を巻いたままの右手で、口を押さえる。
腹の中に痛みとも不快感ともつかない、今まで経験したことのない異様な感覚が渦巻いているのが分かった。
「……! ……、……!」
遠ざかる意識の中で、誰かが、何か言っていた。
だが、知っている声ではない。
聞き覚えすらない。
「……、……?」
ふと、何の前触れも無しに、腹の中の嵐が止んだ。
痛みも不快感も無く、意識もはっきりしている。
右手だけが、焼けるように熱い。
「……! ……!」
ゆっくりと、瞼を開けてみる。
途端に太陽の光が目を焼いて、仁道は弾かれたように手を翳した。
その手に巻かれた数珠から、黒い珠が一つ消え失せていたが、それよりも彼を驚かせたのは、目の前に広がる、見覚えすらない街並みだった。
裏路地のようで、遠くから表通りの喧噪が聞こえてくる。
その、外側からは見えない位置の物陰で、着物姿の少年が、二人して、手に持った棒で何かを激しく叩いていた。
仁道は彼らに声を掛けようとしたが、
「……おう、おう……なんぞ、喧しいと思えば……くだらぬことを」
背後からした声に振り返るなり、白髪の老人が自分の身体を幽霊のようにすり抜け、少年らのほうへ歩み寄っていったことに絶句して、固まってしまった。
老人も、彼の声に振り向いた少年らも、かなり目立つ容姿であるはずの仁道を意に介さない。どうやら、そもそも姿が見えていないようだ。
「うるせえや、くそじじい! おいらたち、化け物退治してんだ!」
「とっとと失せな! 気触れに悪戯されたって、お父様に言いつけてやるぞ!」
いっぱしの口を利く二人に、老人は顔を顰めた。
そして、彼らが叩いていたものにちらりと目をやって、
「……ぬしらのほうが、よほど、化け物ではないか……」
悪い笑みを浮かべて、ぽん、ぽん、と両手を軽く打った。
すると、訝しげに老人を睨んでいた少年が、にわかに悲鳴を上げた。
お互いの顔を指差して、ひどく泡を食う。
「か、かずちゃん! なんだい、その顔!」
「ゆうちゃんこそ……ひいっ! 痒い! 痒いよお!」
少年の顔は、見る影もなく吹き出物にまみれていた。
顔中を掻き毟り、泣きながら逃げてゆく二人を見送り、老人は物陰を覗き込む。
そこには、ほとんど襤褸切れのような、辛うじて着物の形を留めている布を身に纏った子供が、頭を両手で庇って蹲っていた。
さんざん打たれた両手からは、血が滲んでいる。
「……どうした、おまえ。はぐれたか、捨てられたか?」
同情の欠片も遠慮も無い老人の物言いに却って安心したのか、子供は顔を上げて、顎の下まで垂れた鼻血を手の甲でぐいぐいと拭った。
気付かれぬのを幸いと二人の傍まで近付いていた仁道は、そうして初めてその顔をはっきりと見て、息を呑んだ。
赤い、赤い痣が、縦横無尽にあどけない顔を塗り潰している。
そう気付けば、着物に隠されていない部分にも同じ痣が見えた。
「……違うわ。捨てたのよ、おっとうもおっかあも、生まれた村も、ぜんぶ」
「ほう……なぜだ?」
「どいつもこいつも、さっきの糞餓鬼みたいに、馬鹿馬鹿しいことを言ったから」
子供は、着物についた砂埃を手で払いながら立ち上がった。
背筋がしゃんと伸びた、悲壮感を感じさせない姿に老人は感心する。
強く、気高く、美しい魂が、その小さな身体に宿っているのが分かった。
「ふむ……女童よ、名を聞かせよ」
「あら、どうして?」
「名が無ければ、拾えぬからだ」
「……怖くないの? この痣が」
「ふん。誰でも、皮を剥げば中身は同じだ……」
思いがけない言葉に子供は目を丸くしたが、すぐに笑顔を浮かべた。
眩しい、太陽の光にも負けない笑みだった。
「あたし、おはるって言うの!」




