九 虎にもなれぬ
今日だけで何度、驚けばいいのだろうか。
そんなふうに考えるのも、もはや何度目だろうか。
仁道は一瞬、可憐への怒りやら何やらすらも吹き飛んでいきそうな混乱に支配されそうになったが、袖から突き出た翼足でぺちんと頭を叩かれて我に返った。
背中を撫でてくれた手と同じ感触だ。
嘘でも冗談でも、幻覚でも何でもない。
「よすが……なのか? その姿は……」
「なんとなく分かんだろ。オレも御晴写の……おっと!」
よすがが翼足を軽く二度打ち、そして高らかに一度打つと、油断も隙も無く忍び寄ってきていた霧が、瞬間的に勢いを増した雨に掻き消されていった。
拍掌――魔を除き、諸仏を歓喜せしめる、密教儀礼の作法である。
霧が晴れたことで、可憐の操る巨怪の全貌――カラフルな継ぎ接ぎだらけの熊のぬいぐるみの頭部から複数の人間の腕が生えた、ザトウムシの如き姿――が露になったが、よすがのインパクトが強すぎたあまりに、誰も怯まない。
バイドゥーリヤなど、まるで散歩帰りのようにのんびりと歩いてきた。
主導権を奪われた可憐が、ぎりぎりと奥歯を噛み締める。
よすがは無い鼻で、はん、と笑った。
「セコい真似すんなよ、クソガキ。さっきあんだけ騒いでたじゃねえか。殺すって決めたんなら殺せよ、どっちつかずは薄汚ねえ股ぐらだけにしな」
「……お前……お前、何なんだよ!」
「人に素性を尋ねるときゃあ、自分から名乗るのが礼儀ってもんだぜ……と、言いてえとこだが、もう、てめえとお喋りしてる時間はねえんだよなあ」
そのとき、銃弾を再装填していた朔哉の足元に、紙が落ちてきた。
広告が風雨に巻き上げられてもしたのかと思いきや、白紙である。
ふと、夜闇に染まりつつある曇天を仰いでみれば、白い紙が、蝶の群れのように飛んでくるのが見えた。
「お前がつまらねえことに拘らねえで、ここに来た時点で全員殺してりゃ、少しは苦しまねえで済んだろうにな。ま、ご愁傷様ってやつだ」
無数の紙が――霊符が、あちらこちらへ張り付いて、駐車場の四方を囲む鉄柱が、そのまま檻へと変わる。
可憐は焦ったようにスカートに手を伸ばしたが、
「うちの所長が、お前と話してえってよ」
飛来した矢にツインテールの片方を弾き飛ばされて、石像のように硬直した。
「――いやあ、えらい遅なってもうたわ。お役所仕事に長いこと待たされるんは、此岸も地獄もおんなじやなあ……みんな無事やな? ええこっちゃで」
のほほんとした、やわらかな声だった。
にこにことした、あたたかな目だった。
しかし、八千斑が黒い弓を構えたまま一歩踏み出すたびに、獣もどきと、恐怖どころか感情らしい感情も持っていなさそうな巨怪ですら、圧倒的な捕食者を前にしたかのように、じりじりと後退ってゆく。
「で、あんたが美作可憐?」
「……だ、だったら、何だよ……」
霧で満たした遊園地の敷地のほうから現れた八千斑に、可憐は呆然と応える。
その声は、少女のものである。
その顔は、美作可憐のものである。
だが、どこか違う。
口調の問題ではなく、八千斑が彼女に矢を放った瞬間から、強烈な違和感が泥のように纏わり付いたのを、仁道たちは一様に感じていた。
「……おれなァ、仁道ちゃんの話聞いてから、ずっと不思議に思っとったん。なんで仁道ちゃん、おれの顔がまともに見えるんかって」
脈絡も無く、穏やかに言いながら、八千斑は矢を番える。
「もし仁道ちゃんのせいで殺されたもんがおるんなら、本人が悪ないとしても、罪は罪や。もちろん地獄に落ちるほどの罪やないし、裁かれるはずもないけども、おれの顔にちっとも醜いとこが見えんっちゅうんは不自然なんやよな。せめて、顔に痣のひとつぐらいはできとってもええんやけど……」
そして、狙いを定めさえせず、矢を放つ。
もう片方のツインテールが弾け、機に乗じてこっそりとスカートの隠しポケットを探っていた可憐は、そこに片手を突っ込んだ体勢で再び硬直したが、内心ではほくそ笑んでいた。
ポケットには緊急用に、少量の血を入れた、さほど力を入れずとも破れるようなごく薄いパウチが収められているのだ。
「……怠惰な……」
勝利を確信した可憐はパウチに爪の先を当て、小さく唱えようとしたが、
「やから、地獄で聞いてみたんよ。蟇住明綺羅、本人に」
その舌と、手は、ぴたりと止まった。
止めてしまった。
止めるべきではなかったが、止まらざるを得なかったのだ。
「……は、はあ? 本人って……そんなわけ……」
見るからに顔色を変えた可憐へと向けられる、八千斑の金の眼差しが、強い怒りと、同じぐらいの憐れみに歪む。
「……言うとったで。生まれてからずうっと平凡で、脇役みたいな人生が嫌で、どんな形でもええから、みんなに特別やって思われたかった。やから、どう考えても普通やない猿面の男に誘われて、喜んで協力してもうたんやと」
蟇住明綺羅は、平凡な赤ん坊で、少年で、青年で、男だった。
両親の目立たない部分だけを受け継いだ、何の特徴もない顔。
どれだけ鍛えようが不摂生を重ねようが、中肉中背のままの身体。
勉強も、スポーツも、部活動も、常にちょうど中間の成績。
誰にも嫌われていなかったが、誰にも慕われていない。
誰の目にも留まらぬ鬱屈とした日々に心を蝕まれるうちに、蟇住は、百の善行よりも一の悪行のほうが人間の心に残るのだと結論付けた。
切り裂きジャックを筆頭に、今もなお恐れられ、語られ、愛されさえしている、有名な殺人鬼のようになりたいと願った。
――そう世間に語ったのは、誰かが異変に気付いて助けに来るまで時間を稼ぐべく、彼との対話を試みたという美作可憐である。
「承諾したら、御晴写をひとつ貰えた。もちろん、願うことといえば、平凡な自分からの脱却、それしかない。でも、自分自身を変えるんは怖かった。自分は自分のままで、違う人間になれへんもんか……そんで、思いついたわけや」
八千斑は弓を下ろした。
その弓が左手からふっと消えたかと思えば、右手に黒い金剛杵が現れる。
武器らしい武器ではなく、彼は今のところただ喋っているだけなのだから、逃走なり攻撃なり、絶好の機会であるはずだが、可憐は棒立ちのまま動かない。
彼女の顔は、厚化粧の上からでも分かるほど青褪めている。
八千斑は双眸の憐憫を深めて、可憐を見据えた。
「……願いを叶えたるんと引き換えに、肉体を借りたんやろ。そんで飽きたら自殺して、屍を晒して、自分の罪にして……その繰り返しの最後が、美作可憐やったってことやな?……そうやろ、蟇住明綺羅」
その場にいる誰もが、言葉を疑った。
八千斑にここで嘘をつく意味は無く、可憐を動揺させるためであっても、仁道の傷付いた心を更に傷付けかねない嘘は控えるだろう。
だが、考えるまでもなく、矛盾がある。
いま目の前にいる美作可憐と蟇住明綺羅がイコールの存在であれば、八千斑が蟇住明綺羅から話を聞いたというのはどういうことなのか。
その答えを唯一握っている者は、俯いたまま立ち尽くしている。
激しく雨の打ち付ける肩が、小刻みに震えていた。
やがて、ひっ、ひっ、と、かすかな息が仁道らの耳にも聞こえてきた。
泣いているかのような声。
だが、彼は泣いてはいなかった。
彼のようなものが、泣くはずはなかった。
「……ははっ。ふふっ、ふふふ、ふふ……ふ、ざけん、なァァァッッ!!!!」
蟇住明綺羅が、烈しく顔を上げた。
「ぐだぐだと莫迦げた与太話を聞かせやがって! 地獄? 本人? 肉体を借りる? ……巫山戯るな、ボクはボクだ! 蟇住明綺羅はボクだけだ! ボクはお前みたいな賤陋な畸形とは違う! ボクは、ボクこそが、真実無妄の怪物なんだ……!」
両手で頭を掻き毟り、蟇住は吼える。
まるで自分に言い聞かせているかのように。
彼が何故そんなふうに喚くのか、八千斑には分かっていた。
蟇住明綺羅は目立ちたかった。認められたかった。愛されたかった。
そのくせ、少しも行動はしなかった。できなかった。
何かに挑んで、挫折して、平凡ですら無くなるのが怖かった。
欲しいのは賞賛だけで、否定も拒絶もされたくなかった。
だから、思い込んだ。
この世界に馴染めないのは、自分が人間ではないからだと。
怪物が怪物として生きているだけで、自分に罪は無いのだと。
誰にも理解されないのも、誰も理解できないのも、当然だと。
そして、本当は、痛いほど理解してもいた。
それが詭弁であることを。
分かるからこそ、言えることは一つしかなかった。
「……可哀想なやっちゃな、お前」
ぽつりと呟かれた声は、雨に紛れることなく、蟇住の耳に届いた。
血走った瞳に、爛々と、おぞましい狂気が燃えている。
わなわなと震える唇が何度も開閉され、ようやく言葉を見つけた。
「――憤怒せし者よ、我らの敵を蹂躙せん!!!」
スカートの隠しポケットから、霧が噴き出した。
ショッキングピンクではなく、鮮血のような真紅の霧である。
禍々しい赤は仁道らを避け、獣もどきと巨怪、そして蟇住だけを包んでゆく。
それはゆっくりと空中に浮き上がり、巨大な繭の形を取った。
明らかに最終手段であろう。
だが、八千斑は狼狽えもしなかった。
諦めたように、溜息をつくだけだった。
「……なあ、仁道ちゃん、覚えとる? 一杭山で、おれ、言うたやろ。『人の形しとる化け物ならそのうち見せたる』とか何とか、そういうの」
もちろん、仁道は覚えていた。
一杭山で彼が言ってくれたことは、何一つ忘れていなかった。
――人の形しとる化け物も、化け物みたいな人も、そう珍しいもんでもないし、そのうち見せたるわ。
「まったく……ずいぶんと早い『そのうち』やったなァ」
八千斑は苦笑しながら、アームカバーを脱ぎ捨てた。
二本の黒が水溜まりに沈み、剥き出しの腕が露になる。
白い肌には、渦巻く業火のような、あるいは幼児がクレヨンを握り締めて描き殴ったような、真っ赤な痣が刻まれていた。
大きな深呼吸が、張り詰めた空気の中に響く。
「――裁きに能わず」
八千斑は静かに唱えて、金剛杵の爪を、自身の胸に当てた。
その鋭い先端がシャツの薄い生地を破り、そのまま深く沈み込む。
仁道らははっと息を漏らしたが、それだけしかできなかった。
迂闊に踏み込んではならないという空気が、確かに彼と彼らを隔てていた。
その中で、よすがとバイドゥーリヤは、声ひとつ上げず見守っている。
「赦しに能わず、救いに能わず――」
とうとう、爪の間から血が噴き出した。
シャツに白い糸で刺繍された沙羅双樹が真紅に染まる。
だが、金剛杵で肉を刺し貫く手の動きは止まらない。
半分ほどが胸に埋まって、八千斑はようやく手を離した。
歯を食い縛る表情には苦痛が見て取れるが、汗一滴、涙ひとすじ零れていない。
「……我が前に立つは、御仏の御手の導きたる一切衆生の輪より望みて外れ、身口意業、常に顛倒して、誤って無量不善の業を犯す者なり……」
繭の、どくどくと蠢く表面に、罅が入った。
そこから伸びてきたのは、蜘蛛の脚に似て毛むくじゃらで細長いが、先端から放射状に人間の指を生やした異形の腕である。
電柱ほどの太さをしたそれが観光バスを掴んで持ち上げたのと、朔哉が思わず駆け出そうとしたのは、ほぼ同時であった。
「然れども、我は喰らい、断ち、貫き、灼くを誇らず。裁くは地、赦すは現、救うは天……我は唯、五尊の御力に依りて、咎に等しき道をば示さん!」
そのとき、風が吹いた。
誰一人、目を開けていられないほどの暴風だった。
素肌という素肌を雨粒が弾丸のように打ち、地面に溜まった水が大時化の海面めいて波打って靴の中に入り込む。
呼吸すらままならず、一瞬にも永遠にも感じる時間が過ぎて、唐突に静まり返った気配にそろそろと瞼を開けた一同が目にしたのは、夜空を飛ぶ観光バスだった。
行く先には、先ほどの風で霧が晴らされたのだろう、闇ばかりが広がっている。
バスはそこに吸い込まれるように消え、微かな音も立てなかった。
八千斑の姿はどこにもない。
代わりに、凄まじい威圧感を放つ何かが、闇の向こうに鎮座している。
一同は固唾を呑み、もはや、割れゆく繭など眼中に無い。
ややあって、地面が揺れた。
一定のリズムで響き渡るそれは、足音だった。
何かが、闇の中から這い出してこようとしているのだ。
やがて、手よりも先に突き出てきたのは、鰐のそれに似た吻であった。
しかし続く顎には、鋸の刃を思わせる、鋭く細かな牙がびっしりと並んでいる。
その、牙を揃えた強靱な顎に、観光バスが横向きに銜えられていた。
吻から顎が露になれば、当然、次に出てくるのは胴だ。
黒い鱗に覆われているが、鰐のようにごつごつとした鱗板骨は無い。
分厚い手足がまた、異様だった。
前脚は五指、後脚は四指。太い爪が生えているところも、鰐と同じだ。
異様というのは、その数のことである。
前脚と後脚が、それぞれ六本、合わせて十二本あるのだ。
三対の手と足を持つ、漆黒の、鰐に似たもの。
ミニカーのように銜えているバスと比較すれば、その全貌がどれほど巨大かは想像に容易いだろう。
そして、その顔には、無数の虹彩を詰め込んだ、二つの瞳が――八千斑と同じ金色の瞳が、美しく輝いているのだった。




