八 獣面人心
ジープは霧に構わず、猛然と突き進んでゆく。
仁道は無人の運転席を呆然と見つめ、自身の隣に座る朔哉に視線を移した。
この車は確かに、自分が乗ってきたものである。
竈や井戸を日常的に使い、趣味とはいえ衣服や小物を手縫いし、携帯電話も持っていない八千斑が、車だけは最先端のものを選ぶとは到底思えない。
そもそも、これほど精密に動く自動運転車など聞いたことがなかった。
それに、言うまでもないことだが、朔哉とは今日、会ってすらいない。
「……どうなってるんだ?」
「それはこっちの台詞だが、話は後だ。これを見ろ」
朔哉は運転席のバックポケットからジッパーバッグを取り出す。
仏頂面だが、不機嫌なのではなく、緊張しているようだ。
仁道は雨に濡れた手を湿ったズボンで拭い、受け取った“これ”――手記に大きく描かれた、美作可憐そっくりの少女の似顔絵を見るなり、目を剥いた。
もはや今日だけで、驚きに関する語彙を使い果たす勢いである。
「これは……」
「信じ難いが、彼女は猿聟の協力者だったようだ。時期によっては、もしかすると、お前の誹謗中傷を始めたのも入れ知恵で――」
「それなんだが……『お願いされた』と言っていた」
「は? 誰がだ」
「……本人だ。今、俺たちを襲っているのは……美作可憐なんだ」
「はあ?!」
そのとき、唐突にブレーキがかかった。
シートベルトの存在が頭からすっぽ抜けていた二人は車内を転がったが、仕事柄、危険な運転に慣れていたこともあり、無傷で済んだ。
仁道は運転席へ身を乗り出し、朔哉は体ごと振り返り、前後の窓の外を見る。
ジープは、駐車場まで辿り着いていた。
まだ霧はここまで届いておらず、周囲の空気は薄暗く曇っている。
固く閉ざされたメインゲートと、そこに張り付くように停められている観光バスを、ヘッドライトが照らしていた。
バックドアガラスから外に目を凝らしていた朔哉は、それを破らんばかりに激突してきたものに驚いて、危うく座席から転がり落ちかけた。
「――ねー、あげでぇ、あげでよおー、あそぼ、あぞぼぉー」
飛び跳ねながらガラスを引っ掻く犬もどきは、少女の声をしている。
頭頂部の耳にはピアスが光っており、虚ろな瞳を縁取る睫毛は長い。
肉体は極限まで歪められているが、レースのついたピンク色のブラジャーとショーツで隠すべき箇所は隠されている。
陵辱を引き立たせるおぞましい悪意に、朔哉は思わず嘔吐く。
「ごほうびい、ぼじいぼしいぃ、ごぼーびぃー」
「おかーさーん、おかーさーん、おああざぁぁぁぁん」
「やだやだやだ、やだ、ちがう、やだ……」
「じにたぁい、じんでぇ、ごろじでよぉぉぉ」
鳳口や少女と似た、犬のようなもの。
鋭い爪と牙を光らせている、豹のようなもの。
皮膜めいた皮膚の翼を持つ、鳥のようなもの。
ぶくぶくと肥え太った、豚のようなもの。
獣もどきたちは口々に喚きながら、前後左右から車体を引っ掻いている。
完全に囲まれてしまったようだ。
仁道はフロントガラス越しに観光バスを見上げ、努めて冷静に思案する。
このサイズのバスとゲートをジープで破るのは、物理的に不可能だ。
奇跡が起きて破れたところで、破損は免れまい。
車が無ければ、獣の脚力からは逃げられないだろう。
可憐と、彼女が従えていた巨大な何かも追ってきているはずだ。
この状況で、他の出口を探している余裕は無い。
このままでは、逃げられない。
誰かが、囮にでもならない限りは。
大きく息を吐き、仁道は後部座席のドアハンドルに手を伸ばした。
朔哉が外に気を取られているうちに、出てゆくつもりだった。
だが、自己犠牲というものを、彼女が許すはずがなかった。
「なっ、こ、今度は何だ?!」
突然、ジープがエンジン音という雄叫びを上げた。
まるでレース中のフォーミュラカーのような、耳を劈く凄まじい重低音が響き渡り、怯えた獣もどきが慌てて距離を取る。
後部座席のドアが左右とも、ひとりでに開いた。
「下りろ」とでも言いたげに、クラクションが短く何度か鳴る。
辺りを警戒しながらも従った仁道と朔哉を、獣の群れが遠巻きに窺っている。
やがて、エンジン音は、汽笛めいた太い咆哮へと変わった。
ぼう、ぼう、と吼えるにつれ、噴き出す排気ガスが車体を包み始める。
白い煙に真紅の車体が覆い隠され、仁道と朔哉の姿も見えなくなった。
「……ううう、おごられ、るぅぅ……おじおぎぃ……いやだぁぁッ!!」
膠着状態に、警戒心より可憐への恐怖が勝ったらしい。
豹もどきが煙の中に飛び込んだが、すぐに壮絶な悲鳴を上げた。
煙から出てきた彼の身体は、宙に掲げられている。
胴体を貫く、太く長い三日月状の角によって。
そこから豹の巨体を振り落とし、バイドゥーリヤの脚が、地面を蹴った。
「おがあざっ、おがーざ、おがぁざああああ!」
「じねるぅ! あはっ、あははぁ、やっどぉ、じねるぅーッ!」
「ごろずっ、ごろず、ごほーびぃ、ごほーびいいいい!」
あるものは悲痛に逃げ惑い、あるものは無謀に襲い掛かり、どちらにせよバイドゥーリヤの頭突きを受けて、軽々と空中に放り出されてゆく。
彼女が普段、着けている赤い毛糸のカバーは無く、剥き出しの角の先は、地面に叩き付けられようとする異形の肢体を容赦なく串刺しにした。
予想外の展開を唖然と見守ってしまっていた朔哉に、大きく跳躍し、噛み付こうとした犬もどきの首を、仁道は数珠を巻いた右手で掴んだ。
「ころして……」
裂けた口から、ぽつりと短い懇願がこぼれる。
その瞳から落ちた涙が地面に着地する前に、仁道は手に、渾身の力を込めた。
細い首が、枯れ枝よりも容易く折れる。
彼らから血も臓物も出ないのは唯一の幸いであった。
歪みきった顔に浮かんだ安らかな微笑に、仁道は怒りを噛み締める。
「暮井! 一歩左へ!」
感傷に浸る暇も無かった。
朔哉の声に仁道はほとんど脊髄反射で応じ、左へ一歩踏み込む。
一発の銃声ののち、額に穴の開いた豚もどきが、仁道に飛び掛かった勢いを残して地面を滑っていった。
続けざまに、蹴爪を携えて飛来した鳥もどきを二人落とす。
朔哉は雨と手汗で滑りそうになるグリップを握り締め、鋭く息を吐いた。
スミス&ウェッソン社製、M360J――実銃ではなく、モデルガンですらない。
それを知らしめるように、薄っぺらいプラスチックのフレームは半透明の黒色で内部構造が透けて見えており、所持が発覚したときのカモフラージュなのだろう、側面に『個人預かり遺失物』というラベルシールが貼られている。
シリンダーに装填されているのは、以前、八千斑から贈られた弾丸だ。
そのせいか、バネ仕掛けでスポンジ製の弾をぽこんと放り出す平和な子供のオモチャが、銃声も反動も、そして威力も実銃と変わりないものになっている。
仲間を屠られた獣の本能か、文明の凶器に対する人間の本能か、その両方か。
獣もどきたちの、二人と一頭に向ける殺意は衰えつつあった。
「あははっ! 見ぃーっつけたぁ!」
しかし、感傷どころか、息をつく暇も無いらしい。
甲高い声に仁道と朔哉が振り返るより早く、バイドゥーリヤが駆ける。
可憐の移動に合わせて広がるのだろう、彼女の背後に濃くけぶるショッキングピンクの霧の中から伸びてきた、先ほど仁道らを捕らえた巨大な手の指の何本かが、バイドゥーリヤの角に抉られて千切れ飛んでいった。
怯んだように引っ込んでいく手を苛立った目で見上げ、可憐は顔に張り付く濡れ髪を鬱陶しそうに払いながら、地団駄を踏んだ。
「あーっ、もう、ムカつくっ! イッタい決めゼリフまで言ったんだからスパッと死んでってばあ! そんなふうに生きてて恥ずかしくないのお?!」
ヒステリックに絶叫する可憐の薄い背中に、
「てめえに言われたかねえよ、クソアマぁッ!!!」
どこからともなく現れた冬似のドロップキックが突き刺さった。
100kgを超す筋肉の塊が繰り出したそれは大型バイクとの衝突事故に等しく、可憐の不健康な痩躯は、アスファルトの経年劣化で雨水を海のように湛えた地面を、ボールのように転がってゆく。
慣れた様子で着地した冬似は、仁道が無事であることに安堵したのか、パフォーマーとしての癖なのか、びしりと力強いサムズアップを二人に見せた。
目立つ外傷は無いものの、白いパーカーの腹にまたもや血が滲んでいる。
仁道は慌てて、朔哉と共に彼に駆け寄った。
「黒川主さん! 傷が開いたのか?!」
「このぐらい屁でもねえよ。試合じゃもっとボコられることもあんだぜ」
「置いていってすまない。どうやってここに?」
「この状況なら仕方ねえって。ンなことより、すげえの……が……」
はたと何かに気付いたように仁道の背後に目をやった冬似の表情が、驚愕を通り越し、おぞましい怪物でも見るようなそれに変わる。
視線の先で、可憐が起き上がろうとしていた。
少女に暴力を振るうなどマスク・ド・ウィンタニアとしては言語道断だが、今の彼は黒川主冬似であり、相手は夏萌の仇であり、常人とは思えず、悪意を以て仁道たちを害そうとしているのだから、手加減などしたつもりは毛頭無い。
良くて骨折、悪くて内臓破裂。
しかし可憐はよろめきさえせず、しっかりと二本の足で立った。
ロリータファッションが泥水にまみれて、見る影も無い。
表情を隠す髪の隙間から、幻想的なユニコーンカラーには不釣り合いな害意を燃やした双眸が、三人を射殺さんばかりに睨んだ。
彼女は肩から提げた小さなポーチを探り、カッターナイフを取り出すと、止める間もなく、それで手首を掻き切る。
「怠惰なる者よ、我を崇めよォォォ!!」
鮮血が地面に落ちるなり、ショッキングピンクの泡が立ち、霧に変わった。
まるで消火器でも噴射するように瞬く間に周囲を覆い尽くしたその中から、ぞろぞろと、新たな獣の軍勢が蟻の大群じみて這い出してくる。
どれほど少なく見積もっても、三十人はいるだろう。
さながら、ゾンビ映画のワンシーンだ。
駐車場に溢れかえる彼らから可憐を守るべく、霧から伸びてきた巨大な手が彼女をそっと掴み、もう一つの掌に載せて、誰の手も届かない安全圏へと持ち上げる。
「もういい! お前ら、殺せ! 殺しちまえぇぇぇーッッ!!」
彼女の命令に躊躇するものはいなかった。
一人の犬もどきが駆け出したのを引き金に、群れが丸ごと仁道らに殺到する。
そして、雪崩めいた勢いをそのままに――地面に沈んだ。
「……え?」
愕然と間の抜けた声を上げたのは、可憐だけではなかった。
仁道も、朔哉もだ。
冬似だけが、興奮を隠しきれない面持ちで地面を見つめている。
白線が消えかけている以外には、何の変哲も無い駐車場のはずであった。
水捌けがあまりにも悪いせいで、雨水が溜まっていない部分を探すほうが難しかったが、それでも、平坦な地面が成人が沈む深さまで浸水するはずがない。
可憐に盲従する獣たちは、レミングのように前進し、続々と沈んでゆく。
そしてもう二度と、浮かび上がってはこなかった。
「な……なんだよ、なんなんだよッ! 怠惰なる者よ、我を崇め……!」
可憐が裂けた手首を虚空に掲げ、最後の一音を発音するかしないかという刹那。
彼女が立つ異形の掌の、ちょうど真下の地面で、大きな水泡がはじけた。
そこから空中に躍り上がったのは、海獣に似たシルエットを持つ何かである。
それは豪雨も重力も物ともせず、力強く何度か回転し、
「キャンキャンうるっせえんだよ、こんのドサンピンがァッ!!」
どこか聞き覚えのある怒声とともに、幅広の尾鰭で可憐の頬を打った。
可憐はバランスを崩し、頭から落ちていったが、死ぬ高さではない。
彼女が顔をしたたかに打ったすぐそばに、何かは静かに着水した。
「っ、ぐ、……くそっ、くそ、くそ、何なんだよ、くそ、くそっ!」
這い蹲り、呪詛と鼻血を垂れ流す可憐の、顔の下の地面が泡立つ。
ふたたび飛び出してきたものが、今度は顎を打ち抜いた。
舌を噛んだらしい彼女は、激痛に呻きながらも咄嗟に手を伸ばしたが、水とアスファルトの感触しかしなかった。
数だけで言えば可憐のほうがまだ遙かに優勢だが、比較的正気を残している最初の群れは怯えきっており、最新の群れは正気を失って獣らしさが強く出ているのか、姿を見せない敵対者を警戒して、ただ唸っている。
巨大な手も、可憐を守る素振りを見せていながら、今はぴくりとも動かない。
その力を以てすれば一方的な蹂躙も出来ただろうに、そうしないということは、獣もどきよりも細かい指示か、何か別の方法が必要なのだろう。
「畜生! 人を一方的に嬲って楽しいのかよ、卑怯者ッ! 出て来いッ!」
完全に自分を棚に上げて喚く可憐に応えるように、冬似の足元に広がる水溜まりから飛び上がったものがあった。
彼の肩に座る形で器用に着地したそれは、奇妙な生き物だった。
全長は成猫ほどで、弾力のありそうなゼリー状の半透明の頭部には目も鼻も耳も口も無く、頭から二本の角状の突起が生えている。
どう見ても、クリオネそのものである。
だが、その突起にはサイズも形状も様々なピアスが上から下まで開けられており、普通、内臓が透けて赤く見えるはずの顔から胸元にかけて、淡い緑色の光が妖しく揺らめいている。
しかも、五色の紫陽花が所狭しと刺繍された黒革のライダースジャケットの裾から伸びているのは、シャチのそれに似た白黒の下半身と平たく幅広の尾鰭だ。
その、クリオネの上半身にシャチの下半身を持つものは、無貌に透ける緑の燐光を瞬きのように明滅させて、
「ンだよ、どいつもこいつもアホ面晒しやがって。緊張感ってもんがねえのか?」
五月雨よすがの声で、笑った。




