七 人面獣心
風が吹き荒れている。
横殴りの雨にショッキングピンクの霧が散らされていき、逢魔時に相応しい、気の滅入るような薄暗さが辺りを包み込む。
素肌を打つ雨の冷たさが、仁道に、いま目の前に広がっている光景は現実のものなのだと、どうしようもなく思い知らせた。
「……あはっ。……はは、ははは……きゃはははは!! いい顔するねえ、おじさん! 想像してたより強かったからビックリしちゃったけどお、死にかけのゴキブリみたいになっちゃってえ、ほーんとミジメ!」
記憶の中にある、傷付いた少女の貌は最早どこにもない。
その表情は嗜虐心によって醜く歪み、瞳は万能感に爛々と輝いている。
豹変に豹変を重ねた彼女の有様に、さしもの仁道も冷静さを失いかけていた。
仁道は恐怖こそ感じないが、困惑や焦燥は人並みに感じるのである。
石畳に押し付けられ、水に浸食される傷の痛みに苦しむ冬似の呻き声が、辛うじて彼の精神を繋ぎ止めている。
「それじゃ、もっとミジメになってもらおっかな……ねえ、モタモタしないでよ! ダサいのは顔と性格とセンスと人生だけにしてよね!」
甲高い怒鳴り声に、首の無い男が、びくりと肩を震わせる。
彼は可憐を濡らさないよう傘の位置を固定しているせいもあってか、おどおどともたつく片手でポケットを探り、やっと一本の試験管を取り出した。
赤黒い液体が閉じ込められたそれを、可憐は手から毟り取るように奪い、仁道の顔すれすれの地面に叩き付ける。
「――我こそは七罪冠す聖女! 傲慢なる者よ、我を畏れよ!」
回り続けるメリーゴーランドを背景に、ロリータファッションの美少女が、馬鹿げた効果音が聞こえてきそうな完璧なポージングを決めながら、甘ったるい声で奇抜な呪文を唱える――無理やり実写化されたアニメ作品を無理やり観せられるような痛々しさだが、仁道たちに失笑できる心の余裕はない。
濡れた地面で雨水と一体化した液体から、極彩色の煙が立ち上る。
顔のすぐ近くでもうもうと膨らんだ気体をもろに吸い込んだ仁道は当然ながら咳き込んだが、しかしそれ以上、何かが変わることはなかった。
可憐はしばらく見守っていたが、やがて芝居がかった動きで小首を傾げた。
「あれれえ? なんで? 可憐チャン、失敗なんかしたことないのに。 おじさん、もしかして我慢してるの? だって、いっちばん怖いものが視えてるでしょ?」
実際に霧が出ているのだから、可憐の発言は妄想の産物ではない。
なるほど、来園者たちや冬似は、自身が抱え続けてきた恐怖と強制的に向き合わされた苦痛によって、あのような狂態を晒していたらしい。
一番怖いもの――恐怖を感じない仁道には、縁の無い話だ。
だが、だとすれば、辻褄が合わなかった。
可憐は、知っているはずだ。
知らないはずがない。
「……君なら……いや、君だからこそ、知っているはずじゃないのか?」
蟇住明綺羅の最期の言葉を、最後の被害者である可憐は聞いた。
暮井仁道が恐怖を感じないせいで、自分は平凡な人生を奪われた。
事情聴取でそう語ったのは、他でもない彼女自身である。
だというのに、可憐はラメ入りのグロスで光る唇を大袈裟に尖らせてみせる。
「えー、知らなぁい。可憐チャンが知るわけないじゃん!」
「っ、君は、恨んでいただろう、俺を! だからずっと、俺を責めて――」
「ええ~っ? 自意識過剰じゃなあい? でも、うう~ん、そこまで言われたら気になっちゃうなあ。えーっと、おじさん、クレイだっけ。クレイ、クレイ……」
可憐は顎に人差し指で触れ、うねうねと上半身だけをくねらせる。
『悩んでいます』というポーズなのだろうが、何から何まで不自然だ。
ややあって、彼女は自身の手の平を拳で大袈裟に叩いた。
「あっ、思い出した! 暮井仁道! いたなあ、そんなの。お金あげるから大騒ぎしてほしいってお願いされたやつだ。そーゆーの、多すぎて忘れちゃってた!」
刹那、仁道は呼吸を忘れた。
世界が無音になり、雨の感触も温度も消え失せた。
理解のできない言葉が、一瞬で脳を何十周も廻る。
お願いされた。
それが誹謗中傷を差すのならば。
つまり、仕組まれていたということだ。
背負ってきた罪も。
投げ付けられてきた罰も。
歯を食い縛って耐えてきた、何もかもが。
「……そっか。そっか、そっかあ。おじさん、裏切られたんだ? そういえば、バケモノなんだもんね。ママに捨てられて、家族も友達も恋人もいなくて、みぃんな不幸にして、ネットのオモチャにされて……カワイソーだねえ」
茫然自失の仁道に、可憐は優しく微笑みかける。
今までとは正反対の、まるで聖母のような笑みだった。
「ねえ、おじさん。可憐チャンとオトモダチにならない?」
羽のついたストラップシューズの先で、仁道の顎を掬い上げる。
雨の雫を纏ったレンズ越しに、今日初めて目が合った。
柔らかな笑顔をそのままに、紫色の瞳が、醜悪な弧を描く。
「そしたら、お願いを叶えてあげる。この子たちみたいに!」
大仰に両手を広げた可憐の背後、再び濃くなり始めた霧の中から、ふらふらと幽鬼のような足取りで歩み出てきたものがある。
四つ脚の、犬に似た獣だ。
同時に、吐き気を催すほどの甘い香りが鼻腔を貫いた。
その正体が御晴写だと断言できたのは、記憶に残る匂いのためだけではない。
それが当然、ただの犬ではなかったからだ。
犬の形をした、人間の男であった。
“犬の格好をしている”のではなく、人体のパーツの形状はそのままに、位置だけが獣のそれに歪められているのだ。
無毛の頭部にちょこんと付いた人間の耳が揺れ、マズルのように長く引き伸ばされた顎の、不格好に突き出た唇から、呪詛じみた呻き声が涎とともに溢れている。
可憐は足元に擦り寄ってきたそれを、にこにこと見下ろした。
「この子はね、一番新しいオトモダチだよ。ほら、自己紹介!」
犬もどきが可憐に尻を蹴られ、悲痛な声を上げて倒れ込む。
よく見れば、常日頃から折檻を受けているのか、全身が傷だらけである。
双眸からは雨の勢いにも負けぬ滂沱の涙が噴き出しているが、彼は怒りも抗いもせず、手足を震わせながら立ち上がり、仁道らに向かって恭しく頭を下げた。
「――……ば……ぁ、……ばじ、め、まじ、で……ぼ、ぼぼ、ぼお、ぼお、ぐぢ、かず、ぎど、もうじ、まず……」
変形した口が発声に向かないのか、唾液が絡んで泡立つような声。
それに聞き覚えがあると気付いて、仁道は戦慄を覚えた。
その声は、その名前は――一杭山で死んだはずの、フェニックス鳳口のものだ。
「……ぅお、お、おで、は、顔じが、取り柄がないのに……老げで、ぞれずら、無くなっで……が、学生の頃は、一軍で……そ、ぞれ、がぁ、今じゃ、ぱじりにじでだ、樽原、社長になっでぇ……おれだぢが誰が、気付きもじないでぇぇ……ぶぐっ、うう、ううう、ぶ、復讐、させていだだぎぃ、ありがとうございます……人間じゃなぐなっでえ、もう、老けるの、気にじなぐで、よくなりまじだぁ……ぁあ、神様、感謝いたします! 万歳、万歳、万歳ッ!!!」
感謝の言葉だけが流暢なのは、言わされているからだ。
その間も涙は止めどなく流れ落ちてゆく。
可憐の隣で痴態を見下ろす、首の無い男の手が、ひどく震えている――犬もどきが鳳口であるのなら、彼の正体はドラゴン龍尾なのだろう。
満足げに鼻を膨らめた可憐は、うきうきと仁道に向き直った。
「あのね、おじさん。どんなに人間っぽくしたって、おじさんがバケモノなのは変わらないんだよ。それとも、これからもずーっと隠すの? いつバレるかってビクビクしながら暮らして、カノジョ作るどころか女の子とえっちもできないで、ひとりぼっちで床のシミになるの? そんなの、バカみたい!」
不意に、仁道を拘束する巨大な手が力を緩めた。
人形遊びのように、胴体を掴んで立たされる。
長身巨躯に見下ろされる形になっても、可憐の余裕の表情は崩れない。
抵抗されても勝てる自信があるのか。
それとも、堕ちると確信しているのか。
「だからさあ、可憐チャンと楽しくやろうよ。こいつらみたいに本当のバケモノになって、おじさんをいじめた奴、みーんな殺しちゃおうよ! 今日はふゆちゃんが目的だったんだけど、一人増えてもおんなじだし!」
唐突に指を差された“ふゆちゃん”――冬似は目を見開く。
瞬間、脳裏を過ぎった最悪の可能性に全身が総毛立つ。
込み上げてくる吐き気を飲み込み、震える唇をどうにか開いた。
「……てめえ……まさか……てめえか……」
「きゃはは、てめえてめえって、そればっかり! でもそうだよ、ふゆちゃん。お友達のなっちゃんから聞いてるよ、日本プロレス界のスーパースター! ……なっちゃんはすぐ絞りカスになっちゃったから、ふゆちゃんはどれだけ絞れるかなって期待してたのに、休業しちゃってさあ。でも、待ってた甲斐があったよお」
「……てめえ……!」
「ね、可憐チャンのオトモダチになってくれるなら、なっちゃん、生き返らせてあげてもいいよ。バカすぎてイライラしちゃうから、カラダだけだけど。あんなデブスのニート女だもん、ふゆちゃんもそれが目当てだったんでしょ?」
「っ、ふざけんな! これ以上、あの子を穢すんじゃねえ……!」
冬似は半狂乱で暴れたが、拘束はぴくりともしない。
無意味な抵抗が心底愉しくてたまらないというふうに可憐はにたにたとして、無言で立ち尽くす仁道から、跳ねるように数歩離れた。
「おじさん、ちょっとだけガマンしてね。“傲慢なる者よ、我を畏れよ”が効かないんだもん。いっぺん死んでもらわなきゃ……すっごく痛いと思うけど、頑張って、可憐チャンのオトモダチになってね!」
可憐が両手を叩くと、鳳口が弾かれたように顔を上げた。
唇が口角からめりめりと首元まで裂け、鋭い牙が飛び出してくる。
仁道の喉を食い破るべく、異形の顎がトラバサミじみて開いた。
惨劇の予感に、冬似が無我夢中で叫ぶ。
嗜虐の愉悦に、可憐が喜色満面にはしゃぐ。
そして、仁道は――笑った。
「――断る!!」
威風堂々たる咆哮を、破裂音が追った。
鳳口の頭が、風船が割れるように弾け飛んだのである。
血も臓物も出ず、首だけを失った身体がふらふらと頽れた。
仁道は大きく息を吸い、大きく吐き出す。
右の拳を握り直すと、手首からずり上げた数珠が清らかに鳴った。
簡易的なナックルダスターであるが、冒涜のつもりはない。
いざというときは武器にしろと言ったのは、他でもない贈り主だ。
背中を押されるような心地に、自然と口角が上がる。
「……お前の言う通り、俺は化け物だ。どう足掻いても変わらない。変えられない。だが……俺はもう、そんなことに絶望はしない!」
――化け物に生まれるンは罪やない。ほんまに罪なんは、化け物らしく生きることやで――仁道ちゃんは違うやろ?
脳裏に鮮明に蘇る声に、そうだ、と応える。
自分は怪物である。
それは事実だ。
それは、ただの事実でしかない。
人間に『人間』と言うことが侮辱や罵倒にならないように、怪物に『怪物』と言ったところで、だから、どうしたというのだ。
そう呼ばれるのを恥じるべきは、心まで怪物になったときだ。
だから、何も悔やむことはない。
そして、何も悔やむべきではない。
怪物だからこそ、救えたものがあった。
怪物だったから、出会えたひとがいた。
今日も明日もその先も、何も予定が無く、これから生きてゆく目的も、目標も、意味も、理由も、価値も、何も無かった、あの頃の自分は、もういない。
「……こう啖呵を切ったところで、時間稼ぎしかできんが……充分だ。俺たちが帰らなければ、お前よりよほど恐ろしいものが来るぞ。だから、諦めろ」
可憐を射竦める黒い瞳が燃えている。
真っ直ぐな希望と、正しい怒りとで。
おどおどと自身に接していたはずの仁道の、豹変とさえ言える態度の変わり様に、可憐は忌々しげに舌打ちをした。
「あっそ。カッコイイ決めゼリフだねえ。毎晩、寝る前にでも考えてんの?」
鼻の頭に皺を寄せた表情に、初対面の可愛げはどこにもない。
「……うーん、なんか萎えちゃったなあ……もういいや。龍尾。可憐チャンはふゆちゃん連れて帰るから、そいつ殺しちゃって。首だけ持ってきてね」
あっさりと仁道への興味を無くした可憐は、龍尾の手から傘を奪うと、相変わらずわざとらしいポージングを取りながら冬似のほうを振り返った。
「さっ、仕切り直し! ふゆちゃん、見てたで……しょ?」
果たして、そこには、誰もいなかった。
巨大な手が地面に押し付けられているだけだ。
冬似の姿は、忽然と消えていた。
「ちょっと、どうなってんのよ! 逃がせなんて言ってないよねえ?!」
可憐がヒステリックに喚いたそのとき、霧の果てから、一条の光が射し込んだ。
光が徐々に太く、強く、眩くなるにつれ、獰猛なエンジン音が近付いてきた。
ショッキングピンクを蹴散らして、真紅のジープが突っ込んでくる。
その運転席には誰も乗っておらず、ハンドルだけが動いていた。
轟音。
仁道に飛び掛かろうとしていた龍尾が、容赦なく撥ね飛ばされた音である。
ジープはドリフトしながら速度を緩め、仁道と可憐を隔てるように停止した。
後部座席のドアが勢いよく開き、
「――暮井! 乗れ!」
差し出された朔哉の手を、仁道は咄嗟に掴んだ。
ドアが閉まりきるのを待たず、ジープは走り出す。
後には、呆然と立ち尽くす可憐と、石畳に無い頭から落ち、折れ曲がった手足を痙攣させている龍尾だけが残った。
「……なっ……はあ? くそっ……我こそは七罪冠す聖女!」
我に返った可憐が、表情もポーズも取り繕わずに吼える。
「怠惰なる者よ、我を崇めよ!」
呪言に応え、霧を突き破るように飛び出したのは、鳳口と似たり寄ったりの、人間が歪められた獣もどきである。
駆けてゆく十数人を見送って、可憐は苛々と頭を掻き毟った。
足元の水溜まりに、痛んだ髪の毛が落ちる。
そこに、彼女のものではない影が、静かに揺らいでいた。




