六 縁あれば万里
男の声だった。
若々しく、高めだが、耳障りなほどではない。
軽薄なようでいて、どこか深みがある。
「あなたは、確か……五月雨さん、でしたか」
「ご名答。こないだ挨拶はしたが、こうやって話すのは初めてだな」
凄惨な事件現場に突如として現れた、文字通り影も形も無い男。
朔哉が刑事としても人間としても危惧すべき存在に対して、八千斑の関係者だと分かった途端に呆気無く警戒心を解いたのを察したらしいよすがは苦笑したが、露骨に突っ込んでからかいはしなかった。
朔哉はわざと開け放しておいた背後の扉を、後ろ手に閉める。
誰かに見られるのを避けるため、そして自ら逃走経路を潰すことで「自分はあなたを信じている」と言外に示すためである。
八千斑から、彼は仁義というものを何より重んじると聞いていたからだ。
法と、法に携わる人間にあまり好感を抱いていないことも。
「今日はどうなさったんですか? 私に何か御用でも……」
「ハハ、そう硬くなんなって。八千がオレについてどう話してんのかは知らねえし興味もねえが、カタギに噛み付くほどケツ穴が小せえつもりはねえよ」
雨の隙間を縫って聞こえてくる笑い声には、奇妙な威圧感がある。
朔哉は何故か、幼い頃、初めて水族館でシャチのパフォーマンスショーを観たときのことを思い出していた。
こんなにも巨大な捕食者を飼い慣らせていると、誰もが信じて疑っていない。
飼育員とて、危険性を熟知していても、今日こそ食い殺されるかもしれないと、毎日毎日、覚悟を決めている人間はそう居ないだろう。
鯨すら仕留めるものが、なぜ人間に従っているのか。
きっと、自分たちは見逃されているだけなのだ。
おまえたちに価値があるうちは、ここにいてやる、と。
「では、他に何か、ここに来る理由でも?」
生まれて初めて抱いた畏怖の再現を振り払うように、朔哉は重ねて問う。
言ってから、失礼だったかもしれないと焦ったが、よすがは特に機嫌を損ねはしなかったようだ。
「新規の仕事がねえから暇でよ。散歩のついでに、鵜瀬ってのを見物に来たんだが……ありゃダメだな。警察ってのァ根性がねえと。ちょいと片金捻ってやった程度でぶっ倒れちまうガキなんざ、自分の命預けるに値しねえ。タマだけにな」
睡蓮鉢を打つ雨は激しさを増し、爆竹じみた破裂音を響かせていたが、よすがの声は遮られることなく真っ直ぐに朔哉の耳に届いている。
朔哉は彼の言葉を脳内で反芻して、怪訝な顔をした。
『ざまあみやがれ』。
『捻ってやった』。
それは、つまり。
「……あなたが、やったんですか」
否定するだろうと朔哉は思ったが、
「おうよ。あんたらもスッキリしたろ」
よすがは、あっけらかんと自白した。
「八千がよお、仁道にあのクソのこと聞かされてから、自分のせいであんたの肩身が狭くなってねえかとか、毎日うるせえのなんのって。そんで見に来たら、案の定ネチネチやってやがる。腹が立ったんで、赤っ恥掻かせてやろうと思ってな……まさか部下に、金玉ねじれて気絶しましたなんて言えねえもんなぁ?」
鵜瀬の反応がよほど愉快だったのか、よすがはくつくつと笑う。
そう聞いて朔哉の頭に浮かんだのは、収穫される果実のイメージだった。
同性として容易に想像できる激痛に、さすがに同情のほうが勝る。
とはいえ、溜飲が下がったのも事実だ。
「その……ありがとうございますと言っていいのか、悪いのか……」
「いらねえよ、礼なんざ……オレぁ、八千のためにやったんだからよ」
不意に、よすがの声が、剣呑な色を帯びた。
漠然とした威圧感が明確なそれへと変わる。
無邪気にプールを泳いでいたシャチの目が、ぎろりと観客のほうを向いた。
「……あいつは人間が好きだし、信じてもいるが……どうしようもねえ生き物だってのも思い知ってる。だから、個人に深く関わろうとすんのは珍しいのさ」
朔哉は雨に打たれたせいばかりではない寒気を感じ、身震いする。
見られている、と本能的に理解した。
“天満朔哉”という人間そのものを、見られている。
「八千と関わった奴は、最終的にゃあいつを見上げるか見下すか、どっちかになるのがお決まりだ。勝手に期待して、勝手に崇めて、勝手に幻滅して、勝手に怯えてよ……だから、オレは確かめてえんだよ。あいつが傷付く前に。いっとう大事な弟分が気に入ってるあんたが、どんな人間なのか」
雨の中に、よすがの姿は見えない。気配すら感じない。
声だけが、首筋に当てられた刃じみてぎらついている。
「洗い浚い吐けとは言わねえよ。今は、一つだけ教えてくれりゃいい。……あんた、何で、仁道を独りで行かせちまったんだ?」
しかし口調こそ荒いものの、そこに怒りや軽蔑は感じられなかった。
裏切った、見捨てたという表現ではないところからして、よすが自身も朔哉が権力に尻尾を振るような人間だとは思っていないのだろう。
純粋な疑問だ。
八千斑が認めるほどの善き人間であるお前が、なぜその一点だけは己の意志を貫けなかったのかと、そう聞いている。
「……私は……」
そこから、言葉は続かなかった。
朔哉は迷い、悩み、考える。
どう言い訳をすべきか、ではなく、どこまで話していいのかを。
これは、自分だけの問題ではない。
だが、だからと言って沈黙してはならないとも思う。
自分は八千斑について、まだ何も知れていない。
そして八千斑も、自分について何も知らない。
どうして戦うのか、どうして守るのか、どうして――
何も知っていないのに、彼は自分を信じてくれている。
考えてみれば今まで、八千斑が見返りを求めたことはなかった。
関わった事件は丸ごと朔哉の手柄になり、経費も治療費も一銭たりとも請求されず、朔哉以外の人脈も、事務所の宣伝も、何も望まれたことがない。
しかし聖人ぶる人間特有の薄ら寒い醜悪さを、彼には感じられなかった。
『あいつが傷付く前に』とよすがは言った。
きっとその言葉の通りに、何度も傷付けられてきたのだろう。
ただ救いたいという気持ちを踏み躙られてきたのだろう。
勝手に期待されて、勝手に崇められて。
勝手に幻滅されて、勝手に怯えられて。
それでも彼は、人間を見捨てなかった。
朔哉を信じ、狂人の戯言だと一蹴されてもおかしくはない現実を、包み隠さず話してくれた。もしもまだ話してくれていないことがあるのだとすれば、自分が質問していないか、知れば誰かが傷付くことなのだろうと、そう確信できていた。
その信頼に、今こそ自分は応えるべきではないのか――
数秒の沈黙でそう考えて、朔哉は小さく息を吸う。
「――私の両親は弁護士で、救われるべき人間にも、救いようがない人間にも、等しく手を差し伸べようとする……家族である以前に、人間として尊敬できる両親です。無実の罪で裁かれようとしている人、理不尽に何もかも奪われようとしている人、必死に償おうとしている人、償うことすら許されない人……絶望のどん底にいる人たちを、今まで何十人も掬い上げてきました」
事務所も自宅も、ポストはいつでも感謝の手紙で満杯だった。
街に出れば必ず一人は、かつて救われた人間が声をかけてきた。
二人に憧れて法曹界に飛び込んだ者は数知れず、弁護士たちはいつでも、天満法律事務所の求人が出るのを待っていた。
そうして神のように崇められながらも、二人は決して驕らず、仕事に溺れることもなく、過密なスケジュールにどうにか針の穴ほどの隙間を空けて、息子と食卓を囲み、他愛もない会話をし、遊びに連れ出し、学校行事に参加してくれた。
そんな両親が、朔哉は誇らしかった。
だから、刑事になろうと思った。
杜撰な捜査、捏造、隠蔽、癒着、圧力……そんなくだらないもののために救えなかった人々を、彼らを想って涙する両親を、二度と見ないで済むように。
「鵜瀬は性根こそ腐り果てていますが、刑事としては優秀な男です。特に情報収集に関しては、超能力でも持ってるんじゃないかと疑うほどで……そのせいで、周囲が彼の話を鵜呑みにしてしまうことも多くて。そして、あいつは自分の能力と地位を悪用して、暮井を追い詰めていったんです」
たとえば、父親について何も知らずに育った巡査部長がいた。
母親が、幼い頃から警察官になるのを夢見ていた息子を想って、見知らぬ男に強姦された過去をひた隠しにしていたのだった。
協力しないなら、息子が真実を知ったことを母親に教えよう。
協力するならば、その男に罰を与えてあげよう。
長年の苦労で身も心も弱った母親のために、巡査部長は頷くしかなかった。
たとえば、高校卒業を機に、家族も故郷も何もかもを捨てた警部補がいた。
彼女以外を愛玩する両親と、彼女を見下す弟妹に搾取される生き地獄から抜け出して、自分の思うように生きようと決めたのだった。
協力しないなら、今も奴隷を捜す家族に居場所を伝えよう。
協力するならば、決して近付けないほどに家族を遠ざけてあげよう。
過去を知りながら愛してくれる夫のために、警部補は手を取るしかなかった。
消したい過去を、鵜瀬は容易く嗅ぎ付けた。
無垢な者には、家族や恋人、友人、果てはペットまで楯に取った。
彼らの幸福な日々と引き換えに、望んだことは、ただひとつ。
暮井仁道を、ここから追い出す手伝いをしろ。
「……僕は、暮井を尊敬しています。悪いのは蟇住であって、彼ではないとも分かっていました。だから庇いたかったし、守りたかった。でも……両親と、両親がこれから救うだろう人たちと、暮井とを天秤にかけて、重いほうはどちらなのか……考えてしまったんです」
どうしようもなく声が震えたが、涙は出なかった。
最後まで仁道が涙ひとつ、愚痴ひとつ溢さなかったからだ。
涙の代わりに、雨が地面に落ちてゆく。
睡蓮鉢の水面に、ひときわ大きな飛沫が上がった。
「……くっだらねえなあ、オイ」
続けて、あまりに大きな舌打ちが聞こえた。
苛立ちを反映するかのように、睡蓮鉢に不自然な波が立つ。
軽蔑されたのだろうと朔哉は様々なことを覚悟したが、
「くだらねえ、本ッ当にくだらねえ! なんでそんなくだらねえゴミクズのために、てめえらみたいな善い奴が苦しまなきゃならねえんだ?!」
よすがの憤怒は、最初から朔哉に向いてはいなかった。
「てめえは悪くねえ。仁道も、他の刑事たちもだ。悪いのはあのクソガキと、そこまで腐らせちまった親と、増長させた水飲み鳥どもだけだ!」
「で、ですが……」
「ですがもヘチマもねえ!!」
怒号とともに、朔哉は背中に衝撃を感じてつんのめった。
何かに、恐らくはよすがに叩かれたのである。
背後の扉は閉まっており、声は前から聞こえているにも拘わらず。
不可解な痺れに呆気に取られている朔哉に、小心者なら失禁しかねないだろう凄まじい怒気を孕んだ視線が突き刺さる。
明らかに、一般人のそれではない。
「いいか、もっぺんだけ言うぞ。てめえは悪くねえ。だからその、負け犬みてえなツラはやめろ。負けてねえんだからよ。頭を下げようが、靴を舐めようが、自分にそれを受け入れる気持ちがなきゃ、やってねえのと同じだ。臭せえドブ這いずり回って虫ケラどもに指差して馬鹿にされてもよ、心がお天道さんに向いてる限り、人間様の魂に敗北の二文字はねえんだよ!」
怒声は、ほとんど咆哮に近かった。
やがて睡蓮鉢は凪ぎ、はああ、と大きな溜息が響き渡る。
「……悪りい。まったく、年食うと熱くなっちまっていけねえな……天満さんよお、脅かした詫びに送ってやるよ。そこの水溜まり、踏んでみな」
なぜかと問うより先に、朔哉の足は無意識に動いた。
たとえば行列に並んでいるときに、店員から「一歩前に進んでください」と言われたら、どうしてとも聞かずに動いてしまうのが人間の性だろう。
それに、朔哉の中には、よすがに対しても信頼が生まれつつあった。
靴底が水溜まりにほんの少し沈んだ刹那、瞼を閉じたようにふっと視界が暗くなり、すぐに明るくなる。
そうして目の前に広がったのは、廃屋の庭ではなかった。
雨の中に佇む探偵事務所を、朔哉は呆然と見上げる。
「なに突っ立ってんだ。入れよ。せっかく乾かしたのに濡れちまうだろ」
指摘されて初めて、ずぶ濡れだったはずの全身が乾いていることに気付く。
髪から靴の中まで丸ごと乾燥機にかけたように、湿り気すら無い。
もはや驚き以外の感情が湧いてこず、言われるがままに本堂の中に入る。
誰もいない。
「仁道は仕事みてえなもん、瑠璃公は付き添い、八千は……そのうち帰ってくるだろうさ。熱っちい茶でも淹れてやっから座って待ってな」
どこからか声がしたかと思えば、気配ごと消えた。
朔哉は八千斑と出会ってからというもの揺らぎっぱなしの常識が根っこから倒れてゆく様を想像しながら、座卓の前に敷かれた座布団に腰を下ろす。
不思議と、穏やかな気分だった。
初めて、誰かが本気で叱ってくれたからだろう。
後悔はなかった。
仁道が戻ってきたら、鵜瀬の醜態とよすがの怒りを話してやろうとだけ思った。
ふと、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
上津だろうか。
取り出そうとして、床についたその手が何かに触れる。
反射的に拾い上げたのは、紙の束だ。
一番下のジッパーバッグごと、クリップで何枚かの紙が綴じられている。
一枚目には見覚えのある流麗な字で箇条書きがなされていた。
【新】使用者が絶望しているほどに願いは歪む
〃 恐怖しているほどに人間性は失われる
↑人間に限る?
絶望も恐怖もなければ願った通りに叶う?
【既】生き物に使う場合は正しい名と形が必要
国や人種を丸ごと呪えるほどの力はない
そのものの呪いは消せないが、御晴写で生み出した呪物の呪いは消せる
→樽原さんの体調は? ◎一応野菜を送っておく
【確認】
おさちはまだ生きている?
手前のものほど紙が新しい どこで手に入れた?
◎一杭山の行方不明者について調べる
猿聟には協力者がいる
一般人?信者?犯罪者? ●似顔絵あり!
◎朔ちゃんに聞いてみる ついでにおかず渡す
八千斑に頼られていると分かって、朔哉は気分が一気に上向くのを感じた。
帰ってくるまでに調べられることはあるだろうかと、いそいそと紙を捲ったが、ジッパーバッグまで辿り着いたとき、指の動きがぴたりと止まった。
その指が、どうしようもなく震え始める。
「……十、カ……協……力……見反……見返り……原……願い……?」
朔哉は、封入された紙に記された、子供が漢字を見様見真似で訳も分からず書き殴ったようなそれを、指と同じぐらいに震える声で読み上げる。
文字の下に、対照的に精密な似顔絵が大きく描かれていた。
その顔は、彼もよく知る少女――美作可憐のものだった。




