五 それぞれの曇天
パトランプの真紅の灯を受けて、倒壊寸前まで朽ち果てた廃屋の、雨に濡れた外壁がぬらぬらと怪しく光っていた。
崩れた屋根が漏斗の役割を果たし、雨水が室内に流れ込んでいる。
濡れて垂れ下がり、暗さでただでさえ不明瞭な視界を狭める前髪を、腹立ち紛れに片手で乱暴に後ろに撫で付け、天満朔哉は小さく舌打ちをした。
その様子から分かる通り、彼は今、機嫌を損ねていた。
最悪の気分と言っても過言ではない。
何故なら、本来、今日は非番であったからだ。
それも、ここのところ多忙を極めていた彼を心配した同僚と部下が、自分たちの仕事を増やしてまで捻出してくれた、今日と明日の二連休である。
その、涙が出るほど有り難い善意は、こうして踏み躙られてしまった。
そんな真似をする人間は、一人しかいない。
「……タッパー、いつ返そうかな」
ぽつりと独り言ちた声が、雨垂れに掻き消される。
八千斑に「遠慮せんとおいで」と言われてから今日まで、結局、事務所を訪ねていく機会には恵まれていなかった。
この一週間で彼に会えたのはたったの二回。
一回目は、少しでも猿が関わっている新興宗教やここ数年で起きた変死事件についての記事と、おさちの手記を囲んでの真面目な話し合い。
二回目は、作りすぎたという惣菜を分けに来てくれたとき。
それだけである。
おまけに後者では、そのままランチぐらいはできるかと思ったのに、鵜瀬のくだらない呼び出しのせいで叶わなかった。
業務用サイズのタッパーを三つ埋め尽くした多種多様な惣菜は驚くほどの美味で、仕事にかまけて食事を疎かにしがちな両親も久々に旺盛な食欲を見せてくれ、次に会うときには――予定として、今日は――礼も兼ねて、二人きりの食事に誘おうと、そう思っていたものの。
タッパーの蓋に貼り付けられていた桜柄のメモ用紙に流麗な字で『頑張ってな』と書かれていなければ、朔哉は憤死していたかもしれない。
怒りを静めるために、そのメモが収められたマネークリップの輪郭をズボンのポケットの上からなぞる。
黴臭く湿った空気を、深呼吸が裂いた。
「……あいつも、可哀想な奴なのかもな……」
効果は覿面だった。
考えてみれば、自分は恵まれているのだ。
両親は厳しくも優しく、躓いたことはあっても挫折したことはなく、ずっと後悔していた過去とも向き合え、尊敬していた男と友人になれ、そのうえ運命の出逢いも果たし、彼は自分を好意的に受け入れてくれている。
対して鵜瀬といえば、両親の溺愛で根腐れを起こし、躓いたものを課題ではなく障害と見なして排除するばかりで、誰からも憎まれて、そこまでして追い出した仁道は、刑事であった頃よりずっと楽しそうに見える。
そう思えば愚かな上司の狡っ辛さに憐れみさえ湧いてきて、朔哉は見飽きたにやけ面を頭から追い出すと、その場にしゃがみ込んだ。
ご丁寧に切り裂かれていた使い捨てのレインコートのフードを形ばかり被り直して、毛羽立った畳に広がる赤黒い染みを見下ろす。
染みは明確に致死量の出血を示しており、実際、ここで一人が死んでいた。
死んだのは、身元不明の中年男性である。
死因は、頸動脈を深く切ったことによる出血性ショック。
現場や遺体の状態からして、自殺だった。
それならば何故、捜査一課の警部である朔哉がこうして捜査しているのか。
一つは、鵜瀬の嫌がらせ。
もう一つは、自殺に使われた刃物にあった。
びしょ濡れで考え込む朔哉の頭上に、ふと、傘が差し掛けられた。
雨が遠ざかったことよりも、きつい煙草の臭いでそれに気付いた彼がはっとして見上げると、へらへらとした笑みが、ビニール越しに歪んでいるのが見えた。
「上津警部補! 午後休じゃなかったんですか?」
「いやあ。そうだけど、警視がまた警部をいじめてるって垂れ込まれたもんだから……俺はいいんだよ。用事なら済んだし」
ばりばりと頭を掻く上津の笑顔には、諦念が滲んでいる。
笑いたいから笑っているのではなく、“用事”に関しては、もう笑うことしかできない――そんな捨鉢な雰囲気に、朔哉は痛ましげに目を伏せた。
「その……娘さんは……」
「元気だったよ。見舞いに行ったところで、ベッドにぬいぐるみが増えてくばっかりで、やっぱり、起きちゃくれないけどね」
「……もう、五年になりますか」
「うん。今年で、中学生に……なるはずだったんだけど」
上津は煙草臭いコートのポケットを探り、飴を取り出す。
ヘビースモーカーであった彼が禁煙を始めてから常備している、朔哉に渡したピンク色のハート型と、自身の口に放り込んだ鮮やかな黄色の星型は、彼の幼い娘の、数ある好物の一つであった。
朔哉は受け取ったそれを、宝石でも扱うようにポケットに仕舞った。
上津が、空虚な笑みをますます深める。
「……本当にさ、俺はいいんだよ。で、被害者、自殺だって? おまけにホームレスだろ? だったらそれで解決じゃないか。警部が出てくる意味、無いと思うけどな」
「え?」
「ん?」
「……? いや、それがですね、道具が問題でして」
「道具って、自殺だから違うけど、つまり凶器ってことかい」
「ええ。それが……」
朔哉が言いかけたそのとき、背後の引き戸が勢いよく開いた。
新米警官たちに口酸っぱく『現場では埃だろうと丁重に扱ったほうがいい』と教えていた仁道とは正反対の無遠慮な行動で誰が来たのか悟った彼は、反射的に転がり出そうになった舌打ちを飲み込んで、立ち上がった。
「爪切りだったんですよ」
会話に割り込むタイミングを窺っていたのだろう。
明らかに支給品ではない高級そうなレインコートを着た鵜瀬の、一滴たりとて濡れていないスーツと、泥汚れ一つ見当たらない革靴に、朔哉の額に青筋が浮かぶ。
一触即発の空気を感じ取った上津が、慌てて二人の間に割り込んだ。
「う、鵜瀬警視。お疲れ様です。爪切りってのは……?」
「言った通りですよ。被害者は、爪切りで首を切って死んだんです」
「つ、爪切りぃ……?」
想像だにしていなかった凶器に素っ頓狂な声を上げる上津を鼻で笑って、鵜瀬は懐から取り出したものを、これ見よがしに二人の目前に突き付けた。
透明な袋に、爪切りが収まっている。
ドラッグストアでも買える何の変哲もない爪切りだが、刃には変色した肉片がこびり付き、袋の底には血が溜まっていた。
それにしても、他の証拠などと照らし合わせるためならまだしも、見せつけるために鑑識から奪ってきたのだとすれば、上津の焦りは募っていくばかりである。
暮井仁道という優秀な刑事を失ってしまった今、優秀な上に年若い朔哉と、性根が腐っていても優秀ではある鵜瀬のどちらかまで失うわけにはいかないのだ。
「それで、天満警部。新しい証拠が挙がったという報告がまだ来ていないのですが……報告していないだけですよね? まさか、休日を返上してまで駆け付けたのに、未だに一つも見つけられていない……ということもないでしょう?」
穏便の二文字を祈る上津を嘲笑うように、鵜瀬は嫌みったらしく言った。
朔哉は答えない。だが、腹を立てて無視しているのではなかった。
明るい茶色の瞳が、一点に釘付けになっている。
雨に体温を奪われた唇が、かすかに震えていた。
「おや。怖いんですか? まあ、気持ちは分からないでもないですが……冷酷な男の尻を何年も追い回していたわりに、学べたことは少なかったようですね」
鵜瀬はここぞとばかりに嫌味を続けるが、朔哉の耳には届いていなかった。
彼は今、そんなことよりも遙かに重要なものを視ていたからだ。
鵜瀬の背後に、男が立っていた。
運ばれていった遺体と同じ顔をした男が。
千切れかけた首から、滝のように血を流しながら。
朔哉は息を呑み、咄嗟に、ネクタイピンをネクタイごと握り込んだ。
途端にぼやけていた輪郭が鮮明になって、男の虚ろに落ち窪んだ目が、真っ直ぐに前を見ていることが分かる。
まるで、こいつだ、と言っているかのように。
「最近、ずいぶんとご活躍でしたから、期待していたのですけれども。まさか、わざとですか? 役立たずが勢揃いすれば、私があの男を呼び戻すとでみ゛ょっ」
奇声。
そうとしか言えない語尾に、朔哉は気を取られた。
集中が切れたせいなのか、鵜瀬の喉から続けて、ひゅっ、と笛のような呼吸が漏れたのと同時に、血まみれの男の姿は煙じみて掻き消えてしまった。
「う、鵜瀬警……」
遅れて我に返った上津が最後の一文字を吐き出すより先に、鵜瀬は、ぐりんと白目を剥いて、操り人形の糸でも切ったように膝から崩れ落ちた。
慌てて痩躯を支えた上津の腕の中で上司が情けなく泡を吹いているのを、駆け付けた警官たちは、心配しつつも内心の半分では笑いを噛み殺している。
それほどまでに人望が無いのだ。
「……脈よし、瞳孔よし、呼吸よし、顔色よし……救急車は呼ばなくていいな。最近ずっとあっちこっちにヘコヘコやってたから、接待疲れかもなあ」
普段は気を遣っている上津も、意識が無ければこの通りであった。
彼は溜息をつくと、ポケットから取り出した飴の包装を片手で器用に剥き、テディベアの形をした水色を口に入れた。人工的なソーダの香りが辺りに広がる。
「はあ……なあ、警部、今のうちに帰っちまいなよ。どうせ非番だったんだ。ここは俺が引き継ぐし、何かあったら呼ぶし、医者を呼びに行ったとか何とか、誤魔化しとくからさ……さっさと帰って、さっさと風呂入んな」
「そうですか? ……では、お言葉に甘えてそうします」
「あっはっは! 嘘でも心配しとくもんだぞ。正直でよろしい」
仕事熱心な朔哉が素直に頷いたのは、上津励という男が、鵜瀬の存在と娘の一件さえなければとっくの昔に警視になっていてもおかしくはなかった、勤続年数と実力を兼ね備えたベテランであるからである。
鵜瀬とは違って、彼は捜査一課のほぼ全員から信頼されていた。
「正面、記者と野次馬でごった返してるから、裏から出なよ」
「ええ。ありがとうございました。お疲れさまです」
――とは言ったものの、どう帰ったものか。
乗り合わせて来たから、一人では帰れない。
上津に誤魔化してもらう手前、誰かを巻き込めない。
全身ずぶ濡れであるからタクシーは呼べない。
両親は勤務中だし、迎えに来てもらう年齢ではない。
不審がられずに歩いて帰れる距離ではない。
朔哉は悩みながらも、とりあえず台所から外へと続く勝手口を開けた。
かつては庭だったのだろう空間が目の前に広がる。
ぼうぼうと生い茂った雑草の中からぬっと突き出ている、大人ひとり収まりそうなほどの巨大な睡蓮鉢に雨水がなみなみ溜まっていて、濁った水面を雨粒が賑やかに跳ね回っていた。
どことなく、探偵事務所の庭を思わせる。
今にも水牛が横切ってきそうな光景を扉の内からぼんやり眺めていると、
――ざまあみやがれ。
不意にそんな声が聞こえた気がして、辺りを見回した。
だが、誰もいない。
疲れているのだろうか。さっそく風邪を引いて、熱でも出てきたのだろうか。それとも、まだネクタイピンの効果が続いているのか。
首を傾げたそのとき、またしても、
――電話、出しな。一人で喋ってちゃあ、見つかったときが面倒だからよ。
朔哉は見えない何者かに話し掛けられたことに驚きこそしたが、ここ最近の心霊体験で少しは肝が据わったのか、叫んだり逃げ出したりはしなかった。
それどころか、わざわざ接触してきたからには何か用があるのだろうと、律儀にスマートフォンを取り出して、そのまま耳に当てさえした。
ややあって、声が聞こえてきた。
どこにも繋がっていない、画面が暗いままのスマートフォンから――ではなく、誰もいないはずの、雨に濡れる庭のほうから。
「よお、天満警部殿。さすが、刑事だけあって耳がいいな」




