四 菫を纏えど菫
見回しても、見上げても、見下ろしても、視界に入ってくるのは、冗談のようなショッキングピンクであった。
二重の意味で頭が痛くなりそうな空間を、仁道はひた走っている。
ほんの数分前、あっと言う間に敷地全体を包み込み、駐車場にまで流れ込んできた気体は霧のような質感だったが、素肌に絡み付いてくるそれには熱気も冷気も感じられず、人工的な臭いもしない。
経営不振で一度は閉園した遊園地のイベントにしては規模が大きすぎるし、そんなことは広告のどこにも記載されていなかった。
スマートフォンが唐突に圏外になったのも気に掛かる。
もしかすると杞憂かもしれないが、初動対応の心得が全身に染み付いた仁道にとっては、決して無視のできない異変であった。
「誰か! 誰かいないか! ……黒川主さん! 返事をしてくれ!」
叫べど、返答は無い。
冬似どころか、誰もが沈黙している。
ショッキングピンクの霧は濃く、天気予報を大きく外して強まりつつある風雨にときおり掻き乱されて僅かな間だけ薄らぐのみで、伸ばした手の先も、地面を踏んでいるはずの靴すら目視できない。
これがイベントでないのなら、戸惑う声のひとつは上げているはずだ。
たとえイベントであったとしても、身長二メートル近い強面の男が叫びながら走ってこれば、それはそれでパニックになるだろう。
生き物の気配がしない道中は、仁道に一杭村を連想させた。
ふと、極彩色にけぶる視界に人影が浮かび上がった。
仁道より小さく、妙に前屈みで、片手に何か提げている。
相手の状況を確かめる余裕もなく、仁道は声を張り上げた。
「おい、あんた! 無事か? 何かあったかわかるか!?」
人影は、突然浴びせかけられた大声に驚いたようだった。
飛び上がらんばかりにびくりとして、挙動不審に辺りを見回す。
そして、そのまま走り去っていった。
当然、追おうとした仁道を引き留めたのは、悲鳴である。
「――やめて! お願い、やめて! あ、あたし、あたしは……!」
あまりに切羽詰まった、女の声。
誰かに襲われているのかもしれない。
途切れることなく聞こえてくる声を頼りに進むと、広場に出た。
漂う霧が強風に押し流された隙間に、蹲る影が見える。
ぐしゃ、ぐしゃ、と湿った音が聞こえてくる。
「すみません! 大丈……」
そこから言葉が続かなかったのは、仁道が絶句したからだ。
女はただ蹲っているのではなく、土下座していた。
湿った音は、彼女が地面に額を打ち付ける音だった。
「違う、違うの、許して、許して……」
「お、おい、あんた……」
女は仁道の呼び掛けに反応しない。
ただひたすらに、何かに謝罪している。
額が割れ、血が地面に滴っていた。
それでもなお、止めようとしない。
「やめろ!」
怯えさせてしまうのを承知で、仁道は女の肩を掴んで立ち上がらせた。
だが、彼女は肩を掴まれているのも理解できていないようで、空中に向かって、頭を打ち付ける動きを繰り返している。
額から血が流れ落ちて、青褪めた唇を赤く色付けてゆく。
「だ、だって……好きになっちゃったんだから、仕方ないじゃない……慰謝料だって、あんなに払ったのに……なんで、自殺なんてするのよおっ!」
凄まじい力で、女は仁道の手を振り払った。
土下座の姿勢に戻り、石畳に額を叩き付ける。
戸惑う仁道の耳に、またしても悲鳴が届いた。
数メートルほど離れた場所で、小太りの男が地面をのたうっている。
彼は駆け付けた仁道に視線を向けることさえせず、壊れた一眼レフの角で、自身の股間を執拗に叩き潰していた。
ズボンの股の部分に滲んでいるのは尿だけではない。
「……み、未成年だなんて……知ってたら撮らなかった……俺のせいじゃない、俺の……ひいい、ごめんなさい、ごめんなさい!!」
激痛と恐怖に転がり回る男のすぐそばには、赤い塊がある。
霧に目を凝らしてよく見てみれば、それは血まみれの女であった。
頭部から噴き出した血が、身に纏った衣装を染めている。
「……何が悪いのよ……作品への愛とか……くだらないことばっか言、いい、いいい……痛い、痛い、痛いいい……なんでアタシが、なんで……」
ぶつぶつと恨み言を言いながら、長い爪で顔を掻き毟る。
削がれた肉が血とともに地面に落ちてゆき、整っていたのだろう顔立ちは、もはや見る影も無く引き裂かれてしまっていた。
何が起きているのか。
誰から助けるべきか。
どう助ければいいのか。
駆け巡る思考が、何度目かの悲鳴に中断された。
「――、――!――……」
何を言っているのかは分からないが、高音の絶叫を辿ってとにかく走る。
お化け屋敷の前に、淡い紫色のロリータファッションで全身を固めた少女が立っているのが見え、その手に握られているものが、鋭く光るのが見えた。
それの正体は知れなかったが、彼女が今から何をしようとしているのかは、今までの光景を鑑みれば、想像に容易かった。
「待て! やめ――」
躊躇する暇さえ無く、ただ必死で走り寄った瞬間、仁道は言葉を失った。
見下ろした少女の顔に、見覚えがあったのだ。
心臓が破裂せんばかりに鼓動し、背中に冷や汗が噴き出す。
一瞬で干上がった喉から、驚愕と絶望に満ちた声が我知らずこぼれた。
「……君は……美作……?」
間違いであってくれ、と、仁道は内心でほとんど祈っていた。
こんな状況でなければ逃げ出してしまいたかった。
だが、幼い頃から幾度となく裏切られてきたように、運命はまたしても、彼の祈りを拒んだ。
のろのろと仁道を見上げた少女のその顔は、濃いメイクが施されていてもなお、仁道にとっては忘れられるはずのないものだった。
彼女はカラーコンタクトで拡大された毒々しい菫色の瞳を見開いて、媚びるようにわざとらしく小首を傾げる。
「……おじさん、可憐チャンのこと知ってるのお?」
しかして、想定外の反応に、仁道は面食らった。
そんなことを言うはずはなかった。
彼女が――蟇住明綺羅の、最後の被害者が。
暮井仁道を憎み、恨み、忌み、呪った、美作可憐という少女が。
「……覚えて……いないのか?」
「……は? なに、もしかして可憐チャンのファン? そんなのいちいち覚えてるわけないじゃん……っていうか初対面でタメ口やめろよ、キモっ」
「――……すみません。その……知り合いに似ていて」
白を基調として、いわゆるユニコーンカラーに染めた髪の、ツインテールの片方の毛先を弄りながら、鼻が詰まったような舌足らずな声で吐き捨てる少女――可憐の表情には嫌悪だけがあり、しらばっくれている感じはしない。
仁道が渇いた口の中に張り付いた舌をどうにか動かし、とりあえずは警戒心を解こうと誤魔化すと、彼女は不自然にアイラインの引かれた涙袋を歪めて、いかにも底意地の悪そうな笑みを満面に湛えた。
「あ、負け惜しんじゃうカンジ? キャハハ! 認知されてなくてカワイソーだねえ、でも可憐チャン優しいから、そういうコトにしといてあげるう」
「……」
「おじさんもだけどさあ、今日ってキモオタの集会かなんか? さっきもクマみたいなデカ男がブツブツ言いながら一人でメリーゴーランドのほう行っててえ……ソロ遊園地って、オタ活の中でいっちばん悲惨だよねえ?」
可憐の言葉選びは、不必要に棘にまみれている。
本当は仁道のことを覚えていて、弄んでいるのかと疑ってしまうほどだ。
しかし、この状況では逆に好都合とも言える。
ここで逃げられてしまっては、全員の救助が遅れてしまう。
仁道は可憐に悟られない程度に呼吸を整え、改めて彼女に向き合った。
「それより、何があったかわかりますか?」
「知らなあい。自撮りしてたらこの霧? が出てきてえ、頭の中ぐちゃぐちゃーってなってえ……気付いたらおじさんがいた感じぃ」
「霧が出てからは誰かに会いましたか?」
「んー、会ってなあい……ねえ、おじさん、ここの警備員?」
「いえ、探偵です。知人を探してまして……赤い髪の大柄な男性なんですが」
「えっ、二人で来たの?! ヤバっ、ホモじゃん!!」
シンバルを持った猿の玩具のように両手を打ち鳴らし、きゃらきゃらと甲高い笑い声を上げる可憐に、仁道は何とも言えない複雑な気分になる。
二年前の彼女は、ここまで性格の悪い人間ではなかったと思う。
入院中の病室を尋ねていったときに激しく罵倒された記憶はあるが、身に降りかかったことを思えば仕方が無く、その後の誹謗中傷も、したくなるのも、やってしまったのも、理解できた。
二年の歳月が彼女を変えたのだろうか。
それとも、自分が捩じ曲げてしまったのか?
「赤い髪だったらあ、さっきのクマだけど。そうなの?」
「……恐らくは。でしたら、自分は彼を探してきますので、あなたは隠れて……」
「はああ? バッカじゃないのお? 襲われたら責任取ってくれるわけ? 知ってるでしょ。可憐チャンさあ、絶賛売り出し中のアイドルなんだけど。俺が守る! とか言ってみなよ、そしたらガマンして腕組むぐらいはしてあげるのにさあ」
「……」
仁道はもう、肯定も否定もしない。
これ以上話していると、彼女のことを守ろうと思えなくなりそうだった。
何も言わず歩き出した仁道の腕に、可憐はごちゃごちゃと文句を言いつつ両手でしがみつき、大きな胸を押し付けるように密着する。
振り解くこともできたが、意識しているのかと揶揄されるのも面倒だったので、仁道は黙って、されるがままにショッキングピンクの闇を進んでいった。
「ねー、おじさん、筋肉すごいね。よく見たら顔もイケてるし。これでハゲじゃなかったらな~。なんでハゲなの? やっぱロック様とか意識しちゃってんの?」
緊張感の無い問い掛けに、仁道は答えない。
彼がスキンヘッドなのは、母親からの虐待の影響である。
髪が伸びるたびに引き抜かれるのを年単位で経験した脳が、その苦痛から逃れ、かつ、乏しい栄養を重要な臓器に使おうと頭髪を切り捨ててしまったのではないか、というのが祖父母に連れられて通った心療内科の医師の見解だ。
それ以降も自身を呪い続けたことによるストレスか、未だに髪は生えていない。
彼女にそんなことを話す義理はなかった。
八千斑にさえ話していないというのに。
「ねえねえ、ハゲって性欲強いってマジ?」
「……」
「もしかしてさあ、可憐チャンのことどっか連れ込む気じゃないよねえ?」
「……」
「あのさあ。こぉんなカワイイ子に興味ないとか、おじさんってインポ?」
「……そういうことは、赤の他人に言わないほうがいいですよ」
「え、説教? あんなふうに声かけてきたくせに? キモいんだけど!」
それから、霧の中にメリーゴーランドの輪郭が浮かび上がってくるまでの道のりはおおよそ五分にも満たなかったが、仁道には数時間にも感じられた。
光すら届かない色彩の向こうから漂ってくる、何かが焦げる臭いとざらついた音楽は普通なら恐怖心を煽ったろうが、仁道は安堵しか感じず、自身の腕に絡み付く可憐の腕を、まかり間違っても肌に触れないよう袖を指先でつまんで外し、彼女と目を合わせないように見下ろす。
「……様子を見てきます。ここで待っていてくださ……、っ!」
瞬間、仁道の右腕に襲いかかったのは、鉄の棒であった。
しかし遊具と等しい太さのそれは、振り下ろされるのと同じ、あるいはそれ以上の力で弾かれ、痛みとともに骨をわずかに震わせただけだ。
ともすれば脊髄反射も超えて、仁道の刑事としての経験、あるいは化け物としての勘が、彼の腕を、頭部を庇うような形で跳ね上げさせたのである。
鉄パイプをも曲げる怪力のみに留まらず、暴力への咄嗟の対応力と、自らの力に耐えられるだけの強固な肉体もまた、仁道が忌み嫌う自身の異常性だった。
「黒川主さん! どうしたんだ?!」
鉄の棒を手に、仁道を射殺さんばかりに睨んでいるのは、冬似である。
その双眸は憎悪に染まっていながら、ひどく虚ろに見える。
仁道を通り越した向こう側に誰かを見ている、そんな目だ。
ぎりぎりと、奥歯を噛み締める音が顎の外まで響いている。
「……てめえッ! どのツラ下げて来やがったッ!!」
獣の咆哮じみた叫びにも、生々しい憎悪が満ちていた。
鉄の棒を振り上げたのを、仁道は咄嗟に腕の付け根を殴って止める。
肩が外れかねない一撃を受けても、しかし冬似は怯まない。
「自分の娘にあんな死に方させてよお! クソ寄生虫が……てめえにほんの少しでも良心がありゃ、あの子は今でも生きてたはずだ……!」
文脈からして“てめえ”が指すのは、南羽夏萌の母親だろう。
仁道の頭に、来園者たちの狂態が過ぎる。
恐らく、ここでどうにかしなければ、冬似も同じ末路を辿るはずだ。
「黒川主さん! 落ち着いてくれ! 俺だ!」
「うるせえ! 言い訳なんか聞くかよ!」
「違う! 黒川主さん! 俺だ! 暮井仁道だ!」
呼べど呼べど、冬似の目に正気は戻らない。
三度振り下ろされた鉄棒を片手で抑えながら、仁道は可憐を振り返った。
今度こそ、彼女を無傷で逃がさなければならない。
「美作さん! この近くにもう一つの入場ゲートがあります! あなたなら柵の隙間を通れるはずです! そこから逃げてください!」
車内で暇潰しに見ていた園内マップを記憶の底から手繰り寄せ、唯一の希望を仁道は叫んだが、可憐はその場に棒立ちになっていた。
その眼差しには、信じられないものを見るような驚愕がある。
仁道ははたと、自分で自分の名前を叫んだことに気付き、息を呑んだ。
「……クレイ……?」
呟く可憐の背後に広がる牡丹色の壁に、影が揺らいだ。
何か巨大なものが凄まじいスピードで突進してきて、それが人間の手であると気付いたときにはもう、仁道と冬似は、羽虫じみて地面に叩き付けられていた。
まだ命の何たるかを知らず、好奇心のままに捕らえた虫を潰してしまう幼子のように、巨大な手は容赦無く力を込めてくる。
背骨が軋む圧迫感に仁道は呻き、腹の傷を押さえられたらしい冬似が叫ぶ。
「い゛ぃっ……でえ!! ……なっちゃ……はあ?! 何だよこれ、おい!!」
痛みで正気に返ったらしい。それ自体は喜ばしいが、この状況ならばむしろ、素面で相対するほうが残酷であったかもしれない。
心霊体験と八千斑の存在がセットになっていたために、彼がおらずとも襲われることを予想できなかった自分の甘さを悔いながら、仁道はどうにか頭を持ち上げて可憐の様子を窺う。
彼女はまだ、そこに立ち尽くしていた。
いまさら霧の影響が出たのか?
目に見えない何かに襲われているのか?
恐怖で足が竦んでいるのか?
憎い男が死にゆく様を見守ろうとしているのか?
仁道の頭に過ぎった予想はしかし、可憐の背後からふらふらと歩み出てきた人影のために、どれも裏切られた。
人影には頭部が無く、首の断面に呼吸のつくる泡がぼこぼこと踊っている。
男であるということしか分からないそれは可憐の横に立ち、その手に提げていたものを、彼女の頭上に掲げた。
ごてごてとフリルで飾られた、パステルパープルの傘だ。
その甘ったるい影の中で、可憐は確かに、唇に笑みを浮かべた。




