三 死人はくちなし
あたたかな思い出は、今や、錆に覆われていた。
かつては虹の七色に一本ずつ塗り分けられていた柱はところどころ塗装が剥げ、内部から滲んできた赤茶色の錆で薄汚れたまだら模様になっている。
無いのは予算か、それとも興味か。
看板の切り文字が欠けて『FRIEND LAND』が『F IE ND』になってしまっているのを助手席の窓越しに見上げて、冬似は胸に込み上げてくる悲しみとも怒りともつかない感情を宥めようと、カーオーディオから流れてくる声に耳を傾けた。
『――それじゃあ、次は大威徳明王について勉強しようではないか! 大威徳明王には、他の明王にはない特徴があるんじゃ。わかるかな?』
『ハカセ、そんなの簡単だよ! 牛に乗ってる! それに、足が六本もあるよ! 』
『その通り! 大威徳明王は水牛に跨がっておるんじゃ。その理由は……』
……そういえば、あの事務所にも牛がいた。
頭を撫でてやったら手を舐められたが、不思議と何の臭いもしなかった。
遠足で牧場に行った小学生の頃、獣臭さでずいぶんとバスに酔ってしまった記憶があるが、あの探偵がきちんと手入れしているのだろうか。
そもそも、牛というのは酪農家以外が飼えるものなのか――
取り留めのない思考に身を委ねているうちに胸が軽くなってゆき、ほっと息を吐いたちょうどそのとき、ジープはだだっ広い駐車場に滑るように駐車した。
駐車場には、他にも何台か軽自動車が停まっている。
端のほうに観光バスが一台鎮座していたが、使われている気配はなかった。
どうやら、かつての賑わいの残滓であるようだ。
『ハカセ! この仏像、顔も目もいっぱいあるよ!』
『それは金剛夜叉明王じゃな。金剛夜叉明王は三つの顔を持っていて、正面の顔には目が五つ、左右の顔にはそれぞれ三つあるんじゃよ』
『ええ~っ、そんなにあったら目薬を差すのが大変だね!』
冬似は日記が収まった紙袋を手に、車から降りた。
雨はまだ霧のようで、傘を差すほどではない。
パーカーのフードを目深に被り、仁道を振り返る。
「ありがとな。焼くだけ焼いたら戻るから」
「気にしないでいい。ゆっくりしてきてくれ、彼女のためにも」
小走りに入場ゲートに入ると、チケット売り場の窓にかかっていたカーテンが開き、三十代半ばほどの男が顔を見せた。
本格的なドレッドヘアーにリーフ柄のアロハシャツという、文化にも時代にも季節に合わない出で立ちの彼は、片手に持ったハンバーガーを客に構わず頬張る。
チケットの受け渡しをする穴から、ハンバーガーの丸められた包み紙がいくつかと、食べかけのフライドポテト、結露の浮いたジュースの紙コップが見えていた。
ケチャップの染みがついた胸元には『総支配人』のバッジが光っている。
胡乱なこの男こそが、東京フレンドランドのオーナーであるらしい。
「こんちわ。あんたが黒川主さん? 大体の用意はしてあっから、火の後始末だけヨロシク。ま、いっそ燃えてくれたほうが金になるんだけどな」
男はへらへらと軽薄な笑みを浮かべ、冬似が名前の読み違いを訂正する暇もなく、入場チケットと鍵を出すだけ出してすぐにカーテンを閉ざしてしまった。
カーテンの向こうから、獣じみた咀嚼音が聞こえてくる。
冬似は眉を顰めながら、大枚をはたいて貸し出しを約束させた『メリーゴーランド稼働キー』と書かれたタグのついた鍵をポケットに入れ、園内を歩き始めた。
あちこちに、来園者の姿が見える。
際どい衣装を着たコスプレイヤーらしき女。
彼女をあらゆる角度から撮りまくっている男。
配信でもしているのか、スマートフォンに向かって喋っている青年。
パステルパープルのロリータファッションに身を包んだ少女。
そして、幸せそうに笑い合う若いカップルとすれ違い、冬似は盥一杯の苦虫を噛み潰したような顔になった。
――あの子は恋も知らずに死んだのに、俺はまだ生きてる。
カウンセリングと薬で三年かけて抑え込んできたものが、表に飛び出して暴れ狂うのを今か今かと待っているのを幻視して、大きく深呼吸する。
なるべく明るいことを考え、時には口に出しながら歩を進め、やっとメリーゴーランドに辿り着いた。
色褪せたテントの下に、やはり塗装の剥げた馬が佇んでいる。
入り口に置かれたドラム缶の中には薪が詰まっており、油の匂いがした。
名残惜しい気持ちが生まれてしまうより早く、そこに日記と、擦ったマッチを落とすと、きちんと火が点いたか確認することもせず、何かに追い立てられるように操作盤に稼働キーを差し込み、メールで指示された通りにボタンを押す。
メリーゴーランドが回り始めた。
全体が炎に包まれたように明るくなる。
がびがびとノイズが混じった音楽が鳴り響く。
バーに固定された馬が上下する。
ドラム缶に踊る炎を見つめながら、冬似はぼんやりと過去を想う。
リングネームとマスクを得た日、彼は本名と素顔を捨てた。
仕事で家庭を顧みない父親と、夫に愛されない人生を嘆くばかりの母親に、血が繋がっているだけの透明人間のように扱われてきた過去を脱して、マスク・ド・ウィンタニアとして生きることを決めたからだ。
リングの上では、誰もが平等である。マスクを被れば、尚更。
容姿も、体格も、年齢も、知識も、技術も、学歴も、貯蓄も、家族も、友人も、傷も、愛も、どれだけ持っていようと持っていまいと、レスラーとして最後にものを言うのは積み重ねた努力だ。
嬉しかった。
だからこそ、不倫相手に貢ぐ金欲しさに会社の金を横領した父親のせいで、ジムに押し寄せたマスコミや報道を見たファンに、呆気無く“一人息子の西蘭冬似”に戻された怒りは、本人にすら制御できるものではなかった。
家族と完全に縁を切るため、そして他ならぬ泰平プロレス社長の望みのため、彼と養子縁組をして黒川主という苗字を得たときでさえ無関心だった両親が、さも当然のように援助を求めてきたその態度も、火に油を注いだ。
代償を払わせてやろうと思った。
父親にも、父親を誘惑した女にも、その夫にも、その娘にも。
しかし、復讐は果たせなかった。
果たさなかった。
南羽夏萌に出会ったからだ。
夢を失い、自由を奪われ、母に捨てられ、誰にも守られず、褒められず、同じ年代の少女らしいことは何一つ叶わず、それでも誰も恨まなかった彼女に。
「……なっちゃん」
両手で顔を覆うと、瞼の裏に、今でも鮮明に彼女の姿を思い描ける。
それらは一つとして、幸福な記憶ではない。
幸せだった記憶は、すべて腐臭に塗り潰されてしまった。
もっと色んなものを与えてやりたかった。
もっと色んなところに連れて行ってやりたかった。
もっと色んな選択肢を見せてやりたかった。
彼女を愛していた。
恋愛対象ではなく、尊敬に値する一人の人間として。
だから、生きていてほしかった。
幸せになってほしかった。
夢を叶えてほしかった。
自分が、しくじりさえしなければ。
彼女は、そうなれていただろうか。
「……なっちゃん……」
ドラム缶からもうもうと煙が広がり、辺りを包む。
咳き込む勢いで俯いた先に、足が見えた。
人間の足。
それも、素足だ。
「ふゆちゃん」
そして、聞こえるはずのない声がした。
どっと噴き出した冷や汗を全身で感じながら、顔を上げる。
夏萌が、そこにいた。
「な……なっちゃん……?」
ほとんどウェーブパーマに近い赤茶色の癖毛。
父親似の、愛嬌のある顔立ち。
小動物のようなまなざし。
流行も好みも分からないまま冬似が贈った水色のワンピース。
見知った姿は、どこからどう見ても夏萌のものだ。
「私を憐れむのは、気持ち良かった?」
夏萌の痩せた手が、炎の中から日記を取り上げる。
燃えているページを捲るたび、荒れた指先が焼け爛れてゆく。
肉の焦げる臭いが鼻を刺した。
「見てよ、これ。字は汚いし、漢字も間違ってるし、文法も変。介護がつらいって何度も書いてるくせに、行政を頼る知恵もない。これで医者になるなんて、無理に決まってる。ほんと、救いようのない馬鹿女……そう思ってたんでしょ?」
日記を投げ捨て、夏萌がじわじわと近付いてくる。
冬似は思わず後退ったが、逃げようとは思えなかった。
目が離せなかった。
夏萌から。
自分の犯した罪から。
「……ねえ、私のことが好きなら、慰めて」
焼け焦げた指が、ワンピースの裾を取り、一気に胸までたくし上げた。
露になった乳房が、アイスクリームが溶けるようにずれ落ちる。
べちゃりと地面に叩き付けられた肉が、悪臭を放った。
「今度はちゃんと助けてね、ふゆちゃん」
夏萌が、やわらかく微笑む。
その唇の隙間から大量の蛆虫が這い出てきて、冬似は絶叫を迸らせた。




