二 分水嶺に佇みて
「こいつは俺からの快気祝いと手土産。そっちは会長からで、会長の奥さんから、社長から、社員一同から……あと、先輩から個人的に、あんたに」
まるでバーゲンセールの帰路のように両腕にいくつも提げていた紙袋をどさどさと床に置き、ひとつひとつ指を差し、最後に丁寧にラッピングされた小箱を八千斑に手渡して、マスク・ド・ウィンタニアは素顔に苦笑を浮かべた。
出会ったときよりは遙かに血色が良くなっているが、太い腕にはまだ点滴の針の痕が残っており、傷が痛むのか、姿勢が少しばかり猫背気味になっている。
「えらい量やな。いくらなんでも貰いすぎやで」
八千斑は最後に渡された小箱の中身――フィルム張りの蓋越しに見える、高価そうなアルミチューブのハンドクリームと、薔薇の刺繍が入ったハンカチ――には特に言及せず、入院初日に見舞いの品として贈った古典的なフルーツの籠盛りが、老舗有名店の菓子や、サラダ油やら洗剤やら日本酒やら、この世に存在するあらゆる詰め合わせに化けたことに、もともと大きな瞳をますます丸くしている。
「頼むから受け取ってくれよ。全員からさんざん怒られて、礼をするまで帰ってくるなってジム蹴り出されちまったんだ」
「そしたら有り難く頂いとくわ。お茶用意してくるから、好きなとこ座ってな」
紙袋をまとめて給湯室に運び終えた仁道は、そのまま部屋の隅に積み重ねられた座布団の上で香箱を組んで眠っている老いた三毛猫を落とさないよう、二段目のものを引っ張り出して座卓の前に敷いた。そして、先ほどまで自分が座っていた座布団を八千斑の座布団の隣に並べ直す。
「どうも。悪いけど、足、崩させてもらうぜ。傷が痛てえんだ」
「まだ塞がってないのか?」
「薄皮一枚ってとこだな。激しい運動はするなってよ」
胡座を掻いた足の間に、座布団の塔から下りた三毛猫が滑り込んで丸まった。
ウィンタニアが頭を撫でようと伸ばした手を殴り、黄色い目を細める。
猫らしく傍若無人な彼は、八千斑と同時期にここにやって来たという古株だ。
世にも珍しいオスの三毛猫ということもあり、里親は探していないらしい。
「それにしてもあんた、すごい筋肉だな。タッパもあるし、同業か?」
「いや、元刑事だ」
「へえ。どんなトレーニングしてる? 食事制限は?」
「特に。昔から、筋肉がつきやすくて」
「そりゃ羨ましいな。俺は食えば食うだけ肉になるタイプでさ……」
すぐに戻ってきた八千斑が、机越しに打ち解けた雰囲気で語り合う二人を微笑ましげに見ながら、白氷裂釉の汲出と、どこにこんなものが売っているのか、エルボードロップを決めるプロレスラーを象った細長い皿を並べた。
汲出には熱い緑茶が、皿には若鮎が横たわっている。
「お話し中に失礼。おもたせは間に合わんかって、すんませんなァ」
「ああ、気ぃ遣わせちまって悪いな。アポ取るつもりだったんだが……日持ちのしねえ菓子持たされちまったから、今日しか無くてよ」
「ええよ。気楽な暮らしや。気にせんといて、黒川主さん」
黒川主冬似。
マスク・ド・ウィンタニアの本名である。
八千斑と仁道はそれを、病室を訪ねたときに知った。
ちなみに彼の怪我は、登山中に足を踏み外し、崖から転がり落ちる最中、突き出た太い枝に腹を裂かれた……ということになっている。
「そんで、ここに来たからには聞かせてくれへん? なんで一杭山におったんか」
罪科を見極めようとするかのような鮮やかな金色の眼差しに射抜かれ、ウィンタニア――冬似は、傷の痛みに構わず居住まいを正した。
三毛猫が迷惑そうな顔をして起き上がり、仁道の膝に移る。
チャコールグレーのズボンが一瞬で毛まみれになった。
「……あんたらも日記、読んだんだよな?」
「読んだで。さすがにじっくり読み込んではおらんけど」
「だったら、俺のことは分かってるだろ。南羽夏萌の遠い親戚で、どうにかあの子を助けてやりたかったけど、逆鱗に触れて台無しにしちまった馬鹿な男さ……そんじゃ、まあ、話さなきゃならねえのは、なっちゃんが死んでからだな……」
冬似はそこで、しばし黙り込んだ。
酸っぱいものでも食べたように口をもごもごとさせる。
思い出したくないことを思い出している、そんな表情をしていた。
八千斑が図書館で当時の新聞を探して調べたところによれば、明記はされていないものの、夏萌の遺体の第一発見者は彼であると察せられた。
守れなかった事実に向き合う辛さは、当事者でなくとも想像に易い。
このまま答えられずに終わっても無理はなく、誰も彼を責めはしないだろう。
だが、やがてその双眸には、鮮烈な覚悟が宿った。
「俺は……なっちゃんにあんな死に方させちまってから、寝れねえわ、食えねえわで参っちまってさ。会長から後輩まで口を揃えて休めって言ってくれて、ジムの裏方で今の今まで平和に過ごしてたんだけどよ。先月、妙なことがあったんだ」
新人がいなくなった。
そう社長から聞かされたときは、よくある話だとしか思わなかった。
華々しい舞台で歓声を浴びるレスラーに憧れてプロレスの世界に飛び込んだ若者が、地味な練習や雑用、ショービジネスの側面を知って幻滅し、逃げ出してしまうのは、残念だがそう珍しいことではない。
翌日、部屋を片付けるために、社員寮として丸ごと借りているアパートに出向くと、見知らぬ青年が、動揺と恐怖をありありと浮かべた顔で声を掛けてきた。
「そいつは新人の昔っからのダチで、急に連絡がつかなくなったのを心配して会いに来たってんだが……話してるうちに、ぼろぼろ泣き出しちまって。泣きながら、言ったんだよ。『あなたは覚えてるんですか』ってな」
宥めながら話を聞いてやれば、曰く、大家から友人が夜逃げしたと聞かされて、慌てて彼の両親に連絡したが、うちに子供はいないと突っぱねられたのだという。
メッセージアプリで写真を送っても、知らないと戸惑われ、彼との思い出を話しても、からかっているのかと怒鳴られ――もちろん、そんなはずはなかった。
新人の両親は熱心なプロレスファンで、マスク・ド・ウィンタニアの在籍する泰平ジムに息子が入門するのを我が事のように喜んでいたのだ。
「でも、まあ……もしかしたら、何かの事情で絶縁でもして、息子はいないって言い張ってるってセンもあるだろ? とりあえず連絡先だけ交換して、部屋を片付けてたら……ベッドの下から、こいつが出てきた」
冬似がおもむろにパーカーのポケットから取り出したのは、猿の像だった。
巨大な乳房を両手で持ち上げて見せつけるような卑猥なポーズを取ったそれを座卓に置いて、困惑と嫌悪が入り混じった視線をそそぐ。
「……性癖ってのは人それぞれだからよ。親御さんに渡すのも酷だし、ひとまず預かって処分するつもりだったんだが、ふと、思い出したんだ。なっちゃんも最後に会った日、猿の像がどうこう、話してたなって」
地方巡業のために、数ヶ月、東京を離れたのが運の尽きだった。
孤独につけ込まれて心底“友だち”の虜になり、ほとんど妄信に近い信頼を抱いた夏萌は、貯金のほとんどをくだらないガラクタに費やしてしまっていた。
置くだけで病気が治る壺。
幸運に恵まれるアクセサリー。
飲めば寿命が延びる水。
そして、“何でも願いが叶うお猿さんの像と、セットで割引になる神棚”。
彼女を守ってやれなかった無念が蘇ってか、冬似は痛々しい自嘲で唇を歪めた。
猿の像よりは色の薄い赤毛をばりばりと掻き毟り、重い溜息をつく。
「……そのあと、新人のダチから、あいつができたばっかの彼女に貢ぎまくってて、置物だの数珠だの買わされてたって教えられてな。彼女の紹介で、一杭村で住み込みのバイトする予定だったって。それで俺は、そいつがなっちゃんを騙した女か仲間だろうって、頭に血が昇っちまって……で、バイトの日にちが分かったもんで、考え無しに突撃して、あんたらと会ったってワケ」
すっかり冷めてしまった緑茶を飲み干し、冬似は目を伏せた。
夏萌のことを思い出したせいか、顔色が悪くなっている。
相槌も打たず真剣に聞いていた八千斑は、気遣うように湯呑みに茶を注いだ。
揺らぐ湯気を、冬似はじっと見つめている。
「辛いこと思い出させてもうて。聞かせてくれてありがとうな」
「いや……構わねえ。これが何かに繋がるなら、話した甲斐がある」
「そしたら、こっちの話もしとこか? 夏萌さんに関する依頼のこととか」
不意に、冬似の目が泳いだ。
動揺ではなく、何かを探している視線の動きだ。
仁道は思い当たり、ポケットからスマートフォンを取り出した。
時計が表示された画面が見えるように座卓に置く。
本堂には、時計の類いが無かった。
「どうも。もうこんな時間か……押し掛けてきておいて悪いんだが、このあと用事があってよ。予約してるから遅れられねえんだ」
理由など話さずとも帰ればいいものを、スカジャンのポケットから取り出した四つ折りのチラシを、律儀に広げる。
A4サイズの紙に大きく観覧車の写真が載っており、その中央に“TOKYO FRIEND LAND”と、わずかに斜めになった太字のポップ体が虹色に輝いている。
その下にも何事か書かれているのだが、文字が小さいうえに色が写真が同化しており、八千斑も仁道も、それを読み取るのに、虫の観察でもするかのように顔を近付けなければならなかった。
あの東京フレンドランドが帰ってくる!
完全予約制で楽しみかた無限大♪
☆激エモフォトスポットで撮影会!
コスプレ大歓迎( *´艸`) 更衣室あり〼
☆映画やPVの舞台にも!
売れたら宣伝してネ(^_-)-☆
☆遊園地に泊まろう!
※キャンプ用具は貸し出しておりません(;´д`)ゞ
☆その他何でもご相談ください♪
詳細は公式サイトをChekk!! (σ´∀`)σ!!
……二人が揃って顔を顰めたので、冬似はまたも苦笑した。
「ここ、昔は普通に営業してたんだけど、オーナーが変わって……まあ、それはいいか。とにかく、一度だけなっちゃんと行ったとこでさ。何でもできるってんなら、なっちゃんの日記、焼こうと思ってよ」
「日記を?」
「ああ。若い女の子が、いつまでもこんなオッサンに日記持たれてたらイヤだろ? 葬式にも出れなかったし、俺なりに供養してやりたくて」
まだ紙袋があるとは思っていたが、夏萌の日記が入っているとは思わなかった。
その紙袋を手に立ち上がった冬似を、八千斑は呼び止める。
「黒川主さん、ここまで何で来たん? 自分の車?」
「タクシー。傷が痛てえんで運転にゃ集中できねえし」
「そしたら仁道ちゃん、送ってったりない」
仁道は、突然の指名に反応するより先に、投げられた鍵をキャッチした。
瑠璃色の珠のキーホルダーがついた、ジープのキーである。
「息抜きしよや、お互いに。ついでに下見してきて。おもろそうなとこやったら、今度みんなで行ってみてもええやろ」
仁道には、規模の大小関わらず、遊園地に行った経験はなかった。
本人の趣味嗜好として、行きたいと思ったこともない。
しかし、それでも――学校行事や仕事以外で誰かと出掛けるというのは、孤独を良しとしてきた人生には、魅力的に響いた。
「ああ」
短く返した声の語尾がほんの少しだけ弾んだ、気がする。




