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八千斑怪異探偵事務所  作者: 紐縁 椿四句
第四章 因果報いて
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一 雨牛に鞍置け

 もう何日も、小糠雨(こぬかあめ)が降り続いている。

 命の危険すら感じる暑さが嘘のように肌寒くなったのが嘘のように――天が面白半分に言葉遊びをしているかの如く、取り巻く空気はじっとりと生暖かい。

 バイドゥーリヤの巨体にブラシをかけてやり、お返しに毛繕いをしてくれているつもりらしい彼女に顔中を舐められながら、暮井(くれい)仁道(じんどう)は薄墨色の空を見上げた。

 落ちてくる雨粒は弱々しいものの、シャツを湿らせるには充分だったが、そろそろ衣替えをするつもりの仁道は気にしなかった。

 今日、帰ったら、クローゼットを整理して、夏物の服と真冬の毛布を宅配クリーニングに出して、秋冬用のシャツにアイロンをかけて――そこまで考えたところで、ふと、今の自分が、人間らしくありたいと悩んでいた頃よりも遙かに人間らしい生活をしていることに気付く。

 お前のような怪物が幸せなど感じてはいけない。だが死んでもいけない。

 祖父母に引き取られてから今まで毎朝、毎晩、仁道を蝕み続けていた自責の念は、徐々に薄らぎつつあった。

 ずっと抱え込んでいた秘密を吐き出せたからだろう。

 言わずもがな、八千斑(やちまだら)に。

 心配をかけたのだから理由ぐらいは話しておこうと、五月雨(さみだれ)よすがに。

 動物だからと蚊帳の外に置くのは不誠実だろうと、バイドゥーリヤに。

 そして、それで変わったのは仁道の意識だけではなかった。


『てめえのせいであってたまるか』


 仁道の昔話を聞き終えるなり、それだけ吐き捨てたよすがは、翌日、いつも以上に事務室に閉じこもり、更に翌日には、まだ“画面”というものを長く直視できない仁道のためだろう、SNSやネット掲示板、ブログ記事を印刷したものを小高い山にして、壁越しに鼻で笑ったのだった。


『見な。自分(てめえ)の一秒の楽しみのために他人様の一生を食い潰しやがるクソッタレどもがよ、ちょっと突っついてやっただけで大盛り上がりだぜ。こいつら、炎の大きさだけ見てやがるから、こっちの話を疑いもしねえ……』


 果たして仁道が紙の上に見出したのは、まさに阿鼻叫喚であった。

 よすがが何をどう突(・)っ(・)つ(・)い(・)た(・)のかは知らないが、今まで仁道を面白半分に誹謗中傷していた一般人や、ろくな取材もせず尤(もっと)もらしい記事を書いた記者や、訳知り顔でご高説を垂れ流していたブロガーや配信者やらが、謝罪したり、反省したり、開き直ったり、暴れたり、とにかく今までとは異なる反応を示している。

 そして、事件について詳しく知らなかったり、知っていても深く関わっていなかったり、誹謗中傷に心を痛めていたり、商機を見出したりした、善あるいはどちらかと言えば善寄りの人々の、


 蟇住(がまずみ)明綺羅(あきら)の遺言なるものを、なぜ真実と断定できたのか。

 真実だったとして、なぜそれが暮井仁道の罪になるのか。

 罪であり真実ならば、なぜ警察が正式に発表しなかったのか。

 それが暮井仁道を守るためなら、なぜ彼は今も責められているのか。

 被害者の少女は、なぜ抗議や訴訟ではなく誹謗中傷のみを行ったのか。

 彼女は、なぜ蟇住明綺羅ではなく暮井仁道を憎んだのか。

 なぜ、なぜ、なぜ、なぜ……


 無限の疑問が議論を呼んで、少なくとも、仁道が東京の街中を歩いているときに盗撮されたりひそひそと話題にされることは減ったし、自宅に誰かが押し掛けてくることは完全になくなった。

 人々が仁道に向ける感情は、ここ数日で確実に変わったのである。


 そして、そんな中で、八千斑はといえば、


「ああ、お疲れさん、ありが……いや、顔べっちゃべちゃやな。どんだけ舐められたん? 嫌やったら嫌って言わなあかんで。ほんまにもう、我慢ばっかして」


 やはり、出会ったときから何一つ変わらなかった。

 表情も、態度も、罪の映し鏡であるはずの顔立ちも、そのままに。

 輝くような美貌に陽気な笑みを湛えて、“仁道ちゃん”を見守っている。


「まあ、顔洗ってき。そしたら虫押さえにするから」

「こんな時間にか?」

「分かるやろ。なんぞ甘いもんでも食わんとやってられへんて」


 紙で埋まった座卓に顎を置いた八千斑は、笑顔を一瞬でげんなりと曇らせた。

 この一週間、おさちの手記の解読に悪戦苦闘しているのである。

 当然ながら読み物として書かれていないそれらの、悪筆、旧字体、歴史的仮名遣い、順不同の列挙、推測や偏見での穴埋め、聞き間違い、書き損じ、解読の必要が無い走り書き。さんざん苦労させられた果てに得られるのは残酷な現実だけとくれば、萎(しお)れてしまうのも無理は無い。

 解読に集中するために新規の依頼も受けておらず、仁道には、よすがの手伝いとバイドゥーリヤの世話、事務所の掃除、それから八千斑が、樽原哲人が成功報酬とは別に謝礼として送ってきた大量の高級食材を惜しげもなく消費してストレス発散に作りまくる三食を綺麗に平らげることぐ(・)ら(・)い(・)し(・)か(・)できなかった。

 もちろんこの事務所に仁道が大したことをしていないと思っている者はおらず、むしろもっと休めばいいというのが総意なのだが、無為に過ごすのが落ち着かないのだろう彼の自己肯定感の低さを鑑みて、何も言わないことにしている。


「よすがァ、なんか甘いもんあったっけ」

「あるけどよ、こんな時間に食って晩飯入るのか」

「おんなじこと言いよる。ええやんか、仁道ちゃんおるんやし」

「八千(やち)、てめえ、飯食わせも大概にしとけよ? てめえと違って、生きてるもんは食えば食うだけ太るんだからな」


 小窓越しの会話のタイミングを見計らったように、不動明王の足元で眠っていた黒猫が起き上がり、ころころと肥えた子猫たちを引き連れて庭に出ていった。

 庭に棲み着いたときは骨と皮ばかりだった母猫も、母乳が足りず死にかけていた子猫も、飯食わせ――よすがの造語であり、庇護対象に何か食べさせずにはいられない質(たち)のこと――の八千斑にかかれば、あっと言う間に健康そのものとなる。

 二人を置いて洗面所の鏡を覗いた仁道の顔にも、もはや悲壮の陰は見えない。

 うっすらと痩(こ)けていた頬に肉が張り、目の下に黒々と根付いていた隈が淡くなったのが自分でも分かって、仁道は喉の奥でちいさく笑った。


「お疲れさん。てめえにゃ心配ねえだろうが、晩飯もすげえから食い過ぎんなよ」


 顔を洗って戻ってきた仁道を、壁越しのよすがの声と、甘い香りが迎えた。

 返事をする前に、壁の向こうから気配が消える。

 以前、八千斑から教えられた通り、以前の持ち主が小規模なラブホテルにすべく改築した本堂は、人の気配すら察せられるほど壁の薄い部分と、バイドゥーリヤの声も届かないほど壁の厚い部分が混在していた。

 不在の空間に一応「ああ」と応えて、仁道は八千斑の向かいに腰を下ろす。

 手記が端に寄せられた座卓に、湯呑みが二つと、漆塗りの菓子盆が一つ。

 湯呑みには緑茶が注がれており、盆にはどら焼きが山積みになっていた。

 八千斑はそれを器用に銜(くわ)えたまま食べつつ、メモの束を手繰っている。


「休むんじゃなかったのか?」

「やふむほはううへへん(やすむとはいうてへん)。やふんほうひま(やすんどうひま)……」

「わかった。俺が悪かった。喉に詰まるぞ」


 室内だというのにアームカバーに覆われた手が湯呑みを掴み、しらじら湯気を立てる中身を意に介さず大きく傾ける。

 惨事は起きず、無事に飲み干された。


「はあ……休んどる暇あらへんわ。読めば読むほどけったくそ悪うてかなわんけど、読まなあかん。これ以上、猿聟(さるむこ)を野放しにでけん」


 猿聟とは、言わずもがな、あ(・)の(・)男(・)のことである。

 今のところ、おさちの手記のどこにも男の名前が見当たらないので、彼がある日を境に猿の顔を模した仮面を手ずから彫り、野湯に入るときも眠るときも外さなくなったという日記の断片から八千斑がそう呼び始めたのだった。

 最初に読んだ手紙に、若く美しい男だとわざわざ書かれていただけあって、隠したかったのは老いでも醜さでもなかったろうが、真相は知れない。

 きっと、碌(ろく)な理由では無いだろう。

 知ったところでますます“けったくそ悪くなる”だけだ。


「すまないな。俺も読めたらよかったんだが」

「気にせえへんの。言うたやろ、こんなん、ほとんど呪物や。素人がじっくり読んだら心が壊れてまう……何事も適材適所やで。荒事は仁道ちゃんに任せるし」


 仁道はどら焼きを一つ食べ終えてから、八千斑の湯呑みに急須で茶を足してやり、座卓の端に聳(そび)え立つ紙の山の一枚を何気なく手に取った。

 よすがが「あんな汚ねえとこに置いてたもんを直に触るな」と一枚ずつジッパーバッグに封入したそれは、解読不要を表す蛍光イエローの付箋が貼られている。

 手記を読むのは、これが初めてではなかった。

 どうやら、猿聟に気に入られたおさちは人体実験の過程や結果を日常的に聞かされていたようで、彼女が失われつつある人間性を振り絞って綴った、生き地獄を這いずり回る村人たちの悲鳴が聞こえるような文章は、恐怖を感じなくなって久しい仁道すら、薄ら寒いものを感じるほどであった。



  タケさん

   ずっと子宝に恵まれず あの男を信じてしまった

   相談に行ったその日にはお腹が大きくなっていた

   でも三郎さんは怒って

      どうして

    タケさんは不貞なんかしない

        タケさん

        タケさんに会いたい

         ぬか漬け教えてほしかったな

     実(みのる)さんも大好きだった

           実さん

            どこにいるの


   隆(たかし)ちゃん

    事故でなくした指が生えた

    他には何も起きない

    わからない まだ小さいから?


  三郎さんがおかしくなった

  タケさんと子供を返せってあの男に

  戻ってきたらお腹が大きく

  男の人だから産めなくて 柘榴(ざくろ)みたいに裂けて

     お腹の中から


  タケさん


   こわい


      実さんむかえにきて


    実さん

  忘れるな忘れるな忘れるな忘れるな忘れるな忘れるな

    私の夫

    私の大事な人

              忘れたくない



 絶望にのたうち回る彼女がそのまま文字になったような筆跡で記された残酷極まりない内容が、仁道の、最近あまり皺の見られない眉間に深い溝をつくる。

 それに気付いた八千斑は、彼の手からぱっとジッパーバッグを奪った。


「……可哀想やけど、細かいことは知らんでええ。おれらが知るべきなんは、御晴写(おはるのうつし)の呪いがどこまでのもんなんか、それだけや」


 知るべきこと。

 たとえば、使用者の抱える絶望が深いほどに、願いは歪むということ。

 対象が人間であれば、使用者が恐怖しているほど、人間性を失うということ。

 つまり、絶望と恐怖に支配されて御晴写に縋った者の願いは、叶わないのだ。

 南羽夏萌の、父の快復を乞う純粋な祈りが捻じ曲がり、南羽柊を飢餓に狂った異形へと変貌させたのも、彼女が絶望し、恐怖していたからであろう。

 そして、幼さゆえに待ち受ける地獄を知らない“隆ちゃん”がそうであったように、もしも絶望も恐怖も感じていない人間が願ったとすれば、どんなに間違っていようと叶うのだ。人間性――理性や、人たる形も損なわれずに。

 猿聟が、絶望しているはずがない。

 確実に一人は存在するだろう仲間が、恐怖しているはずがない。

 彼らが悪意を日本に、世界に向ければ、此岸は地獄と化すだろう。


「……しっかし、誰なんやろ。はなっから御晴写持っとって……そもそも、御晴写っちゅう名前を知っとって、片足引き摺っとるんなら月彦(つきひこ)しかおらんけど……おさちの言う終戦は第二次世界大戦やろし、そしたら還暦過ぎた年寄りや。醜男(ぶおとこ)やなかったけど、美形でもなかったらしいし。何より、こんな残酷な真似する人間やとは、師匠から聞いとらんのよな」


 八千斑の表情が、憮然と曇る。


「その師匠とやらに、もっと詳しく話を聞けないのか?」

「……いやァ、無理やなァ。会えへんから」


 曇った表情が、ますます曇る。


「会えない? それは……」

「や、元気やで、たぶん。殺しても死なんお人やし……師匠はなァ、御晴写と縁が深いんよ。ほんまは自分の手ェで解決したいやろに、呪いの根源がおはるの恨みなんかどうか分からん以上、縁のある人間が近くにおると危ないから」

「お前は縁が無いのか?」

「おれは……縁はあるけど、無いなァ」


 ますます曇った表情が、穏やかな笑みで撓(たわ)む。

 そこにあるのは、寂しさだった。

 仁道にはそれが分かった。

 その表情をつくった覚えがあったからだ。

 学生時代、教師や同級生に、なぜ祖父母と暮らしているのか聞かれたときに。

 自分のせいで、愛してくれるはずの存在に愛されなかった、とは言えず。


 あまり、見ていたいものではなかった。

 八千斑がそんな顔をするところは。


「……そうか。それなら、正体はとりあえず置いておかないか。この男が月彦であろうとなかろうと、分かれば止められるわけでもない」

「まあ、そらな。御晴写の呪いをどうにかするほうが先やわなァ」

「お前も少しは休んだらどうだ? こんなものにばかり触れていたら、頭だって鈍ってくるだろう。俺はまだ帰らないから、気分転換に散歩にでも出たらいい」

「……せやなァ。そうさせてもらおかな」


 仁道の真っ直ぐな優しさに、八千斑の顔に常の笑みが戻った。

 部屋の隅から竹の行李(こうり)を引っ張ってきて、座卓の上を片付けてゆく。

 仁道も手伝おうと腰を浮かしたとき、バイドゥーリヤの鳴き声が聞こえてきた。

 彼女が鳴くときは、人が来たときだ。

 通行人が広告を認識できなくなるようま(・)じ(・)な(・)い(・)を書き換えたと八千斑が言っていたので新規の依頼人ではない。穏やかな声であるから、不審者でもない。

 門から事務所を繋ぐ石畳に散る砂利を踏む足音が、近付いてくる。

 本堂の入り口に、巨大な影がぬっと立った。

 

 二人の目にまず飛び込んできたのは、燃えるような赤だった。

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