零 いかにして月は欠けたのか
その日、父親の後を継いで初めて社長室の椅子に腰を下ろしたとき、まるで一国の王として戴冠式を終えたような優越感と万能感、そして少しばかりの不安が一気に押し寄せてくるのを、白水宮玄海は感じた。
重厚なマホガニー製のデスクの引き出しからヒュミドールを取り出し、そこに神経質に並べられた葉巻を一本摘まみ上げ、横に収められていたシガーカッターも専用マッチも無視して、オイルライターで火を点ける。
そうして葉巻が先端からじりじりと灰になってゆくのを、玄海はただ眺めた。
それは、ただの儀式だった。
彼は、煙草を好んでいなかった。酒も飲まず、女遊びもしなかった。
そのため、昭和という時代を生きるにあたっては要らぬ苦労の連続だったが、たとえ勧められても、陰口を叩かれても、試してみることさえなかった。
決意していたからだ。
俺は決して、親父たちのようにはならない、と。
白水宮グループ――かつて白水宮財閥として、明治初期から貿易をはじめとしたあらゆる分野に手を伸ばし、その全てで輝かしい成功を収めてきたこの企業集団を、今や、日本で知らぬ者はいないと言っても過言ではない。
あらゆる分野というのは比喩でなく、文字通り、あらゆる分野である。
戦後には『犬も歩けば棒に当たる、人は歩けば白水宮に当たる』というのを持ちネタの一つにしていた三流コメディアンもいたらしい。
その発展と成功に最も貢献したのが、玄海の曾祖父であった。
第二次世界大戦のもたらした大混乱の大時化を乗りこなし、政府や軍部に重宝されるまでに至ったという彼はしかし、その精神に重篤な問題を抱えていた。
彼だけではない。
玄海より上の世代の人間は、男も女も、常にみな怯えていた。
彼らは特に、夜を恐れた。月を恐れた。猿を恐れた。
そして、恐怖から逃れるように、煙草を吸い、酒を呑み、女を抱いた。
「――玄海、よくお聞き。ずっと昔、おまえの曾御祖父様は、憑かれてしまったんだよ。猿の顔をした、恐ろしい悪魔に……」
同級生の少女から贈られた小さな猿のぬいぐるみを泥酔した父に引き裂かれた夜、慰めとともに、たった一度だけ教えてくれた祖母の言葉を、玄海は二十余年経った今でも一言一句違えず覚えている。
「悪魔は、この家に幸福をもたらした。うちの男衆に赤紙が届かなかったのも、誰ひとり戦火に巻き込まれなかったのも、やることなすこと成功したのも、ぜんぶ悪魔のお陰さ。でも、そんな上手い話があるもんか……いいかい、玄海。おまえは何も継いじゃいけない。成人したら、何もかも捨てて、すぐにこの家から出るんだよ。お祖母ちゃんと約束しておくれ……」
老いた肉体のどこにそんな力が残されていたのか、彼女は幼い孫の手を骨が軋むほど握り締め、白濁した双眸からぼろぼろと涙をこぼしながら、必死に懇願した。
だが、彼はこの通り、約束を守らなかった。
地位や名誉には、正直なところ興味は無かった。
だが、愛する妻と娘には、何不自由無い暮らしをさせてやりたかった。
この世界はまだまだ女に厳しいが、金と肩書きさえあれば、うわべだけだとしても、自由に、安全に、楽しく生きられるだろう。
だから、何一つ、白水宮を捨てることなどできなかったのである。
「――お父様、いらして? お客様がいらしたわよ、とっても大事な!」
控えめなノックに続いて聞こえてきた愛娘の声に、玄海は回想から覚めた。
懇意にしている企業の社長なり何なりが挨拶に来たのだろう。
灰皿を片付け、さっと身なりを整え、どうぞ、と一声掛ける。
ややあって、静かに扉が開いた。
それは、地獄への入り口だった。
「……なっ……おまえ、い、一体、どうしたんだ?!」
玄海の叫びは当然だった。
姿を見せたのは、彼の妻子である。
全裸だ。
二人揃って四つん這いになり、はあはあと荒い呼吸を漏らして舌を口から出し入れしている様は、まさしく犬そのものだった。
細い首に嵌められた首輪からリードが繋がっており、それを手にした何者かが部屋に入ってくるのを睨み据えて待った玄海はしかし、次の瞬間、妻子と同じように、惨めに床に這い蹲った。
見えない手に押さえ付けられているかのように、四つん這いのまま身動きが取れず、かろうじて首を上下することだけができる。
「――やあ、玄海。白水宮食品の社長就任、おめでとう。あんなに小さかった坊やが、こうも立派な男になったとは。部外者とはいえ、感慨深いものがあるよ」
まず、奇妙にねじ曲がった右脚が見えた。
次に、遊環の通されていない錫杖のような杖が。
滑稽なまでに寸法の合っていない紋付き袴が。
木彫りの猿の面が。
鳥の巣じみてぼさぼさと乱れた黒髪が。
「き……貴様、誰だッ! 妻と娘に……お、俺に、何の恨みがあって……!」
「あはは、自惚れちゃいけないなあ。君には何の恨みも無いよ」
「な、なら、どうして……」
「どうして、どうして、どうして。……まったく、君たちときたら、そればっかりだなあ。僕は同じ話をあと何回すればいいんだろうね」
猿の面を被った男は、杖を頼りに右脚を引き摺りながらデスクに辿り着くと、勝手知ったるとばかりにヒュミドールを取り出した。
慣れた手付きで、葉巻の先端をシガーカッターで切り落とし、マッチでゆっくりと断面を炙る。
そして四つん這いの妻の背に遠慮無く腰掛け、面を少しだけ上にずらし、さも美味そうに煙を燻らせた。
「僕が恨んでるのは、この白水宮家そのものだ。それも、ただ血を絶やせば満足するような、生半可なものじゃない。子々孫々、何十年先も何百年先も、白水宮の名を持つ人たちに、悶絶躄地の生き地獄に堕ちてほしいんだよ」
――だから、手を貸してきたんだ。
くつくつと愉しげに嗤う男を見上げ、玄海は祖母の言葉を思い出していた。
こいつが、曾祖父が魂を売ったという悪魔なのか。
その視線に何を察したか、男は手で蠅を追い払うような仕草をした。
「そんな目で見ないでよ。恨むなら、君の大伯父さんを恨むんだね」
「……お、大伯父……どの大伯父だ……?」
「え? ……あっ、そうか。酷い話だよねえ、普通、子孫には同じ苦しみを味わわせたくないと思うものなのに。僕の恨みが分散しやしないかと、犬猫みたいに産みまくるなんてさあ……君のお父さんなんか、十五男だよね?」
「……」
「ああ、それで、僕が言ってるのは、昊一のことだよ」
「昊一……」
白水宮昊一。
その名前を、名前だけを、玄海は知っていた。
彼は白水宮家のタブーだった。
第二次世界大戦が開戦するほんの数日前、恐怖のあまり国外に逃げてしまったという彼の存在を、曾祖父はあらゆる手を尽くして抹消し、一言でも話題に出す者がいれば、非合法な手段で口封じすらしたという。
玄海がそう話すのを聞き終えて、猿面の男は腹を抱えて笑った。
身体を揺らすたびに灰が妻の素肌に落ちたが、彼女は微動だにしない。
「そんなわけないじゃないか! 玄海坊や、真実を教えてあげるよ。昊一大伯父さんはね、僕の妻を孕ませたんだ。おまけに妻が、それを僕の子だって言い張ったもんだから……そりゃあ、殺すだろう? どっちもさ」
男の声は穏やかで、殺意は微塵も感じられなかった。
部屋に出た虫を潰したと話すのと変わりない温度である。
二の句が継げない玄海を置き去りに、男は饒舌に語り続ける。
「跡取りが庶民との不貞の末にかたわものに殺されたなんて、白水宮家からすればとんでもない醜聞だ。それで昊一の父親、君の曾祖父さんは、何をしたと思う?」
玄海は答えなかった。
答えられなかった。
男が立ち上がり、やにわに杖で彼の後頭部を殴ったからだ。
「……あいつは、僕を、生き埋めにしたんだよ! 昊一の屍と一緒に!」
男の全身から、憎悪が噴き出した。
餅でも搗くように、杖の先端を玄海の背に打ち付け始める。
一打ごとに肉が抉られる痛みに、玄海はただ呻くしかない。
「っ、ぼ、僕は、暗くて狭い棺の中でッ! 憎い男の腐肉を啜って生き延びたんだ! さ、三十年……三十年だぞ?! 僕は被害者なのに! 悪いのは、あの犬畜生と、あの売女だろうがッ! 僕、僕が……僕があああ! 僕が何をしたって言うんだ! 言ってみろ! 玄海! 言え、言え、言ええええ!!!」
やがて男が正気付いた頃には、玄海はほとんど意識を失いかけていた。
背中が焼けるように熱く、激痛のあまり吐き気が込み上げてくる。
しかし彼を追い詰めたのは苦痛ではなく、自分がこんな目に遭っているというのに、妻も娘も犬の素振りを止めずに虚空を見つめていることへの恐怖だった。
男は肩で息をしながら、玄海の背中を驚くほど優しい手付きで撫でる。
「……ああ……すまない、坊や。でも、分かっておくれ。君だって、僕と同じ目に遭ったら、きっとこうなるはずさ」
「……わ……わかった……わかりましたから……」
「うん、ありがとう。それで、今日ここに来た理由だけど……手伝ってほしいんだ。君のお父さんや、お祖父さんみたいに」
「……な……何を……」
「呪いたいんだ。何の罪も犯さず、日々を懸命に生きる人々を。呪ってもらいたいんだ。僕の妻を……おはるを。不幸を招いた淫らな魔女として……そして、神仏すらも見捨てた美しい怪物を、僕だけが受け入れてあげるんだ……」
恍惚と、男は天を仰ぐ。
その左手の薬指に嵌められた、固めた血を切り出したような赤黒い指輪が、電灯を反射して禍々しく光っている。
痛みと恐怖の中で、玄海は、どうかこれが悪夢であってくれと祈った。
だが、どれだけ祈っても、神も仏も、少なくとも今この瞬間は不在だった。
「これからよろしく頼むよ、玄海……でも、安心しておくれ。僕だって鬼じゃない。お手伝いは、ほんの少しの間だけ……君の血が絶えるまでだからさ」
それはつまり、永遠ということではないか。
玄海は絶望の底で、もう一度だけ、神に祈った。仏に祈った。
しかし、誰も助けてはくれなかった。




