二 大海に賽二つ
住宅街と農地を隔てる川の農地側、低い山の麓にひっそりと建つ寺がある。
縁緑寺――ややこしい名前を持つこの寺は、鬱蒼とした森を貫く長い石段を上り、堅牢な築地塀に支えられている年季の入った棟門をくぐるまでは、寺と聞いて人が思い浮かべる寺の風景をしているのだが、その先はまるで異なる。
七堂伽藍など知ったことかと、草花が好き放題に生い茂る広い敷地に、本堂にしては大きな建物のひとつきりがぽつんと建っているだけなのだ。
八千斑と名乗った男――なのかどうか、容姿からも声からも判別できなかったので、仁道は口調から、夏芽は体型からそう判断した――は、罰当たりなことに、その寺院らしきものを事務所にしていた。
本来ならば僧侶が座る位置に置かれた座卓で、木彫りの不動明王に見下ろされながら持て成されるという居心地の悪さに挙動不審に辺りを見回している夏芽に対し、いかにも騙されやすそうな彼女を心配して同行した仁道は、警戒心と不信感を隠そうともせず八千斑を睨んでいる。
「いやァ、お二人さん、お暑いなかご足労いただきまして。素直に付いてきてもらえて感激ですわ。こないだなんか、ご家族を説得しとる間に息子さんが風呂場で全身蛆虫……や、言わんといたほうがええか。金輪際、煮魚が食えんようなりますでな……おれは食えるけども。わはは」
八千斑は、聞けば聞くほど胡乱な口調――関西弁のようだが、端々の言葉選びやイントネーションが、俗に言う大阪弁とは違うように仁道には感じられた――で饒舌を振るいつつ、座卓に二人分、蓋付きの汲出と豆皿を並べた。
汲出に薄墨で描かれた丸まって眠る三毛猫と、桃色の和紙に包まれた饅頭が載せられた、魚の形の豆皿に、夏芽はほんの少しだけ心を和ませる。
警戒心より喉の渇きが勝った彼女が蓋を取ると、緑茶に氷が浮いている。
ひとくち啜れば驚くほどに、茶の甘みと香りがふくよかに広がった。
つい飲み干してしまった夏芽の横で、仁道は視線を向けてさえいない。
「すんませんなァ。グラスでアイスコーヒーでも出したいとこなんですけど、うちの事務さんは日本茶に凝っとるもんで。あんなん煮豆の汁や言うて……あ、せや、そういや、名刺だけやと不親切やんな。うちのチラシも見せときますわ」
またしても奇術めいた手付きで、A4サイズの紙が座卓に出された。
紙には手書きの美しい筆文字で、
八千斑怪異探偵事務所
人智の及ばぬお悩み大歓迎
・視えるはずのないもの
・存在するはずのないもの
・説明や証明ができないこと
・ご自身の正気を疑うようなこと
等々 お気軽にご相談ください
住所は下記の地図の通り
年中無休 事前予約不要
ご不安の場合はお電話を
~探偵助手募集中~
経歴・経験・年齢・性別など考え得るもの全て不問
恐れ知らずの方をお待ちしております
と、あった。
しっかりと読み込むまでもなく、怪しいことこの上なかった。
夏芽はすでに汗だくの背中に、嫌な汗が滲むどころか滝のように流れているのを感じ、そのまま土下座に移行するのではないかというほどに俯きながら、場の空気に呑まれて従ってしまった迂闊さと、知り合ったばかりの人間を巻き込んでしまった罪悪感に小柄な身体をますます縮こまらせている。
混乱した頭でどうにか考えることができているのは、彼あるいは彼女が本当に探偵なのかという一点だけだが、
「……あっ、あの、わたし、聞きたいことが……」
「はいはい?」
「えっと、八千斑さんは……」
「はい?」
サングラスの奥から自分を見ている目が、捕食者さながらに獰猛にぎらついているような被害妄想に襲われ、
「その……ハマスゲですか、シャツの刺繍……」
「おっ、よお分かりましたなァ。草花がお好きで?」
「あ、はい、ペットが食べちゃいけない草とか、覚えなきゃなので……自然と詳しくなりまして……あは、あはは……」
聞けるはずがなかった。
視線すら合わせられない。
しかし、夏芽が緊張しているのは、今まで彼女の人生には登場しなかった人種と相対しているせいでもある。
つややかな濡烏の、腰のあたりまで伸びたストレートヘア。
花火のような構図で浜菅の花穂の刺繍が両方の胸元に散りばめられたシャツ。
半袖から伸びた細い腕は黒いアームカバーで指先の少し下まで覆われている。
髪から靴まで、刺繍以外は真っ黒だが、均整の取れた痩躯と、黙っていれば謎めいた雰囲気には合っていた。
そんな格好をして、直射日光を浴びながら同じ距離を歩いてきたにも拘わらず、白い肌には汗の一滴も見当たらない。汗の匂いもしない。それどころか、動くたび、かすかに沈丁花に似た香りがする。
気になるところは多いが、何よりも目を引くのは、その顔のつくりだった。
淡いグレーレンズのサングラス越しでもなお、美しいとしか言い様が無く、それでいて、人形じみた無機質さも、整形手術のそれのような違和感も無い。
性別も年齢も超越しており、恐らくは日本人だろうということしか分からない。
あまりに整いすぎているせいか、芸術品を見せられているような心地になって、嫉妬すら湧いてこない。
無い無い尽くしの、しかし血の通った美しさである。
「お嬢さん、ずいぶん悩んどりますなあ。まあ、お気持ちは分かります。おれみたいなけったいなもん、知り合うたばっかで信用なんかできませんわな」
図星を突かれて黙り込んでしまった夏芽を気遣ってか、八千斑は明るく笑った。
「それじゃァ、報酬については解決を以て、ってことでどうです? 細かい経費は請求しませんし、契約書は必要最低限で結構。あの家の敷地に入ってもええって、それだけ言ってもらえたら……」
「……さっき、もう入ってなかったか?」
ここに来て初めて、仁道が口を開いた。
問い掛ける声は地を這うように低く、凄味が利いている。
彼の反応を見るためだろう。
「ああ、そらァ……聞こえてしもたんで。いくら通りすがりや言うても、自分の領分で困っとる人がおったら声のひとつも掛けますわな」
しかし八千斑は飄々とした態度を崩さず、仁道に守られているはずの夏芽のほうが、ずっと怯えた表情をしている。
「届出はしてあるのか? 従業者名簿は?」
「ぜェんぶ揃っとります。見せましょか」
「標識はどこだ」
「表に出しとりますけど。寺額の横。もうちょい大きしといたほうがええかな」
女子供どころか大の大人すら震え上がらせそうな強面を、眉間に皺を寄せてますます恐ろしげに歪め、自称探偵を訝しげに睨み続ける仁道に、身を竦ませもせず、平静を装っているふうでもない八千斑はわざとらしく肩を竦める。
「ここまで言うたんに、まァだ疑っとる顔やなァ。しゃあないけど。そんなら、そちらさんが手伝ってくれたらええんとちゃいます?」
「はあ?」
「元刑事なら経験豊富やろし、無職やったら働いても何の問題もあらへんしな」
「おい、どこから聞いて……」
「鍋島さんも、知っとる顔がおるほうが安心できるもんな?」
「へぇっ?!」
急に話題を振られて素っ頓狂な声を出す夏芽に、八千斑は「なァ?」と、単に同意を求めているのか脅しているのかよく分からない声色で行き止まりに詰める。
夏芽は猫を噛むこともできない窮鼠に成り果てて、勢い余って眼球が取れるのではないかと心配になるほど目を泳がせてから、頷いた。
「よっしゃ! そしたら鍋島さん、詳しい話、聞かせてもらいましょか。そちらさんはこれ書いといて。なんかあったら責任取るから安心してな」
勝手なことを言われて腰を浮かしかけた仁道だが、夏芽の色々な意味で縋るような目と目が合ってしまい、無言で座り直した。
ここまで関わっておいて見捨てるのは寝付きが悪くなりそうだし、腹立たしいが、八千斑の言う通り、自分は無職である。今日も明日もその先も、何も予定が無い。それどころか、これから生きてゆく目的も、目標も……意味も、理由も、価値も、何も無いのだ。
溜息をついて、胸ポケットに挿していたボールペンを取って『調査中に発生したすべてを保証いたします 八千斑』とだけやはり筆文字で書かれた書類に署名すると、八千斑の目の前に投げ付けるように滑らせた。
「ほー、暮井仁道……仁の道かァ、ええ名前やな。じゃあ仁道ちゃん、今日一日よろしゅうな。聞き次第、調査行こか」
緊迫感を微塵も感じさせない笑顔の眩しさに、荒波に放り込まれた小舟の気分になって、仁道はまた溜息をついた。




