三 悲嘆の檻
夕焼けに赤く染め上げられた町並みを、日に焼けた子供たちが駆けてゆく。
防災無線から流れる夕焼け小焼けと蜩の鳴き声が重なり、むっとした陽の名残に、どこかの夕食の匂いが混じる――そのテンプレートな望郷の空気が、もう誰も帰ってこない場所の物悲しさを際立たせている。
玄関ドアの錆びた鍵穴と格闘している八千斑を尻目に、仁道は燃えるような真紅の中に佇む一軒家を見上げた。
風雨に薄汚れ、蔦に覆われ、窓ガラスが割れていたり露骨に荒らされていたりするわけでもないのに、どこか不気味なものを感じる。
事故物件ということを知らずとも、常人であれば、本能的に何かを察して近付かないだろうという雰囲気。
だが、自分はそう思わない。そう感じない。
仁道は、それが刑事としての長年の経験から来るものではないと知っていて、眉間の皺を、皮膚に跡が残りそうなほどに深めた。
虚空を睨み付けている仁道のもとへ、ようやく鍵穴に打ち勝った八千斑が寄ってきて、ジャケットのポケットに夏芽から預かった鍵を勝手に滑り込ませた。
やめろとも何とも言わないことに首を傾げ、彼の顔を見上げる。
「開いたで。どないしたん、体調悪い?」
「……大丈夫だ」
「ええならええけど。しんどなったら言うんやで」
八千斑がプッシュプルハンドルを引くと、玄関ドアがひどい音を立てて軋んだ。
開け放たれたドアの向こう側に広がる暗闇は、怪物の口を覗いているようだ。
二重の意味で、空気が一変した。
「えーっと、鍋島さんから聞いた話によると、住んどったんは南羽柊と娘さん。新築やから前の居住者はおらん。三年前、認知症で要介護の南羽柊が徘徊で行方不明ンなって、責任感じた娘さんが二階の子供部屋で首吊り。親戚連中は絶縁状態で疎遠やったから言うて、適当な業者に丸ごと託したわけやけど……」
「これは……買ったほうも売ったほうも、悪質業者だな」
壁紙も柱も黴だらけで、あらゆる角に蜘蛛が巣を張っている。
家具はどれも動かされた形跡が無く、地層じみて分厚く埃を被っている。
フローリングは踏むたびに不穏な音を立て、黒く変色して異臭を放っている。
三年でここまで荒れ果てるとは思えないが、実際こうなっているのだし、それを差し引いても、売りに出せる状態でも買わせられる状態でもない。
舞い上がる埃と黴臭さに反射的にジャケットの袖で鼻を覆った仁道に対して、八千斑は慣れているのか、内側が腐って剥がれかけた壁紙を平然と眺めている。
「鍋島さん、患者の紹介で買うたって言っとったな……怪しい壺とか買うてまうタイプやな。心配なるで」
「……確かに、現に胡散臭い探偵に引っかかってることだしな」
「おーおー、さっきから言うやんけ。まあ、否定はせェへんで」
八千斑は顔を顰めすらせず、細身の黒いズボンの太腿にベルトで留められたケースから長方形の白い紙を束で取り出した。
いわゆる“お札”にしては文字も絵も紋様も書かれていないそれを、路上の壁に広告でも貼るようにぺたぺたと貼り付けてゆく。
「それは?」
「これェ? んー、何ちゅうたらええんか……この家から、膜を一時的に剥がすためのもんかな」
「膜?」
「めっちゃくちゃ適当に話すと、衆生の世界――此岸の周りには、煉獄っちゅう空間があってやな……」
八千斑は埃の積もった固定電話の横に置かれた、牛乳パックに折り紙を貼ったペン立てから筆ペンを拝借すると、紙の一枚に筆を走らせ、仁道に手渡した。
書道の手本にでもなりそうな達筆は、広告と同じ筆跡である。
「人は死ぬと中陰……簡単に言ってまえば、幽霊になる。生きとるもんが中陰に気付かんのは、お互いに膜一枚隔てた場所におるからや。なんで壁って言わんのかって、何かの影響で薄いとこができたり、穴が開いたり塞がったりするでな。それに膜やったら霊感で透かして視れるンも納得やろ? 壁って、そんなん御船のお嬢さんやあるまいし」
淀みなく説明しながら廊下に出て、異臭を放つねばついた汚れが靴底にへばりつくのに構わず、あちらの壁へ、そちらの柱へと紙を貼る。
「普通、中陰になりゃァすぐにお迎えが来て、三途の川に行く。そっから裁きを受けて極楽か地獄に行くもんやけど……未練が強すぎると魂が煉獄に焦げ付いて動けんようになってまうん。無理に引っぺがすと魂に傷がいって来世に関わるし、どこまで干渉してええもんか線引きが難しすぎるしで、お迎えも手を拱くしかないんよ。そういう中で他人様に害を為すやつが悪霊、そのうえ正気も人間の形も無くしてもうたんが怪異って感じやな……あ、ちなみに“煉獄”はおれたちが勝手に呼んどるだけ。もともとはカトリックの概念やでな」
仁道は頷く以外に相槌を挟まず、疑問すら投げ掛けず、ただ聞いている。
八千斑が、かつて幾度となく対峙してきた自称霊媒師や新興宗教の関係者と同類なのか、あるいは本物なのか見極めるために。
「煉獄におる中陰は此岸の衆生に触れんくて、逆も然りなんが絶対的なルールなんやけども。つまり此岸に中陰が行けば……ってことよ。触れる場所に生きとるもんがおったら、ちょっかいかけるんは当然やわな。で、今回は中陰が此岸で悪さしとるんは確実やけど、どこにおるんか、どんな奴なんかは分からへん。探しとる間に此岸に来られたら、もしそいつが悪意まみれの怨霊やったら――みんな何もできんで殺される。やから、この敷地だけ膜を剥がして、此岸と煉獄の境目を無くす。最初っから同じ土俵に立てるようにしとくわけ……どない? ついてこれとる?」
大量の情報を一気に脳に流し込まれて、仁道は軽く頭痛を覚えたが、内心で抱いた感想は『よくもここまで舌が回るな』だけだった。
八千斑の語り口は難解だったが、こちらを混乱させて丸め込もうとしているふうでも、恐怖心を煽るふうでもなく、表情も声色も、最初に出会ったときと少しも変わっていなかった。
違う世界を見てしまっている狂人という可能性もあるものの、書類の写しに目を通した限りでは、公的に認められている探偵であるのは事実だ。
それに、金銭も詳細な個人情報も求められていない現段階では、夏芽に何の害も無い。仮に後日、彼女の病院にでも押し掛けてくるようなら、出せる証拠はいくらでもある。
「……なんとかな。霊感商法でオカルトは慣れてる」
「嫌やわァ。鍋島さん引っかけそうな輩と一緒にせんといて」
ところで、先ほどから好き勝手言われている夏芽はどこにいるのか。
彼女はここまでの道中で着信があり、鍵だけ預けて病院に急行していた。
今日は休診日のはずだが、急患が出たらしい。
ちゃんとした患者ならともかく、言い方は悪いが、金も感謝も何も返してくれない野良猫のために私生活まで費やしている優しさと苦労を思えば、心を軽くできるものを一つは見つけなくてはならないだろう。
仁道は八千斑への諸々の感情を頭の片隅に押しやって、代わりに、二時間前までの自分――刑事としての精神を引っ張り出してきた。
「その紙を貼る以外にすることは無いのか? 関わるものを探すとか」
「せやなァ。鍋島さんを悩ませとる奴が、この家と全く無関係っちゅうこともあらへんやろし。でも意外に広いわ、この家。こっちはしばらくかかるで」
「それなら、俺は探すほうに回る。お前はそれを頼む」
「おっ、仁道ちゃんは理解でけんもんでも否定せえへんタイプか。ええなあ、ほんまに助手ならん?」
ころころと笑いつつの軽薄な勧誘を無視して、仁道はまず、家の奥まで進んだ。
電気は通っていないが、窓から射し込んでくる夕陽のおかげで懐中電灯の類いはまだ必要なさそうだ。
赤みを帯びたオレンジ色に禍々しく染まる廊下が巨躯の重みに悲鳴を上げるのを無感情に聞きながら、リビングの棚の引き出しを探り、キッチンの食器棚から冷蔵庫まで開く。書斎の本棚を一冊一冊、物置に残された小物を一つ一つ、細かく確かめ、風呂場やトイレまで覗いた。
取りこぼしたくなかったからだ。
どうにかしてやりたかったのは、夏芽の悩みだけではなかった。
先ほど八千斑が父親の名前しか出さなかったのは、夏芽が近隣住民に聞き込んだ範囲で、娘の存在がぼんやりとしか把握されていなかったからである。
近所と交流すらできないほどに追い詰められていたのだろう。壁や家具のあちこちに『開けないで』『一人で使わないで』『買い物は相談して』など、今にも泣き出しそうに震える文字で注意書きが貼り出されている。リビングのカレンダーにはびっしりと病院や服薬の予定が書き込まれ、テーブルには認知症に関する書籍が山積みになっていた。
このまま何も解決せず夏芽が逃げ出せば、悪い噂が一人歩きしていくことは目に見えている。
父娘の苦しみは、無責任な傍観者たちに尾鰭をいくつも連ねられて、面白おかしく消費されていく。たとえば、実は父親は娘に殺されたのだとか、娘は悪霊になって家に憑いているだとか――よくある話だ。あってはならないというのに。
静かな怒りを溜息に変えて吐き出し、仁道は階段を上がった。
廊下を見渡してから一番手前の部屋のドアを開き、顔を顰める。
「何だ、これは……」
思わず声を漏らしたのは、そう広くない部屋の半分を占めて、巨大な仏壇が鎮座していたからだ。
家具の様子からしてここが娘の部屋、つまり彼女が首を吊ったという子供部屋なのだろうが、学習机とベッドの他には仏壇しかない――いや、仏壇であるかも定かではない。
形はそのものだが、ペンキに漬け込んだように何から何までが鮮やかに赤く、閉ざされた内扉には南京錠がかけられていた。
「ずいぶん罰当たりな真似しよるなァ」
足音も気配も無く肩の後ろから覗き込んできた八千斑が、自分もそうとう罰当たりな事務所を構えているのを棚に上げて、南京錠に手を伸ばそうとする。
細い黒髪が剥き出しの頭皮に当たってこそばゆく、仁道は軽く手で払った。離れろという意図も込めて。
執拗に潰された鍵穴を認め、仁道は手に南京錠を握り込む。
ややあって握り拳の中から、ばき、と硬いものが割れる音がした。
分離した掛け金と本体とが床に落ち、八千斑が目を丸くする。
「えっ、なに、プラスチックとかやった?」
「たぶん百均だろう。何度も外してきたから慣れてる」
「はー、心強いわ。でも金属は金属やろ。怪我しとらん?」
「……平気だ」
手に触れてこようとする八千斑の手をふたたび軽くあしらい、仁道はらしくない感傷にこぼれかけた溜息を飲み込むと、それを誤魔化しでもするように、躊躇せず扉を開いた。
中には位牌も仏具も無く、須弥壇に祀られていたのは、仏ではなかった。
仏壇と同じく赤色の、素材の分からない彫刻は、生まれたばかりの赤ん坊ほどの大きさで、猿の頭を持つ女の姿をしていた。




