一 四辻の邂逅
蝉が鳴いている。
大粒の汗が、こめかみから顎へと伝って、地面に滴り落ちてゆく。
暦の上では残暑であるが、その残っている暑さが尋常ではなかった。
熱気で強調された日焼け止め特有の臭いに胸焼けじみた不快感を覚えながら、ペットボトルの表面にびっしりと浮かんだ結露でアームカバーが濡れるのも構わず、まだ半分以上ある中身を一息に飲み干す。
温くなったスポーツドリンクはぼんやりと薄ら甘く、清涼飲料水とは名ばかりで、何の爽快感ももたらしてはくれなかった。
体育座りをした膝の間に額を埋めて、年若い女――鍋島夏芽は溜息をつく。
「わたし、何してるんだろ……」
空気が抜けていく風船のような、長い長い溜息の終わりとともに顔を上げた彼女の視線の先には、家が建っている。
庭がかなり広い以外は平凡な、和洋折衷の一軒家だった。
空き家になってからそう短くない年月が経っているらしく、塗装のくすんだ外壁には蔦が這い、広縁の掃き出し窓のガラスは砂埃と蜘蛛の巣にまみれている。
その窓の向こう、フローリングの廊下に、ドライフードや水で満たされたペット用のカラフルな餌皿が、いくつも並べられていた。
用意したのは、彼女である。
ここ二ヶ月、毎朝、毎晩。
「でも、警察には行けないしな……」
独り言に応えるように、錆びた門扉が軋んだ。
不愉快な金属音は嘲笑じみて響き、安物のアウトドアクッション越しに小石が尻の肉に食い込む地味な痛みも相俟って、気分はますます落ち込んでいく。
何度目かになる溜息が、蝉時雨に虚しく掻き消される。
孤独を自覚して、無力感が膨らむ。
どうしようもない現実に、鼻の奥がつんと痛くなる。
涙がこぼれそうになったそのとき、丸まった背中に、
「大丈夫ですか」
気遣わしげな声が掛けられた。
廃屋とはいえ、民家の庭に何時間も座り込んでいるのである。
通りすがる人々はこちらの事情を知る由も無いのだから、不審がられても、何なら警察に通報されてもおかしくはない。
夏芽は慌てて目元をアームカバーで拭って振り返り、警戒心を持たれないような明るい表情を取り繕おうとしたが、唇が引き攣って、両方の口角だけが吊り上がった不気味な笑みを見せつける羽目になってしまった。
そんな醜態を晒したのには、もちろん、理由がある。
門扉の外側、つまり道路のほうから、男が一人、様子を窺うように覗き込んでいるのだが、彼女が座っていることを加味しても、首が折れそうなほどに見上げなければ視線が合わない背丈は、恐らく自動販売機を超えている。
年齢は、三十代後半といったところだろうか。不惑には達していまい。
この暑さにも拘わらずきっちりとネクタイを締めたチャコールグレーのビジネススーツの上からでも、胸から腰にかけて括れが無く、手足が太いのが分かり、見せ掛けではなく実用的に鍛え抜かれた筋肉の存在を感じさせた。
そして、とどめのように、産毛の一本も見当たらないスキンヘッドと、その長身巨躯が陽光を遮って作った逆光が、三白眼気味の鋭い目付きを際立たせている。
不審者を気遣うぐらいなのだから悪人ではないのだろうが、自他共に認める小心者である夏芽の、蚤の心臓を破裂させかけるには充分すぎる容姿だった。
「……すみません。驚かせてしまったようで……」
飛び出してきた野生の熊でも見るような目で見られているのを察してか、男は申し訳無さそうに太い眉を寄せ、禿頭を下げた。
夏芽は、下心を全く感じさせない穏やかな声色にほっとすると同時に、手入れの行き届いたスーツの清潔感や、目付きの悪さを差し引いても男性的に整った顔立ちに、今の自分の姿の滑稽さを思い出してしまった。
サンシェードのついた帽子に、真っ黒なサングラス。うなじまで覆えるフェイスガード、十年以上かけて着潰してなお愛用している高校指定の紺色のジャージ上下。誰にも会わないのだからと顔には日焼け止めしか塗っていない。
暑さにかまけた自分を呪いながら、サングラスとフェイスガードを毟り取るように外しつつ、夏芽はほぼ垂直に飛び上がるように立ち上がった。
「あっ、こっ、こちらこそ! すみません! ひどい格好で! あ、あの、わたし、怪しい者では……いや怪しすぎますよね、でも、その……な、鍋島夏芽といいます。じゅ、獣医、あっ、院長やってます、そこの病院で……」
羞恥と焦り、暑さで火照った顔をますます赤く染めて、声を上擦らせながらあたふたと指差した先、建ち並ぶ民家の何軒か向こうに『あたらびペットクリニック』と書かれた看板だけが飛び出している。
――ちなみに、あたらびというのはここ一帯の町の名前で、可惜日と書く。
東京都に属してはいるが、都心に行くには車でも電車でもそれなりに時間がかかるし、のどかに広がる田畑には猪やら狸やらが頻繁に出て、季節に拘わらず朝から晩まで鳥か虫が鳴く、令和以前で時間が止まったような町である。
それでも、昔ながらの商店街があり、古ぼけた映画館があり、小さなゲームセンターがあり、一軒きりだがコンビニもあり、不便でない程度には発展しているため、東京にいたいが都会に住みたくない、田舎暮らしがしたいが本当の田舎は嫌だ、という移住者がさいきん増えてきている。
閑話休題。
容姿の威圧感に自覚があるのだろう男は、怯えきった小動物を相手取るように、限界まで背中を丸めて夏芽と目を合わせようとしたが、同じ高さでものを見るには、あまりに身長差がありすぎた。
だが、相手に不安を感じさせないようにしたいという姿勢だけで、地味な容姿と臆病さゆえに異性に軽んじられてきた彼女に好感を抱かせるには充分だった。
「私は暮井……仁道と申します。一時間前までの話ですが、刑事でして……警察に頼れない、というふうに聞こえたので、つい、先走ってしまいました」
一時間前ということは、当然、辞めたばかりということだろう。
夏芽は、男――仁道が、片手に鞄と一緒に提げている花束に目をやった。
自分が独立したときの、恩師から友人、後輩まで交えた気恥ずかしくなるほど豪華な送別会を思い出して、思わず視線がいってしまったのだ。
何せ、花束はそれなりに大きかったが、適当に買ってきたのかと勘繰るほど花の取り合わせがちぐはぐで、よく見れば萎れかけており、そのうえ刺さっているカードには、最初から印刷されている『お疲れ様でした!』以外には、メッセージどころか彼の名前すら書かれていなかったのだから。
「あの……?」
訝しげな声に我に返り、初対面の相手を勝手に憐れんでいる自分に気付いて、夏芽はふたたび飛び上がった。
「あっ、ごめんなさい! ええっと、け、刑事さんだったんですね! わたしのおじいちゃんも警察で働いてて、だから迷惑かけそうで相談できなくて……その……大丈夫です! お手伝いしてもらうにも、自分でも何が何だか分からなくて! の、野良猫のご飯を、猫じゃないものが食べてるかも~! だなんて、頭のほうを心配されそうなんですよねえ~! あはっ! あはは、あは……はあ……」
どうやら、パニックになればなるほど饒舌になってしまう質らしい。
そのせいで、話そうか話すまいかと考えるより先に、口が滑ったようだ。
あまりの挙動不審さと困り事の内容に眉を寄せた仁道の顔を見て、夏芽は反省とともに観念した。
「……あの……すみません。聞くだけ聞いてもらっても、いいでしょうか……」
降って湧いた小さな希望に縋り付く気持ちで、捨て犬もかくやという目をする夏芽に、仁道は無言で頷く。
夏芽もまた頷き、門扉のすぐそばに広がる花壇の煉瓦造りの縁に腰掛けると、少し離れた場所に座って自分を見ている仁道の瞳にある、好奇や憐憫が欠片も見当たらない真摯に安堵しながら、小さく深呼吸した。
「……わたし、休日は野良猫の保護活動をしてまして。保護施設にするつもりで、二ヶ月ぐらい前にこの家を買ったんですが、業者から聞いていたより状態が悪くて、リフォームの費用が足りなくて……とりあえず、今いる猫たちを観察するために、ご飯……ドライフードとかを置くことにしたんです。もちろん、このやり方には賛否両論ありますし、近隣の方とも何十回も話し合いました。だから最初は、ずっと反対してる人の嫌がらせかと思ったんですが――」
初日は、ただ心が痛んだ。
捨てられたもの、置き去りにされたもの、無責任に餌付けされたもの、虐げられたもの……舐めるように綺麗になった皿に、保護施設を作ろうと思い立った理由が次々と脳裏を過ぎって、どうしようもなく涙が出た。
二日目、かすかな違和感があった。
ドライフードもウェットフードも、おやつも、水さえも残さず平らげられているというのに、一度も猫の姿を見かけず、鳴き声さえも聞いていない。
懇意にしている保護団体から借りた暗視カメラにも、何も映っていなかった。
三日目、違和感を無視できなくなった。
出勤と退勤のタイミングに補充して、そのたび皿は空になった。
それなのに、近くで怪我をして保護された野良猫はひどく痩せていた。
四日目、もはや違和感しか抱けなくなった。
休診日を利用して丸一日見張ったが、やはり猫の姿は影も形も無く、だというのに、皿は朝も晩もいつの間にか空になっていた。
そして、五日目。
違和感は、恐怖に変わった。
縁の下から無数の蠅が湧いていることに気付いて、鼠か何かの死骸でもあるのかと覗き込んだそこに、大量の吐瀉物を見つけたのである。
ドライフードの花や魚の形を残したそれには咀嚼された形跡こそあったが、消化はされておらず、口に入れて噛んで、すぐに吐いたとしか思えなかった。
それからというもの、肉眼でもカメラでも捉えられない得体の知れぬ何かは、今日まで一日も欠かすことなくやって来ている。
「猫は健康でも吐く生き物ですが、頻度も量も普通じゃないですし……それに……実はここ、事故物件で……これ、気持ち悪いかもなんですが、見てもらえますか」
夏芽はズボンのポケットからスマートフォンを取り出すと、猫だらけのカメラロールから一枚の写真を拾い上げた。
接写された、茹でた鶏肉であろうものの破片に、歯形がついている。
それは、どう見ても――
「こら人間の歯形やなァ」
言ったのは、仁道ではなかった。
もちろん、夏芽でもない。
その場にいる誰の声でも、聞き間違いでもないと気付いた瞬間、仁道は反射的に夏芽の前に飛び出していた。足音も気配も無く、自分たちの後ろにあるのは塀代わりの生け垣だけで、枝葉が細かく密集したそこを通り抜けるのが不可能であるはずならば、最初から潜んでいたとしか思えなかった。
闖入者はしかし、刺し貫くような視線を物ともせず、俯いたために簾めいて垂れ下がった長い黒髪を掻き上げて背中に寄せると、ラウンド型のサングラスを軽く持ち上げ、長い睫毛に縁取られた、茶色と呼ぶにしては金色に近すぎる虹彩の、大きな瞳を悪戯っぽく細めた。
「驚かせてもうたみたいで、すんませんなァ。どうも。自分、探偵やっとります、八千斑と申す者ですわ」
奇術めいた手付きで名刺が差し出されたが、二人は受け取りもせず、かと言って拒否もせず、ただ、八千斑とやらの笑顔を食い入るように見つめた。
唐突な展開に驚いてしまった、それだけではなく。
その顔立ちが、美しかったからだ。
ぎょっと、あるいは、ぞっとするほどに。
「ま、立ち話も何ですわな。ちょこっとお時間いただいてもええです?」




