零 かつて春の庭にて
奇妙な庭であった。
凛として立つ一本桜の花の群れに、よく見れば、梅の花が混ざっている。
春風に運ばれた花弁が衾雪のように地面を覆い隠していたが、紅白の小山のあちこちから顔を覗かせているのは中身の詰まった毬栗だった。
一面の花の海を、よく肥えた野鼠が鼻先で掻き分けて、桜の洞の巣穴で待つ家族にせっせと茸やら山菜やらを運んでやっている。
その長閑な庭を、濡れ縁に胡座を組んだ老人が、手酌で杯を傾けながら、優しいまなざしで眺めていた。
笑い皺がくっきりと刻まれた目尻を下げて、この目で見ているもの全てが愛おしくて仕方がないと言外に滲ませている。
広い屋敷には、彼しかいない。
今朝、はたと思いついたように、家人みなに小遣いと休暇をやり、「門番は置いてくださいませ」だとか「せめて飯炊きだけでも」だとか、そんな必死な訴えごと門の外へとやさしく追いやって、期限付きの孤独を楽しんでいるのである。
何のしがらみも持たなかった頃のように、気ままに酒を飲み、庭を愛で、三管を吹き、琵琶を爪弾き、また酒を飲む。
ゆっくりと、時間が流れてゆく。
濃く漂う梅の香を肴に、一息に空けた杯に酒を注ぐ。
しみじみと味わう彼のかたわらには、杯が二つ置かれていた。
一つは曙光のように白く、一つは夜闇のように黒い。
その黒い杯の縁に、ふと、白いものが降り立った。
白い、何もかもが白い、蛾であった。
蛾は、馥郁たる香りをした水面に口吻を伸ばそうとして、
「――人生とは、思い通りにゆかぬものですね」
穏やかな声に、ぴたりとその動きを止めた。
「おまえを孤独になどせぬと、あれほど大口を叩いておきながら、この通り。三途の川のせせらぎが、今にも聞こえるような心地にございます――」
独り言にせよ話しかけているにせよ、当然、蛾は返事をしない。
口吻が酒に触れ、杯の内側に小さな波紋が広がる。
老人の唇にやわい微笑が浮かんだ。
「……ですから、後のことは、あなたに任せます」
蛾が、ふたたび動きを止めた。
「どうか、見守ってください。もちろん、私がおらねば生きてゆけぬだろうと思うほど自惚れてはおりませぬが……我が友が、その血脈が、どう足掻こうと抜け出せぬ闇に呑まれてしまったときは。そのときだけは、どうか、手を――」
土下座でもせんばかりの語気に、蛾は一対の触覚を揺らした。
たとえば、人が、羽虫を手で払うような仕草をしながら「わかった、わかった」と苦笑するように。
「……感謝いたします。我が生涯、ただふたりの知己よ……」
空になった杯を残し、雲一つ無い青空に向かって飛んでゆく一匹を見守る、年月が刻まれた顔に、今にも泣き出しそうな、それでいて幸福そうな笑みが浮かぶ。
蛾の姿が消えると共に、あれほど濃く薫っていた梅の香が、ふつりと途切れた。




