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八千斑怪異探偵事務所  作者: 紐縁 椿四句
第一章 霹靂来たりて
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二 大海に賽二つ

 住宅街と農地を隔てる川の農地側、低い山のふもとにひっそりと、寺とは呼べぬ寺がある。

 縁緑寺(えんりょくじ)――ややこしい名前を持つこの寺は、鬱蒼とした森を貫く長い石段を上り、堅牢な築地塀ついじべいに支えられている年季の入った棟門むねもんをくぐるまでは、寺と聞いて人が思い浮かべる寺の風景をしているのだが、その先はまるで異なる。七堂伽藍しちどうがらんなど知ったことかと、草花が好き放題に生い茂る広い敷地に、本堂にしては大きな建物のひとつきりがぽつんと建っているだけなのだ。

 八千斑と名乗った男――なのかどうか、容姿でも声でも判別できなかった二人は、とりあえず口調で判断した――は、罰当たりなことに、その本堂を事務所にしていた。本来ならば僧侶が座る位置に置かれた座卓で、不動明王らしき仏像に見下ろされながら持て成されるという居心地の悪さに挙動不審に辺りを見回している夏芽に対し、いかにも騙されやすそうな彼女を心配して同行した仁道は、警戒心と不信感を隠そうともせず八千斑を睨んでいる。


「いやァ、お二人さん、お暑いなかご足労いただきまして。素直に付いてきてもらえて感激ですわ。こないだなんかご家族を説得しとる間に息子さんが全身蛆虫(うじむし)……や、言わんといたほうがええか。金輪際、煮魚が食えんようなりますでな……おれは食えるけども。わはは」


 八千斑は、聞けば聞くほど胡乱うろんな口調――関西弁“で”喋っていると言うより、関西弁“を”喋っていると言ったほうがしっくりとする。そもそも関西弁でも無さそうだ――で饒舌じょうぜつを振るいつつ、座卓に二人分、丸まって眠る三毛猫が薄墨で描かれた湯呑みと、魚の形をした豆皿を置いた。湯呑みには氷の浮いた緑茶が、皿には紙に包まれた饅頭が載せられている。


「すんませんなァ、茶しかのうて。うちの事務さんは日本茶にっとるもんで。コーヒーなんざ煮豆の汁や言うて……あ、せや、名刺。あと、うちのチラシも見せときますわ」


 名刺と、A4サイズの紙が、律儀に二枚ずつ二人の前に差し出される。

 名刺には肩書きと名前だけがあり、紙には手書きの美しい筆文字で、


『八千斑怪異探偵事務所

 人智の及ばぬお悩み大歓迎


 ・視えるはずのないもの

 ・存在するはずのないもの

 ・説明や証明ができないこと

 ・ご自身の正気を疑うようなこと


 等々 お気軽にご相談ください


 住所は下記の地図の通り

 年中無休 事前予約不要


 ~探偵助手募集中~

 経歴・経験・年齢・性別など考え得るもの全て不問

 恐れ知らずの方をお待ちしております』


 と、あった。

 しっかりと読み込むまでもなく、怪しいことこの上なかった。


 夏芽はすでに汗だくの背中に嫌な汗が滲むどころか滝のように流れているのを感じ、そのまま土下座に移行するのではないかというほどに俯きながら、場の空気に呑まれて従ってしまった迂闊さと、知り合ったばかりの人間を巻き込んでしまった罪悪感に小柄な身体をますます縮こまらせている。

 混乱した頭でどうにか考えることができているのは、彼あるいは彼女が本当に探偵なのかという一点だけだが、


「……あ、あの、私、聞きたいことが……」

「はいはい、何でもどうぞ」

「えっと、八千斑さんは……」

「はい?」


 サングラスの奥から自分を見る目が獰猛にぎらついているような被害妄想に襲われ、


「その……ハマスゲですか、服の刺繍……」

「おっ、よお分かりましたなァ。植物がお好きで?」

「あ、はい、動物が食べちゃいけない草とか覚えなきゃなので、自然と詳しく……あは、あはは……」


 聞けるはずがなかった。

 視線すら合わせられない。

 しかし夏芽が緊張しているのは、今まで彼女の人生に居なかった人種と相対しているせいでもある。

 つややかな濡烏(ぬれがらす)の、腰のあたりまで伸びたストレートヘアに、花火のような構図で浜菅の花穂(かすい)の刺繍が散りばめられたシャツ。半袖から伸びた細い腕はアームカバーで指先の少し下まで覆われている。髪から靴まで真っ黒だが、均整の取れた痩躯と黙っていれば謎めいた雰囲気には合っていた。

 そんな格好をして、直射日光を浴びながら同じ距離を歩いてきたにも拘わらず、白い肌には汗の一滴も見当たらない。汗の匂いもしない。それどころか、動くたび、かすかに沈丁花に似た香りがした。

 気になるところは多いが、何よりも目を引くのは、その顔のつくりだった。

 淡いグレーレンズのサングラス越しでもなお、美しいとしか言い様が無く、それでいて、人形じみた無機質さも、整形手術のそれのような違和感も無い。性別も年齢も超越しており、恐らくは日本人だろうということしか分からない。あまりに整いすぎているせいか芸術品を見るような心地になって、嫉妬すら湧いてこない。

 無い無い尽くしの、しかし血の通った美しさである。


「お嬢さん、ずいぶん悩んどりますなあ。まあ、お気持ちは分かります。おれみたいなけったいなもん、知り()うたばっかで信用なんかできませんわな」


 図星を突かれて黙り込んでしまった夏芽を気遣ってか、八千斑は明るく、白い歯を見せて笑った。


「それじゃァ、報酬については解決を以て、ってことでどうです? 細かい経費は請求しませんし、契約書は必要最低限で結構。あの家の敷地に入ってもええって、それだけ言ってもらえたら……」

「……さっき、もう入ってなかったか?」


 ここに来て初めて、仁道が口を開いた。

 反応を見るためだろう、問い掛ける声は地を這うように低く、凄味が利いている。


「ああ、そらァ、自分の領分で困っとる人がおったら、声のひとつも掛けますわな」


 しかし八千斑は飄々として、守られているはずの夏芽のほうが、ずっと怯えた表情をしている。


「届出はしてあるのか? 従業者名簿は?」

「ぜェんぶ揃っとります。見せましょか」

「標識はどこだ」

「表に出しとりますけど。寺額(じがく)の横。もうちょい大きしといたほうがええかな」


 女子供どころか大の大人すら震え上がらせそうな強面を、眉間に皺を寄せてますます恐ろしげに歪め、自称探偵を訝しげに睨み続ける仁道に、身を竦ませもせず、平静を装っているふうでもない八千斑はわざとらしく肩を竦める。


「疑っとる顔やなァ。しゃあないけど。そんなら、そちらさんが手伝ってくれたらええんとちゃいます?」

「はあ?」

「元刑事なら経験豊富やろし、無職やったら働いても何の問題もあらへんしな……せやせや、そうしよ。鍋島さんも、知っとる顔がおるほうが安心できるもんな?」

「へぇっ?!」


 急に話題を振られて素っ頓狂な声を出す夏芽に、八千斑は「なァ?」と、単に同意を求めているのか脅しているのかよく分からない発声で行き止まりに詰める。

 彼女は猫を噛むこともできない窮鼠に成り果てて、勢い余って眼球が取れるのではないかと心配になるほど目を泳がせてから、頷いた。


「よっしゃ! そしたら鍋島さん、詳しい話、聞かせてもらいましょか。そっちはこれ書いといて。なんかあったら責任取るから安心してな」


 勝手なことを言われて腰を浮かしかけた仁道だが、夏芽の色々な意味で縋るような目と目が合ってしまい、無言で座り直した。ここまで関わっておいて見捨てるのは寝付きが悪くなりそうだし、腹立たしいが、八千斑の言う通り、自分は無職である。今日も明日もその先も、何も予定が無い。それどころか、生きる目的も、目標も……意味も、理由も、価値も、何も無いのだ。

 溜息をついて、胸ポケットに挿していたボールペンを取って『調査中に発生したすべてを保証いたします 八千斑』とだけやはり筆文字で書かれた書類に署名すると、八千斑の目の前に投げ付けるように滑らせた。


「ほー、暮井仁道……仁の道かァ、ええ名前やな。じゃあ仁道ちゃん、今日一日よろしゅうな。聞き次第、調査行こか」


 緊迫感を微塵も感じさせない笑顔の眩しさに、荒波に放り込まれた小舟の気分になって、仁道はまた溜息をついた。

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