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八千斑怪異探偵事務所  作者: 紐縁 椿四句
第三章 光芒見えて
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九 泥の底に咲く

 暗闇の中に、花が開いた。

 たった一つの大輪が、ぞっとするほどの美しさを見せつける。

 その花弁の輪郭が溶けるように崩れ、視界を端から端まで青白く染めた。


 ごぼごぼと耳の中で水が鳴る音に、仁道ははたと我に返る。


 地底湖に飛び込んで、確実に数秒、数十秒経った。

 全身が水に包まれている感覚が確かにある。

 だというのに、一向に息苦しくならない。

 水温も感じず、服に水が染み込んでゆくこともない。


「どうなってるんだ……?」


 独り言ちた声は、はっきりと自身の耳に届いた。

 開いた唇から、泡が昇っていく。

 水面で、花は完全に形を失い、光の渦となっていた。

 いや、光ではない。

 あれは炎だ。

 そう気付いた瞬間、暗闇が訪れた。


 ウィンタニアの身体を抱え、歩くように水面を目指す。

 顔を出せば、そこは地底湖――ではなかった。


「――暮井! 無事か?!」


 朔哉の声がする。

 分厚い雲に覆われた空が見える。

 黒松の大樹が風を受け、葉をそよがせている。

 バイドゥーリヤがじっとこちらを覗き込んでいる。

 その鼻先に、霊符の鱗を持つ紙の蛇が乗っている。


 仁道が顔を出したのは、事務所の池であった。


「天満、どうしてここに」

「今から危険な場所に行くから、何かあったら事務所を頼むと、八千斑さんに連絡を貰ってな。片付いたから心配するなとさっき言われたが、一応、見に来たんだ……ともかく、それは私の台詞だぞ。どうして池から出てきたんだ」

「……俺にもわからん」

「はあ? それに、どうして濡れていないんだ。それに、その男は……」


 朔哉の指摘にはっとして、仁道はウィンタニアを地面へ押し上げた。

 何の抵抗もなく、丸太のようにごろんと雑草の上に転がった彼は意識を失っており、呼吸は浅く、顔色も悪い。

 変色した血でどす黒く染まったパーカーを見て、朔哉は目を剥いている。


「こいつはマスク・ド・ウィンタニア。そんな名前でプロレスラーをしてるらしい……とにかく、怪我人だ。救急車を呼んでくれ。理由はお前に任せる」

「おい、何で私が……」

「俺には考える余裕がない。まさか『日常的に食人を行っていた集団に食肉に加工されるところだった』とは言えないだろう」

「……わかった。後で詳しく聞かせろ」


 バイドゥーリヤがウィンタニアの巨躯を角で掬い上げ、器用に背中に乗せる。

 救急車が乗り付けるだろう門の下まで歩いていく彼女に伴って朔哉がいなくなると、周囲にあるのは風の音と虫の鳴く声だけになった。

 池から上がり、全く濡れていないスーツやポケットの中身を訝しげに確かめていた仁道は、凪いだ水面を振り返って、八千斑がどこにもいないことに気付いた。


「……八千斑!」


 跪き、暗い水面に呼び掛ける。

 声で波紋が広がったが、すぐに消えていった。

 水中にいる気配も感じない。


「八千斑!」


 言われた通り、一度も足を止めなかった。

 振り返りもしなかった。

 それならば、あちらが失敗したのか。


 それとも――また、俺のせいか。


「八千斑……!」


 振り絞った声が、今にも泣き出しそうに震える。

 その声が消えるか消えないかというところで、水中に影が揺らいだ。

 仁道はほとんど反射的に、手を伸ばしていた。

 水に沈んだ指が、何か細いものを握った。


「……しんど。一日に二回もするもんやないな……」


 仁道の手が掴んだのは、八千斑の腕だった。

 長い髪の毛先が、黒い花のように水面に広がる。

 それを掴まれていないほうの手で気怠げにまとめ、地面に這い上がる。


「あ、仁道ちゃん。ありがとうなァ、お陰さんで村の人ら、少なくとも山におったンは全員、送ってやれたわ」


 表情すら微動だにしない仁道の内心をどう捉えたのか、八千斑は地面に膝をついたままの彼を、笑顔で見下ろした。


「さすがに無罪にはならんけど、事情が事情やから、何千年も刑を受けることはないやろ。山ごと焼いといたで、あの菓子ももう誰かの手には渡らん」


 そのとき、雲が晴れ、夜空が覗いた。


「……なあ、仁道ちゃん」


 星が瞬き、月が輝いている。


「これでもまだ、自分は人を不幸にするだけのもんやって、思うか?」


 降り注ぐ月光で逆光になった顔の中で、瞳の金色だけが輝いている。

 仁道の脳裏に、よすがの言葉が蘇った。


 ――だからてめえも見つけろよ、真っ暗闇でよかったって言えるもんを。


 たとえ八千斑が罪を知ったところで、責めないでいてくれたところで。

 背負う罪は重く、永遠に赦されることはない。

 他ならぬ自分が、赦されたいとは思っていない。

 これからも、生きる道は“真っ暗闇”だろう。

 けれど、もう、恐れはしない。


「……いいや。少しだけ、見直せた」


 生きてきた道が、真っ暗闇でよかった。

 もしも自分が絶望の中に、少しでも光を見出していたならば。

 その光に、この黄金のまなざしは掻き消されていただろう。

 見つけることはできなかった。

 見つけてもらうことはできなかった。

 暗闇にいたからこそ、出会えた。


「そらァええこっちゃ……ところで鍋、もう多分、よすがの分しか無いでな。救急車来たら、朔ちゃんも誘って夕飯行こや」


 立ち上がらせようと、八千斑が手を伸ばしてくる。

 仁道はその手を、今度は迷わずに取った。

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