八 怪物だからこそ
剣呑な雰囲気からして、一刻の猶予も無いことは明らかだった。
気配を殺して隠れながら進む余裕などなく、闇を駆け抜ける。
途中、最初に出会った一団とは違う、かつて村人だったものが足音を聞きつけて走ってきたが、叫ぶ前に、仁道の体重を乗せた蹴りをまともに脇腹に食らって壁に激突し、声を失って、痛みにのたうち回る。
どうしても死ねないなら、うっかり殺してしまうこともない。
不謹慎な安心感が、仁道から躊躇を奪っていた。
「八千斑! 行く当てがあるんだろうな!」
「あるから走っとんねん! 次、右!」
「どこに行くつもりだ!?」
「さっき言うたとこ! 捌く頭があるんなら、その場で食わん……や、ろッ!」
仁道の死角から飛び出してきた村人が、八千斑が右手から出した利剣の先端を顔面に掌底の要領で叩き付けられ、鼻骨の折れる音を闇中に高らかに響かせながら吹き飛ぶ。ついでに岩肌に後頭部を強打し、百目鬼じみて全身に開いていた目玉がすべて白目を剥いた。
まるでお化け屋敷のギミックのように、迷路の如く入り組んだ道を、八千斑の指示に従ってひた走り、出てくる村人を、距離が近いほうが片付ける。
想像していた以上に八千斑は強く、仁道は少しだけ、守ってやらなければと思っていた自分を恥じた。
恥じたところで、放任するつもりはなかったが。
ふと、遠くに灯りが見えた。
解体部屋の入り口であろう鉄の扉が、燭台のか細い火に照らされている。
壊れた懐中電灯が扉の前に転がっていた。
さすがに足音をひそめた八千斑が太腿のケースを叩くと、霊符が四枚、解体部屋を通り越した遙か向こうに、二人分の声と足音を撒き散らしながら飛んでいった。
それに釣られ、道の先にいた複数人と、解体部屋の中から一人が飛び出して、どたばたと追いかけていく。
足音が聞こえなくなるまで遠ざかり、新たな足音が増えないのを確認して、仁道が扉を開けた。
細く開いた隙間から覗き込んだが、誰も見当たらない。
追跡や捕獲、解体はできても、見張りを置くような知能は失われているらしい、そのちぐはぐさが悍ましい。
「……うわ。スプラッター映画顔負けやなァ……」
八千斑がこぼした通り、扉の先には、地獄もかくやという光景が広がっていた。
動物用らしき檻の数々に、赤黒く濡れた麻縄や鎖。
天井から提げたフックにかけられた肉塊に、よく見れば黒髪が絡んでいた。
いくつもの木箱にそれぞれ、骨、肉、内臓が分けられている。
ウィンタニアの姿は無い。
「こっちにも扉があるぞ。ここは保管庫なのかもしれん」
普通ならば恐怖で動けなくなってもおかしくないが、仁道は冷静である。
常人より強いとはいえ、嘔吐し、泣き喚き、パニックを起こした人間を庇いながら逃げる自信のない八千斑には有り難かったが、先ほど彼が告白してくれた内容を思えば無邪気に褒めるわけにもいかず、
「そうかもなァ」
としか返せなかった。
なんか別の褒め言葉を探さんとなァ、と、どこか呑気に考えながら仁道の言う扉のほうへ向かおうとして、八千斑は視界の端に、場にそぐわない青色を見た。
「……仁道ちゃん、その、さすがに……どない?」
「何がだ」
「あっ、言う前に、あー……」
床に転がっていたのは、不自然に青い髪をした男――龍尾の頭部であった。
八千斑の気遣いをよそに、仁道は平然とそれを見下ろす。
龍尾は苦悶の表情を浮かべ、白濁した目で二人を見ている。
「鳳口もここにおるんかね」
「……ある、が正しいかもな」
龍尾の頭部の近くにある檻に、赤い髪があった。
髪の毛が、ではない。
頭皮ごと剥ぎ取られた髪が、そこにある。
「二人ともあかんかったか……まァ、刑期が短いとええな」
八千斑も、悪意を以て他人を傷付けた人間に慈悲は向けないようだ。
横に置かれた木箱から血にまみれた鞄を取り出し、中身を床にひっくり返す。
腐敗した、山で摘んだ菓子。
電源の切れたスマートフォン。
中身が入ったままの財布。
ポケットティッシュなど、その他諸々。
「樽原さんにはここらへん渡したら証明なるかなァ」
「そんな血まみれのもの、渡されても困ると思うぞ」
「そしたらマイナンバーとか持ってこかな。あと一応、写真撮っとくか……仁道ちゃん、スマホ貸して」
財布から運転免許証とマイナンバーカード、行きつけらしい風俗店のメンバーズカードを拝借する流れで差し出された八千斑の手に、仁道は自分でも驚くほど自然に、ジャケットのポケットから出したスマートフォンを握らせていた。
吐き気は込み上げてこなかった。
手が震えることすらなかった。
ややあって返されたそれを手に取ったときも、何も感じなかった。
「なにィ、変な顔して。見せたら消したらええやん」
「いや……ああ……そうだな」
考えている暇はない。
証拠をズボンのポケットに詰め込んで、今度は八千斑が扉を開ける。
隙間から覗こうとしたが、息を呑んだかと思えば勢いよく開いた。
慌てた様子で駆け込んだその部屋こそが、解体部屋であった。
床にも、木板の張られた壁にも、天井にも、血が飛び散っている。
壁にずらりと並べられた多種多様な刃物は、どれも脂にまみれている。
ウィンタニアは部屋の中央にある木製のベッドに仰向けに寝かされ、四本脚に手足をそれぞれ太い鎖で縛られて磔にされており、白いパーカーの腹の部分が真っ赤に染まっていた。
「ウィンタニアさん! 生きとる?!」
傷を確かめようと、パーカーの裾をめくりながら叫ぶ八千斑の声に反応して、ウィンタニアがわずかに顔を動かした。
マスクが半分破れて、素顔が露になっていた。
三十代前半といったところか、まだ若々しい顔立ちは精悍だが、色濃い悲しみが目の下のクマとなって現れている。
ウィンタニアは目の前の存在を認めて、血の気を失った唇を開いた。
「……あんた……さっきの……」
「よっしゃ、生きとるな。痛いけど我慢してな」
先ほどの仁道の手と同じように、腹の傷に霊符を貼りまくる八千斑を見守っていた仁道は、不意に背後に気配を感じて振り返った。
まず、何者かの胴体が見えた。
次いで、狂気に満ちた双眸が。
そして、振り上げられた大鉈が。
「――仁道ちゃん、これ使ってェッ!」
腹に霊符を貼るついでに、室内を煉獄に接続していたのだろう。
鞘から刀を抜くように八千斑の右手から引っ張り出されて投げ渡された蒼い利剣を、仁道は受け取ると同時に振るっていた。
悪を切り伏せ、三毒を断つ刃は、人間相手には鈍器でしかないが、仁道の怪力を以て振るわれたそれは、大鉈の分厚い刃を容易く砕いた。
大男は戸惑ったような唸り声を上げ、折れ残った刃を突き立てようとしたが、それを横に弾き、利剣の剣身を無防備な首筋に叩き込む。
利剣でなければ、首が飛んでいただろう。
首の骨を粉砕され、血の泡を吐いて頽れた大男が、それでも呼吸をしているのを確かめ、仁道は息をつく。
金剛杵で鎖を割っている八千斑を手伝い、ウィンタニアに肩を貸してやって立たせた。
「さっすが仁道ちゃん! カッコええわ」
「こいつは?」
「内臓は出てへん。急げば助かるわ……急げればの話やけど」
木板の隙間から、複数人がこちらに歩いてくる足音が聞こえてきていた。
歩いているということは、二人の存在や解体人が斃されたことに気付いて駆け付けたわけではなさそうだが、いずれ誰かが気付くだろう。
反響で大きく聞こえているだけで、到着までにはまだしばらく猶予があるものの、解体部屋から外に繋がる扉は一つきりで、他に逃げ道は無さそうだ。
圧倒的な窮地に、今まで仁道の身体にぐったりと寄りかかっていたウィンタニアが、のろのろと顔を上げた。
「……俺が……俺が、囮になる……」
声こそか細いが、そこには悲壮な決意が宿っていた。
八千斑は眉間に皺を寄せ、ウィンタニアの顔を見上げた。
暗い茶色の瞳に、ある種の責任感のようなものが見える。
「なに言うとんの。そんな必要……」
「……俺……俺のせいなんだ……」
その責任感が、溢れ出てきた涙で撓んだ。
ぼろぼろと涙がこぼれ、八千斑の顔に落ちていく。
「……あの子は……なにも……悪くなくて……あの、クソ女……俺の親父を誘惑して、家族をバラバラにしやがった……あの……」
ウィンタニアの意識は、ほとんど現実から遠ざかっていた。
もともと弱っていた精神が、異形の人間に解体されかけるという極限状態と、激痛と失血とに壊されかけているようだ。
朦朧と、紡ぐ言葉はほとんど譫言じみている。
「俺は……許せなくて……クソ親父も、クソ女も、その家族も、ぶっ殺してやろうと……でも……なっちゃんは、悪くない……あんないい子、見たことねえ……」
「……なっちゃん?」
「助けたかったんだ……でも、やり方が間違ってた……金を出すほど、私を馬鹿にしてるんだって、会ってくれなくなって……首を……」
「ちょい待ち! ウィンタニアさん、あんた、ほんまの名前は?」
緊急事態に譫言など聞いている暇はないという制止かと思えば、脈絡もなく問われて、ウィンタニアはほんの少し正気に戻り、目をぱちぱちと瞬かせた。
「あんた……もしかして、“ふゆちゃん”か?! 南羽夏萌の遠縁の!」
ふゆちゃん。
南羽夏萌が日記に何度も残していた、唯一の味方の名前。
ウィンタニアはそう呼ばれたことで完全に正気付き、驚愕と疑念の混じった表情で八千斑を見下ろした。
「なんで、その名前、知って……」
「依頼で関わったんや。そんで、どうなん?」
「そ、そうだ……俺は……ふゆちゃん……あの子に、そう呼ばれてた……」
ふゆちゃんであった頃の自分を懐かしむ、その痛々しい笑みを見届けた八千斑は唐突に深呼吸して、気合いを入れるように、自分の太腿を強く叩いた。
「そんならますます、死なせるわけにはいかん。仁道ちゃんのこともな」
「おい、俺は……」
「ちゃうて。おれが代わりに囮になるとか言わんよ」
八千斑は金剛杵を握り直し、仁道の目を見た。
「仁道ちゃん。この部屋出て、右向いたら、そこから真っ直ぐ。ずっとずっと先、突き当たりに地底湖がある。そこに飛び込んだら、おれらの勝ちや」
「勝ちって……お前はどうするんだ」
「言ったやろ、とっておきがあるって。でもな、おれのとっておきは細かい制御がでけん。もし仁道ちゃんがほんのちょっとでも足を止めたら、みィんなまとめてお陀仏やで。……でも、大丈夫やろ。仁道ちゃんなら」
この状況に於いて足を止めるとき。
それは、恐怖したときに他ならない。
ならば、仁道以上の適任はいないだろう。
八千斑の瞳は高潔なほど真っ直ぐに、けれど恐怖を感じない怪物に対してではなく、全幅の信頼を寄せる一人の人間として、仁道を見据えていた。
頷く以外の選択肢が、あるはずがなかった。
「……わかった。だが、絶対にお前も帰ってこい」
「大丈夫やて。おれ、こう見えてしぶといんよ」
ウィンタニアに肩を貸し、隣の部屋に戻る。
鉄の扉を開き、通路に出て、右を向く。
仁道は、霊符の巻かれた両手を拳の形に握り締めた。
鋭い痛みが走る。
人間でなければ、こんな痛みは感じない。
「そしたら仁道ちゃん……頼んだで!」
手で背中を打たれたのを引き金に、仁道は走り出した。
ウィンタニアの巨体を半ば引き摺りながら、ただ走った。
目の前に広がっているのは、漆黒の闇だ。
懐中電灯も霊符も無く、見えない道を行くしかなかった。
もしかしたら、転んだり、穴に落ちるかもしれない。
もしかしたら、罠が仕掛けられているかもしれない。
もしかしたら、村人が襲ってくるかもしれない。
もしかしたら、呆気なく死ぬかもしれない。
それでも。
背後から、いくつもの悲鳴が聞こえてきても。
その悲鳴が、凄絶な絶叫に変わっても。
地響きが起こり、天井から砂や石が落ちてきても。
猛獣じみた咆哮が空気を震わせて轟いても。
長身巨躯を支える両手の傷が痛んでも。
怖くはなかった。
怖くなどなかった。
怖いものがあるとすれば、約束を果たせないことだけで。
走って、走って、走り続けた。
やがて視界が開け、水の匂いがした。
崩れた天井から射し込む月光が、地底湖を幻想的に照らし出している。
なぜ、ここに飛び込めば勝ちなのか。
そんな初歩的な疑問も頭に過ぎることなく、仁道は水面に身を投じた。




