七 人間かく在れかし
一枚の霊符が放つ淡い光だけを頼りに、闇の中を進んでいく。
その闇に、花のような甘い香り――もはや嗅ぎ慣れた御晴写の残り香が充満していることに、砂糖と腐肉から遠ざかって、ようやく気付いた。
灯の届かない場所は岩肌の輪郭すら捉えられない漆黒そのもので、何処からともなく今にもあの異形の人間が飛び出してくるのではないかという焦燥感に、仁道は、未だかつてなく自身の神経が張り詰めているのを感じた。
戦うことはできる。
できるが、相手が人間であると知ってしまった以上、殺すことはできない。
最初に遭遇した人数が一気に襲ってきたとして、あの心臓発作といい、相手がどんな能力を持っているのか分からない今、不殺を貫いて八千斑を守り切ることはできるだろうか。
自分が死ぬのはいい。
けれどきっと、五日間の経験上、八千斑は自分を逃がすだろう。
それだけは避けたい。
それだけは、どうしても。
「なあ仁道ちゃん、ちょっと聞きたいんやけど」
隣を歩く――身長差のせいで引き摺る形になってしまうため、結局、肩を貸すのは諦めた――八千斑にジャケットの裾を引きつつ言われて、仁道は歩調を緩める。
「どうした」
「この先、ずーっと先に、水場があるっぽいんよ。たぶん地底湖やと思うんやけど……そこにさえ辿り着ければ、逃げ道は確保できるんやけども……」
「やけども?」
「……あの、ウィンタニアっちゅう男。捜したほうがええと思う? 仁道ちゃん連れて逃げとる最中も会わんかったし、もう山下りとるかもしれんけど……」
もしもウィンタニアが追われているか、あるいは囚われているのであれば、自業自得だとしても、見捨ててゆくのは寝覚めが悪い。
彼を待つ家族や、ファンや、仲間や、スポンサーもいるだろう。
最悪、もう殺されてしまっているのだとしても、遺品の一つぐらいは持ち帰ってやりたい。
八千斑が、けども、に続くその言葉を濁したのは、仁道を慮ってのことだろう。
言ってしまえば、関係の無い話なのだ。
事務所の社員の一人だとしても、そのために死んでやる義理は無い。
それに、ただでさえ心に壮絶な傷を抱えた人間の、その身体にさえも一生の傷を残すかもしれないとしたら、そんなにも残酷な話があっていいものか。
彼はそう案じているのだろうが――愚問だな、と仁道は思う。
『何度も危ない目に遭わせておいて』ではない。
『生き残ったところで、お前のような奴に二度と出会えるはずがないのに』だ。
「お前の好きにすればいい。ただし、俺たちの命が優先だ。危なくなったら、引き摺ってでも逃げるからな」
八千斑は一瞬きょとんとして、それから微笑んだ。
伏した目に安堵が浮かんだような気がして、脳天気に見える彼にも苦悩があっておかしくはないのだと仁道は内心で反省した。
いかに実力があれど、怪異探偵などと、信用されようもない生業である。
今まで救おうとして救えなかった人間もいたに違いない。
もしくは、自分と同じように、努力しても報われなかった経験があるのか。
「……あんがと。でもどないしよかな、霊符は中陰にしか反応せんし」
「とりあえず、反応しないほうに行くしかないんじゃないか」
「それやとあの人らと鉢合わせするかもしれん。どっか、四隅囲めるとこがあったらええんやけどなァ。武器は持っときたいやろ」
そう言ったところで、洞窟の中に部屋があるはずもない。
あるはずもない、はずだったが。
ふわふわと飛んでいた霊符がふと、風に煽られたかのように揺れた。
岩壁の、仁道の頭ほどの高さに人間一人ぐらいなら潜り込めそうな穴が空いており、そこから布の切れ端がロープのように垂れ下がっている。
劣化した布きれが成人男性二人の体重を支えきれるとはとても思えず、仁道の背中を梯子代わりにその穴に痩躯を滑り込ませた八千斑は、ややあって顔を出し、筋肉の塊を渾身の力で引っ張り上げた。
「仁道ちゃん重すぎひん? 化け物やのうて岩人間やろ」
「お前こそ軽すぎるぞ。綿が詰まってるんじゃないのか」
軽口を叩き合いながら、穴の内部を見回す。
広さは四畳半ほどで、表面が滑らかに削られた岩壁と、最低限の家具が、かつてここに人間がいたことを物語っていた。
花柄の布団。
小さな文机。
蝋が溶けきった燭台。
牢かとも思ったが、それならば監視用に窓を作るだろう。
「誰かが隠れて何か書いとったんかな」
「机の中には何も無いな。持ち出されたのかもしれん」
文机をひっくり返している仁道の後ろで、隠し通路でもありはしないかと岩肌を触っていた八千斑は、ふと、亀裂の先に白いものを見つけた。
子供の指でもぎりぎり入るかどうかという狭い亀裂に、皮膚が擦れて傷付くのも構わず指をねじ込み、ぎゅうぎゅうに押し込まれていたもの――折り畳まれた紙を引っ張り出す。
時を経て薄茶色になった紙がぱりぱりと悲鳴を上げ、破れるどころか崩れそうになるのを、試行錯誤しながら広げる。
何やら文章が書かれているが、劣化による全体のかすれに加え、ひどい悪筆で、旧字体と歴史的仮名遣いが使われているために、八千斑が思わず「しんどすぎる」と率直な感想を口に出したのも無理は無かった。
声を聞きつけて手元を覗き込んだ仁道も片眉を上げ、そして、亀裂の奥にまだ何かがあることに気付いて、金属製の燭台を亀裂に叩き付けた。
燭台と岩が易々と砕け散り、大きく広がった隙間から紙の塊が落ちてくる。
何十枚も重ねられた形で圧縮されたそれの一枚をどうにか剥がし、広げてみれば、同じような文字が余白という余白を埋めてびっしりと書き込まれていた。
八千斑はますます、うんざりとした顔になった。
「あ~、こんな状況で言うたらあかんけど、ほんまあかんけど、しんどすぎる~」
「読めないのか?」
「読めるから言うとる~」
古文書の解読をするようなものなのだろう。
読めないなら諦めもつくが、どんな情報であろうと手に入れておきたい現状では、読めるのならば読まない選択肢は無い。
その場に胡座をかいて座り込み、最初に見つけた一枚目の文章を指で辿り始めた八千斑の横に、仁道も腰を下ろす。
しょぼしょぼと目を瞬かせて、文字を追っては口に出していた八千斑の気怠そうな表情に、途中から、さっと影が差した。
気付いてしまった。
蚯蚓がのたうつような悪筆の理由は、鉛筆を握る誰かの手が、想像を絶する恐怖と不安と怒りに震えていたからなのだと。
この手紙を見つけてくれた人へ
こんな場所に訪れたということは
貴方は全てを目の当たりにしたことでしょう
どうか貴方だけでも知ってほしい
この村も 村の人たちも 最初からああではなかったと
戦争が終わった日 この山ではひどい雨が降って
土砂崩れで 何人も生き埋めになりました
けれど私たちは飢えていて 若い人たちも少なく
仏様に祈ることしかできなかった
あの男が現れたのは その夜のこと
まるで土の中から這い出してきたように泥まみれで
それでもなお輝かんばかりに若く美しく
片方の足を重たげに引きずっていて
大事そうに仏像を抱いていた
村人に男は言いました
これは おはるのうつしだと
男が仏像に何か話しかけると
生き埋めになっていた人たちが帰ってきました
お櫃にお米が湧いてきて 畑には野菜が実り
死ぬような怪我が治り 長年苦しんできた病気が治り
皆が男を崇めるまでに時間はかからなかった
それが間違いでした
男は 私たちを救おうとしたのではなく
仏像の力を試していたのです
どう祈れば どう叶うのか
人間は どこまで人間でいられるのか
ある日 村長の孫娘が言いました
お菓子だけ食べて生きていきたいと
すると山々が甘味で満ち溢れ
まるで夢のような光景になったものですから
どんなに恐ろしいことか気付かず
村の人たちは 次々と男に願いを言いました
年を取りたくない
死にたくない
怪我や病気をしても平気になりたい
何も考えずに生きていきたい
ずっとこの山で暮らしたい
そうして 村の人たちは
老いることはないが 若返ることもなく
死ぬことはないが 傷や病に苦しんでも死ねず
腹を満たすことしか考えられず
獲物を求めて山の中を彷徨い歩くだけの
悍ましい化け物にされてしまったのです
男はいつも愉しそうに眺めていました
声を上げて笑いさえしました
化け物となった村の人たちが
それが自分の家族や恋人とも分からず
鳥獣のように捌いた肉を喰らう様を
自分を信じなかった村の人たちが
消渇で手足を腐らせて悶え死ぬ様を
心が折れて必死に許しを乞う様を
そんな男に私は媚び 今日まで生き延びたのです
男のしたこと 私に話したこと 独り言
全部書き残すために
ここは そのための場所
夫が最後の正気を振り絞って掘ってくれた
兵隊になれないほど病弱だった彼が
今はもう まるで昔話の鬼のよう
殺してくれと泣いたのに
殺してあげられなかった
ああ もう言葉が出てこない
いま書いている文字が正しいのかもわからない
ここまで書くのに半日はかかりました
男が何かしたに違いありません
私もきっと怪物になるのでしょう
それでも書かなければ
知ってもらわなければ
どうか知ってください
私はおさち
家族にも 村の人たちにも 名前があります
私たちは人間です
どんな姿になっても どんなに罪深いことをしても
「……なるほどなァ……」
八千斑は祈るように目を閉じて、天井を仰いだ。
瞼が開かれると、鮮やかな金色に、強い憤怒が燃えているのが分かった。
奥歯を噛み締めようとして、最初に歯のぶつかった音が、かちん、と響く。
仁道はそのとき初めて、八重歯でもないのに、彼の犬歯がやけに鋭く突き出して見えることに気付いた。
「……ずーっと、よすがのときから……おかしいとは思っとったんや。なんで百年も経ってから、無関係な人間を何人も、願いを叶える手間までかけて、呪い始めたんかと……」
話が掴めないでいる仁道の説明を求める眼差しに、八千斑は口籠もる。処理しきれない怒りが腹の底に渦巻いていて、苛立ちをぶつけないよう、棘の無い言葉を探しているようだ。
「……御晴写はな、大正の初期に、日野月彦っちゅう彫刻家が、生まれてくる子供の幸せを願って、お嫁さんのおはるをモデルに彫った守り本尊なんよ」
「そんなめでたい代物が、呪物に?」
「おはるは殺されたんや。赤ん坊も助からんくて……ちょうど月彦も行方知れずになってん。どうも直前まで夫婦喧嘩しとったらしくてな、警察は、殺して逃げたんやろって片付けた」
「事実なら……憎いだろうな」
「そうやけど、おかしいやろ。母子ともども殺された恨みなら、そこで晴らせばええ。月彦なり、ほんまの犯人なり、子々孫々なり……でも、おかしくて当然やったんや。呪ったんはおはるやなかったんやから」
燃え盛る激情が、刹那、ほっとしたように和らいだが、すぐに塗り潰された。
「……おはるは、月彦を愛しとった。月彦も、おはるを愛しとった。それを、踏み躙った奴がおる。この百年、踏み躙り続けとった奴がおる……」
火を吐くような低い声で言い終えると、紙の塊をほぐし、皺を伸ばし始めた。
怒りを静めようとしているのだろう、平たくした紙を黙々と重ねていく。
饒舌な男が黙り込む気まずさに、仁道はそのうちの一枚を手に取った。
悪筆とは対照的に、驚くほど写実的に描かれた可愛らしい少女の横に、山で最初に出会った一団の中にいた、巨大な眼球を持った女の姿が描かれている。
その下に書かれた文字は、涙の跡で滲んでいた。
おみつちゃん
勉強が好きで読み書きを教えてくれた
とっても可愛いのに自信がなくて
綺麗になりたいっていつも話してた
だからこそ許せない
どんな人間も見つめるだけで心を射抜けるようになりたい
見つめた人間の心臓を止める 見るのをやめればまた動く
出目金みたいで滑稽 もっと増やして飾ったら楽しそう
箇条書きは、願いと、その結果と、男の感想だろうか。
おさちが手紙に書いていた通り、村人たちにもそれぞれの人生があったというのに、人間の命と尊厳を自身の玩具としか思っていないようだ。
腸が煮え返る心地で顔を顰めた仁道から紙を受け取り、ハードカバーほどの分厚さになった束を丸めた八千斑は、ズボンのポケットに――法具やサングラスを収納した空間に突っ込んだ。
一枚だけ仕舞わなかったのは、おさちの手描きの地図である。
精密なそれを指でなぞりながら、八千斑は溜息をつく。
「……はあ。ごめんなァ、不機嫌してもうたわ」
「気にするな。ならないほうがおかしい」
「あんがと。……夜明けを待ちたいとこやけど、ウィンタニアさんを見つけんとな。とりあえず怪しいンは、この解体部屋とかいう」
八千斑が地図に記された物騒な文字を指した瞬間、物音がした。
かすかなそれは洞窟内で反響し、はっきりと聞き取れるまでに増幅される。
最初に聞こえたのは、無数の足音だった。
獣じみた叫び声。
意味をなさない唸り声。
硬いものが岩に当たる音。
何かが地面に落ちて割れる音。
最後に聞こえたのは、ウィンタニアの声だった。




