404.逃げるんだ!早く!
少女の柔肌に緑の獣の爪が今まさに突き立てられようとする瞬間、それは展開された
女の子の細やかな皮膚とはあまりに違うゴツゴツとした硬質の鱗に見える壁がその爪の侵攻を妨げ、その硬さは突き立てた爪が砕けるほどだった
迫る痛みと恐怖にその身を強張らせ動けなかった姉は、視界を覆う黒い壁がなんなのかわからず茫然とみつめる
その鱗の壁の中心にはボロボロのグローブがへばりつくように垂れ下がっており、装飾品の魔鉱石が断続的に光っていた
「それを持って逃げるんだ!」
目の前で爪が砕けてもなお少女に襲い掛かろうとするゴブリンが真横に吹き飛ばされる
そのゴブリンの向こう側から回し蹴りを叩き込んだままの体勢でリンファが必死に少女に訴えかけていた
少女は驚きながらもよろよろと足を取られていた妹を立たせ、リンファに釘付けになる
「そのグローブはゴブリンの攻撃を防いでくれるから! でもそんなに長くは使えない……急いで!」
リンファがなお襲い掛かろうと迫るゴブリンから姉妹を守る為に壁となり、叫ぶ
姉はその背中を見ながら妹の手を取り、ヨロヨロと走りだす
「走るんだ! もっと早く! 絶対に振り返らないで!」
その声に背中を押されたかのように姉妹は速度を上げる
リンファはその足音を聞きながらわずかにため息をつき、即座に切り替えて目の前のゴブリンを掌底にて吹き飛ばした
姉は妹の手をしっかりと握りしめ、必死に走りながら一瞬だけ振り返る
緑の皮膚、尖った耳、鋭い爪……
けれど自分を守ってくれたそのゴブリンの目は、澄んだ青空の様に青かった
そしてその顔は、まるで人間であるかのように叫び、涙を流していた
『あのゴブリンは……一体何だったんだろう』
そんなことを一瞬思いはしたけれど、響くゴブリンの叫び声が耳に飛び込んできた瞬間に思考は止まる
ただ渡されたグローブをお守りの様に抱きしめながら、姉妹はただ必死に村に向かってひた走った――――
『頼むから……頼むから引いてくれ!』
未だ姉妹の後を追おうとするゴブリンの側頭部を上段蹴りで撃ちぬきながらリンファが叫ぶ
ゴブリンはそれでも立ち上がり、よだれを垂らしながら叫び声をあげた
『なんでだよ……なんで言葉が通じないんだよ! 理解してくれないんだよ!』
リンファがゴブリンの言葉で必死に叫ぶが、目の前のゴブリンは聞いたこともない唸り声をあげて再びリンファに向かって襲い掛かる
その顔を突き出して大口を開けて牙を突き立てようとするゴブリンの顔に、リンファのカウンターが炸裂
力を込めないように気を付けていたリンファだったが、あまりにタイミングが悪く顎の関節を吹き飛ばすほどの強烈なアッパーが決まってしまった
『あ、あぁ……! そ、そんな……!』
あまりに手応えのある感触にリンファは瞳を曇らせる
骨の砕ける感覚がリンファの拳にジンジンと余韻を残していた
だが、そのゴブリンは立ち上がった
『な、なんで立ち上がれるんだよ……!』
ゴブリンは砕けた顎をダラリと開いたまま、口から緑の血をブクブクと泡立てて唸り声をあげる
激痛でのたうち回ってもおかしくないはずなのに、そのゴブリンは苦痛の表情すら浮かべず、傷口を押さえようともしない
その周りにいるゴブリンもまたその重傷を負ったゴブリンに気をかけるでも治癒を施すでもなく、ただ唸り叫びリンファを睨む
「君たちは……僕の知ってるゴブリンじゃ・・ないんだね」
リンファはゴブリンの言葉を話すのをやめ、人間の言葉を呟く
人間の声だとわかった途端ゴブリン達がいきり立ち更に大きな叫び声をあげた
このゴブリン達の思考は、悲しいほどにシンプルだった
周りの同族は攻撃をしなくていいもの、人間は攻撃するもの
行動の判断は動けるか動けないか、痛みや恐怖は考慮していない
人間の形、人間の色、人間の鳴き声、人間の匂い……人間らしさがあれば動かなくなるまで襲う
そこには仲間を思う気持ちや、敵を憎む気持ちなどもない
植え付けられた仮初の本能の赴くまま、脳髄にこびりつく命令のままそのゴブリンは人間を襲うのだ
【なにがおかしい? これこそがゴブリンだろう】
そんな声が聞こえてくる気すらする、捻じ曲げられた存在と尊厳
ゴブリンは緑の血を止めようともせず、リンファに迫った
折れた骨が皮膚から飛び出しても、それすら気にもせずに……
「チクショウ……! 命を……命をなんだと思ってるんだあああ!」
リンファは泣きながら強くその足を踏み込む
踏み込んだ脚から伝わる大地の魔力はあまりに少なく、枯れかかっていた
それすらもリンファは悲しくて、歯を食いしばった
【八極剛拳 地烈爆震脚】
従来の力とはあまりにかけ離れたわずかな隆起と爆発で、地面が揺れる
だがその音と砂煙にゴブリン達は視界を奪われリンファを見失った
ゴブリン達はその煙を手で払おうと暴れ、更にその砂煙をかき混ぜいきり立つ
そして完全にその姿を感じ取れなくなったゴブリン達は、ただ怒りの叫び声をあげる
リンファは転がるように砂煙に紛れながら逃げる背中でその叫び声を受け止める
聞いたこともない、言葉の欠片もないただの獣の叫びが鼓膜に響く
「チクショウ……チクショウ……!」
リンファは涙を拭いながら必死に走る
ゴブリンすら変わってしまったその大地を、ただひたすらに走る―――




