◇09 鉄竜 新商品(ニュウ・アイテム)
【ツァジン家領北東部】
蒸気機関が動く速度は、人間の速歩と対して変わらなくなり、中隊の兵や【うたうもの】の中には蒸気機関から降りる者もあらわれた。
少し駆けて蒸気機関を追い抜き、俺の貨車まで来て挨拶するものもいる。
そしてまた貨車に戻るのだ。
これはいい暇つぶしになるらしく、編成間や貨車間の人の行き来がある。
どこまでも見渡す事が出来る為、女性陣は苦労しそうだが、中には砂礫砂漠の中で踏ん張ってから戻る者もいる。
馬車に比べればのどかな旅に、俺だけならずみんなにも心に余裕が出てきたのだろう。
俺は秋の風に吹かれながら、どこまでも変わらない砂礫砂漠の風景をただ見ている。
西には南北に連なる山脈があり、距離があるのにも関わらず人を寄せ付けない存在感がある。
雪を頂くその頂上は雲に隠れて見え隠れしている。
まさに大地の背骨だった。
あの向こうに共和国がある。
これだけ隔絶されているのならば、手を出さなければいいのに、何故争いをしたがるのか。
……違う。
隔絶されているように見えても、人は繋がっているのだろう。
だから摩擦が起きる。
時折涙が不意に零れる事がある。
こうしていると、どうしても赤子の事が頭をよぎってしまう。
もう少し俺がどうにか出来たのなら、この蒸気機関で赤子もゆっくり休めただろう。
「ご主人様」
レディ=マホがハンカチで俺の目じりを拭う。
「ありがとう。レディ=マホ」
そして俺はまた景色に目を戻す。
そんな時間が長く続いた。
それからウトウトと俺は薄く寝た。
蒸気機関の揺れで覚醒すると、俺はレディ=マホの肩に頭を乗せて寝ていて、イルチは大胆にも俺の太ももを枕にして寝ていた。
「すまない」
レディ=マホは微笑むと指を口に当てる。
車内に目を戻すと、従僕も工夫したもので、家令室給仕のルイチャー・ケーラーが洗濯従僕のマイェナー・クルフタ―と縫物をしている。
きっと2両目の護衛騎士を使って、1両目の荷物を取り寄せたのだろう。
マイェナーに教わりながらルイチャーが縫物をしているとまるで姉妹のようだった。
俺が起きた事に気が付くと、ルイチャーが傍らにある敷物を俺に持ってくる。
「アクティム様。これをお使いください」
「幾らかはお体が痛くなくなるかと思います」
「ルイチャーが考えたのか?」
俺はその敷物を受け取る。
元は何を使ったのだろうか。
「はい」
「ありがとう」
「では、まず縫物をしているルイチャーとマイェナーが使うように」
「そしてこの貨車全員分を作ってくれ、もし余るようだったらスラティナの子供達にも頼む。それから俺だ」
「ですが、アクティム様」
「アクティム様を差し置いて、私たちが使う訳には参りません」
俺はルイチャーの両手を包んだ。
「俺がそうして欲しいとお願いしているんだ」
「ヴァルクミューレもわかってくれるよ」
ヴァルクミューレへ顔を向けると、ヴァルクミューレも頷いた。
ルイチャーはほっとした様な表情を浮かべ、マイェナーに手渡すと、マイェナーはルイチャーが座る場所に敷いた。
そして逡巡するルイチャーに笑顔を向けると、ルイチャーが座る。
俺も思わず微笑んだ。
俺はメルジヴァク・ツァジンの使用人のカーナック・ネブルジェシを手招きした。
「ヴァシュリンガー様」
俺が座ったままだから、カーナックも膝をついて俺の対面に座った。
「馬油を持っているか?」
「今、その使い方を教えてほしい」
カーナックはエプロンのポケットから小瓶を出すと俺に手渡した。
そして皿洗い従僕のフロリアン・ウムガッセを呼ぶ。
カーナックとフロリアンが俺の向かいに座り込む。
「フロリアン。ちょっと俺の遊びに付き合ってくれ」
戸惑うフロリアンは俺の願いを避けられず頷く。
「カーナック。これは指に付けて塗りこめばいいものだろうか」
「はいヴァシュリンガー様、量はありますのでしっかりと塗りこみます」
「勿体ないと量を少なくすると、余り意味はありません」
フロリアンは俺の手の中にある小瓶を再び取り返すと、馬油を救って自分の手に付ける。
油で光っている手を何度も揉み込むと次第に、油の光もなくなって来る。
「なるほど」
「フロリアン、手を出してくれ」
「アクティム様。それでしたら自分が……」
「いいから」
イルチが太ももにいる為に、遠くまで手を伸ばせない。
素早くフロリアンの手を取った。
そして片手で馬油を掬う。
白く濁ったその油はどちらかというと固形物に近いが、体温で直ぐに柔らかくなる。
俺はその油をフロリアンの手の甲に乗せると、そのまま指で伸ばし始めた。
「あ、あのアクティム様。あ、あの……」
戸惑うフロリアンを無視して、塗りこんでいく手指の観察をする。
ひび割れてささくれ立っていた手の皮が次第に湿気を帯びていく。
指の股や、指先、爪も塗っていく。
馬油は俺とフロリアンの体温によって溶けて、次第に伸びが良くなっていく。
手の皮がささくれ立つと、どうしても白く見えてしまうが、次第に健康的な肌色を取り戻してくる。
心なしか、指の腹にも弾力が出てきたような気がする。
「これは凄いな」
フロリアンのまだ塗っていない手と見比べて、段違いの張りとつやだった。
そのまま、もう片方の手にも塗りこんでいく。
「これは全身にも使えるんじゃないか?」
フロリアンの手を揉み込みながら、カーナックに聞く。
「はい。全身に使えます」
「髪に使う時は、少し温めて液体に近いようにしてから、髪に流して櫛で梳きます」
「一度の塗りこみでは、直ぐに吸収してしまうので、毎日毎日何かしらの折に手や足の裏にも使うといいと思います」
「フロリアン……」
「アクティム様。あ、あの足はどうかご容赦下さい」
「手に塗って下さっただけで結構です」
珍しくフロリアンが強く拒絶した。
両手を胸に抱くと、足を隠す為に座りなおす。
「そうか。それは済まなかった」
「しかしノイシェーハウにはこういうものは無いのだろうか」
「ノイシェーハウは植物油を使います」
洗濯従僕のマイェナー・クルフタ―が会話に加わってくる。
見ると従僕達も集まって来ていた。
「でもどちらかというと、植物油は手入れをするというより、汚れを落とす役割の方が強いですね」
「石鹸で洗いますが、植物油で手入れをすると更に毛穴の奥の汚れも取れます」
「それは羨ましいですね」
「ツァジン家では植物油は採れないので、お食事で使う事が出来れば幸いの高価なものです」
カーナックがマイェナーの発言に返してくる。
どうやら俺を飛ばして女性同士の話になってきた様だ。
しかしここに新しい可能性を感じる。
俺はマイェナーに会話を促すと、マイェナーの手に馬油を塗り始めた。
これだけの変化があるとちょっと楽しい。
一通り従僕と使用人の話を聞きながら、手に馬脂を塗ってやると、人それぞれに特徴がある事がわかった。
これだけ優雅な振る舞いをしていても、従僕という仕事は厳しいものなのだろう。
やはり皿洗い従僕フロリアンと洗濯従僕のマイェナーの手が一番荒れていた。
石鹸を使うから、手が一番カサつくそうだ。
そして、会話に加わらない従僕がいる事に気が付いた。
応接従僕のテューレルツ・マネだった。
「テューレルツ。お前にも塗ろうか」
俺が声をかけると、あからさまに困った顔をしていた。
「どうした?」
「申し訳ありませんアクティム様。どうにもその家畜の臭いが苦手で」
尻尾を貨車の床を叩きながら手を鼻に持っていく。
【ブバスティス】には匂いがするらしい。
という事は【うたうもの】も匂いがするのか?
隣に座るレディ=マホを見ると、やはり顔には出さないが、何かを我慢していた。
俺は馬油の匂いを嗅いでも無臭に感じた。
「蒸留してから固めているので、匂いはしないと思うのですが……」
カーナックも困惑している。
「テューレルツはどんな手入れをしているんだ?」
「【ブバスティス】といいますか、私は花の油を使います」
「それの方が匂いが良いですから」
テューレルツが小瓶を出す。
女性はこの類の物は必需品なのか。
俺はそれを受け取って、匂いを嗅ぐと確かに花の香りがした。
俺はおもむろに、馬油の瓶の中に少し花の油を垂らす。
「あ、すまん、テューレルツ。勝手に使ってしまった」
テューレルツが目を輝かせている。
見ると従僕と使用人も目を丸くしている。
「アクティム様。それとてもいいです」
テューレルツの顔が綻ぶ。
そして他の女性陣も喜んだ。
「無臭の油より、華やかな花の香りがした方が嬉しいですね」
「花の香りがする植物油で体を清めて、花の香りがする馬油で体の手入れをする」
ヴァルクミューレがまとめてくれる。
なんだか顔つきが物凄く真剣だ。
「そういうのが欲しいのか?」
従僕と使用人は一斉に頷いた。
これは売れる。
それから俺はテューレルツの油を貰って、隣に座るレディ=マホの手入れを行った。
【うたうもの】も【ブバスティス】も肌が露出していないから、中面の羽毛と毛に撫でるように付けていく。表面に馬油はいらないそうだ。
そして人間の櫛より細かく、短い櫛で梳いていく。
肌が露出している部分は、馬油の方がいい感じだった。
ただ、俺はその個所を直接見る事は出来ない。
服の下にあった。
唯一見る事が出来たのは目の周辺の皮膚だった。
「馬油では、直ぐに他の領家や商人も真似してくるな」
「どうしようか……」
商品の製造方法などは秘密にしなければならない。
「まあ、美の滴が一番抽象的で、秘匿しやすいだろうな」
ツァジンと会社の共同商品の名前が決まった。
※
【ツァジン家領中東部・サシーナ駅】
蒸気機関の効果はすぐに出た。
馬車と違い、ひと時も休まず走り抜ける。
欠点と言えば、貨物を運ぶ無蓋貨車なので、長時間風に当たると体が冷える事だった。
途中の昼食は、先行していた馬車群が近くの集落から労働者を雇って、温かいスープを用意していた。
蒸気機関は止まらずに、スープとパンと食器を受け取る。
食べ終えた食器はそのまま砂礫砂漠に落とす。
後で保守の傍ら回収するそうだ。
俺は車上で書いた手紙を、昼食を用意した会社の人間に手渡し、ツァジン支社長とメルジヴァク・ツァジン様に渡すようお願いした。
内容は馬油の買い付けだ。
商売の内容をプシャノボに告げる。
当初の予定通り3倍で原料を買い付けてノイシェーハウに送る。
そして花の香りを付けて、ノシイェーハウや他領の人間に売る。
勿論、ツァジン領の女たちにも植物油を「汚れ落とし」として売る。
これでツァジン家だけが儲かる事はない。
輸送は会社が独占する。これで俺達は儲かる。
顔に傷のあるプシャノボが凄みのある笑顔を向ける。
流石ですな、若旦那。と。
そして日が暮れる頃に、次の駅のサシーナ駅に着いた。
もうツァジン領の中部まで来ている。
速度は遅くとも、休まない事の威力を思い知る。
直ぐに兵が天幕を張り始める。
今日は天幕は【うたうもの】に明け渡し、開いたスペースを交代で兵が眠る事になっていた。
ホリオンに詫びると、昼間兵はやる事が無いからちょうど良いとの事だった。
俺は駅長に案内されて、会社用の宿場で泊まる。
レディ=マホとカーナック、従僕と俺でキツキツだった。
護衛騎士は玄関広間で眠る予定だった。
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次回 鉄竜 戦訓
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